山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


石仏

七曲峠から国見山10

塔の森のすぐ隣、楠本大神の古びた手水舎、上の図柄は龍だろう、下は牙を剥く虎に見えなくもない。明治38年と彫られていた。塔の森を後にして、先程の分岐へと戻る。塔の森から国見山まで25分と表示されていたが、実際の所要時間は23分だった。


こちらが分岐地点。ここから先、少し登りが続き、フィックスロープが張られていた。滑りやすいので注意だ。


急坂を登り詰めると、三等三角点があった。点名は長谷“ながたに”と読む。標高は666mと、6の数字が3つ並ぶ。


国見山を目指して歩く。泥かけ地蔵から国見山へのルートへの分岐地点だ。塔の森を経由しない場合、こちらが近い。


ようやく、国見山の山頂に到着。かつて、都祁村と奈良市が合併する前までは、奈良市の最高峰だった。680m。私は奈良市在住なので、当時、奈良市の最高峰ということで、地形図には表示がない、この山に登った。(2005年10月16日) 尚、現在の奈良市の最高峰は、貝ヶ平山822mである。


6月13日(木)20:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

七曲峠から国見山9

地元のおじさんと分かれてすぐ、ヤマトカントリークラブの入口に到着。道標によると、国見山に登るには、この県道186号をまっすぐ進み、途中で右折すればよいが、この日は、塔の森を経由して国見山へ登るので、ゴルフ場の中を歩くことになる。道標の左後方には、石仏が鎮座されていた。


こちらが、その石仏。泥かけ地蔵と呼ばれる双仏石は、阿弥陀と地蔵菩薩を刻んだもので、泥をかけて祈願すると子宝に恵まれるという。


立派な笠石だ。


ゴルフ場へと続く車道を歩く。ゴルフ帰りとみられるクルマとすれ違う。みなさん、立派なクルマに乗っておられます。これは、エゴノキ。自宅近辺では、花は終わっている。流石に山間部なので、開花が遅いようだ。


ヤマトカントリークラブの建屋の前を通る。道標はないが、山へ入るには、こちらだろう、と、道標を発見。クマザサが生い茂る坂道を登る。下草は刈り取られていたので歩きよい。やがて、国見山と塔の森の分岐に到着。まず、塔の森へ行き、分岐に戻って国見山へ行く。画像が塔の森の十三重石塔。解説板によると、奈良時代のもので、かつては、二重基壇の上に建つ六角十三重石塔だったが、現在は、六重の笠石が重ねられている。春日石と呼ばれる柔らかい石で造られているため、風化破損が甚だしく、周囲には断片が散乱していた。 


6月12日(水)22:33 | トラックバック(0) | コメント(8) | 石仏 | 管理

七曲峠から国見山8

墓地で見た宝篋印塔。お寺には、長谷観音講福住支部の古めかしい看板が掲げてあった。真言宗豊山派の末寺のようだ。


本堂の裏にも、埋もれたお不動さんが。


下之坊寺を後にする。七曲り道ハイキングコースの道標と、「普光山寺」と、寺号の刻まれた標石。


畑に植えてあった。田舎ではよく見る。ゼニアオイという名前。N氏に教えて頂いた。


県道186号に出た。少しだけこの県道を歩く。歩き出してすぐ、地元のおじさんに声をかけていただいた。「どこから、来なさった、おまえさんたち」から、始まって、天理市の要請で七曲の道の整備のお手伝いをしたことを語られた。我々は今日の山行予定の一部始終を語ったが、下山が鹿野園の西、護国神社と聞いて、日が暮れない内に、辿り着くのか、とでも云いたそうな、怪訝な顔をされたが、当たらずとも遠からずだった。護国神社バス停発19:01のバスに乗ったので。


6月12日(水)21:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

七曲峠から国見山7

下之坊寺へ到着。ここへは以前クルマで来たことがある。目当ては杉の巨木だった。その杉が、いきなり目の前に現れる。夫婦杉と呼びたいところだが、婆羅門杉(ばらもんすぎ)と呼ばれている。案内板によると、“本尊十一面観音立像が聖武天皇と婆羅門僧正の合作と伝わることから婆羅門杉と呼ばれている。”そうだ。


正面に回ると、石段の横、斜面の地中に半身埋もれた不動明王像が祀られていた。


それにしても、巨大だ。圧倒的。


ここで我々は少し遅い昼食を摂ることになる。こちらは弁財天。


お寺に隣接する墓地で撮影した。左手に薬壷(やっこ)のようなものを持っているが、薬師如来でもなさそうだ。


6月12日(水)21:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

七曲峠から国見山6

こちらのお地蔵さんも、ユニークな笑顔をされている。やはり、石仏は笑い顔がいいな。


なんか女性っぽいイメージだ。目が涼しい。


男の子っぽい、おかっぱ頭が人間みたい。


選り取り見取りです。皆さん、私には好意的に接してくれそうに見えるけど。


七曲峠を後にして下之坊寺へと向かう。すると、前方から、何人か歩いて来られた。一家揃って、これからお墓に参られるようだ。こんにちは。右から二人目のお父さんは塔婆をお持ちのようだ。子供さん夫婦×2と、男性が一人。仲が良さそうなご家族です。


6月11日(火)23:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

七曲峠から国見山5

沢沿いに続く山道を歩く。チャルメルソウが咲いていた。ジメジメとした湿地に生える。安物のデジカメでは、これ以上接近して、マクロ撮影が出来ない。


暫く歩くと、道標が立っていて、旧道との分岐地点だった。旧道は閉鎖されていて、旧道に踏み込まないように、道標が立てられていたようだ。このあたりから、七曲の名前の通り、クネクネと九十九折に登る。しかし、長くは続かず、上空が見えてきたら、七曲峠に到着した。


こちらは説明板。


この二つの大きな石は、棺台として使われたのだろう。つまり、この上に棺桶を置いた。正面にはご遺体を受け取るお地蔵さんが鎮座されていて、後を振り向けばお墓、これで役者は全て揃った。


このお地蔵さん、土に埋もれているようだが、何ともよいお顔をされていると思う。夢に出てきそうだ。


6月11日(火)22:56 | トラックバック(0) | コメント(2) | 石仏 | 管理

七曲峠から国見山4

七曲がり道ハイキングコースの道標をあちこちで見るが、どれもこれも七曲峠から下ってくる人を対象にしており、登る人向けは一つもなかった。そして、ここで少しウロウロすることになる。名阪国道の下を潜って七曲峠へ行くトンネルの場所が特定出来なかったのだ。つまりトンネルは幾つかあって、どのトンネルが七曲峠へ繋がっているのか、わからなかった。画像は地図を見てああだ、こうだとお話されているお二人。


今年のお初だ。ホタルブクロ。後にも先にも、今日はこれ一つしか見なかった。


T氏が斥候となって、トンネルを潜ったが、彼の記憶違いも幸い?して、どれが、本来潜るべきトンネルなのか、わからない。結局、3本トンネルがあって、一番北にあったトンネルが正解だった。画像がそのトンネル。トンネルの入口付近で目を皿のようにして探したが、七曲峠を指す道標はなかった。


トンネルを出ると、明らかに下草が刈り取ってあって、ハイキングコースとして整備された道だとわかり、道標がなくともこの道に違いないと思った。左後方に名阪国道を走るクルマが見える。


画像は倒木が片付けられ整備された七曲がり道ハイキングコースを歩くお二人。


6月11日(火)21:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

七曲峠から国見山3

寿福寺の門前で、七曲がり道(ななまがりどう)ハイキングコースの道標を見た。矢印は南の方向を指しており、N氏は、以前からこのハイキング道がどこへ繋がっているのか、気になっている様子。やがて、名阪国道の陸橋を上に仰ぎ見て、薬師橋の下を潜る。この先、新しい道が出来ているようだ。以前は、田んぼのあぜ道程度だったとか。


これは、ニワトコだろう。それにしても沢山実をつけている。時季早々という気がしないでもない。


以前、お二人が歩かれた道は、消滅に近かったようで、車道を歩いているうちに、不動の滝の道標を見た。階段になっていて、すっかりハイキングコースとして整備されたようだ。いかにもお不動さんが祀ってありそうな沢沿いの急坂を登ると、磨崖仏としてお不動さんを見た。光が不足していて、おまけに距離があるので、安物のデジカメでは上手く撮影できない。こちらは携帯の画像だか携帯の方が綺麗に撮影出来ることもある。尚、この磨崖仏の右に梵字が彫ってあって、薬師を意味するとN氏から聞いた。


ここ数日、雨が降っていないのに、沢の水量がそこそこある。大和高原から川になって流れ落ちているのかもしれない。画像は沢で作業をされていた地元の方。


再び、薬師橋へ戻ってきた。北方向へ歩く。米谷町の集落がよく見える。この集落の外周を名阪国道が通っているのだ。


6月11日(火)20:27 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

七曲峠から国見山2

この植林された小高い山は、“庵山”(あんやま)と呼ばれ、かつて庵寺と呼ばれたお寺があったという。画像は急斜面を藪コギして、ようやく山頂の平坦なところに出たT氏。


これが、庵山双石仏(磨崖仏)だ。表情が素晴らしいではないか。特に左の阿弥陀。この山の裏側の下に人家があって、犬がけたたましく吠えまくっていた。


暫く、石仏とご対面していたが、あまりゆっくりも出来ないので、ここからの退却ルートを思案する。登ってきたコースは、道なき藪コギだったが、なんとかもう少しマシなルートがないか探索してみた。最初、東方向に薄い踏み跡が見えたので、これを辿ったが、降りるルートはなかった。後でわかったことだが、この先、東へ進むと、段差があり、それを乗り越えたら、まともな踏み跡があった。しかし、その時はわからず、南方向へ下ったが、登りより、少し歩きやすい程度で、たいして変わらなかった。ズルズルと滑りながらも、急斜面を下って、農道に出た。画像は東方向に伸びていた薄い踏み跡。左下に見えるのは民家の庭。ここへは降りられない。


農道に降り立ち、道なりに進むと、尾根への取り付きらしき踏み跡があったので、私一人で探索してみた。すると、シイタケ栽培をされていて、その先、先ほど引き返した段差の上に立っていた。画像は尾根への取り付き。


道なりに東へ歩き、分岐から北方向へ歩く。すぐに、上ノ坊寿福寺の前に出た。今日は拝観せず、このまま素通りする。


6月10日(月)23:20 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

七曲峠から国見山1

6月9日(日)は、Webサイト「石仏の辻」のウォーキングイベントの一つ、「歩く・石仏の辻」 http://sekibutuwalk.blog99.fc2.com/ の下見として、「七曲峠から国見山」に参加した。この企画の本番は10月14日(祝)に予定されている。前日、気温がグングン上がったので、この日は真夏日を想定していたが、終日、曇り空で、若干蒸し暑い程度だった。参加したのはN氏と私、T氏の3人で、GPSトリオの揃い踏みだ。バス便の減少により、奈良市米谷町バス停からアプローチし、名阪国道の地下道を潜って、七曲峠に登り、国見山から鉢伏峠を経て鹿野園に下った。

コースタイム
近鉄奈良駅バス停8:51発660円-(39)-9:30米谷町バス停-9:41石灯篭・道標-9:50庵山(あんやま)・双石仏(磨崖仏)10:03-10:25上ノ坊寿福寺前-10:27薬師橋-10:38不動石仏10:55-11:20名阪国道地下道入口探索-11:45名阪国道地下道-11:57旧道分岐-12:15七曲峠・受取り地蔵-12:43下之坊(昼食・T)13:32-13:54県道186号-14:01泥かけ地蔵-14:19ヤマトカントリークラブ前-14:22山道取り付き-14:37国見山分岐-14:40塔の森・十三重石塔14:46-14:49国見山分岐-14:53三等三角点(長谷)-15:04下之坊分岐-15:09国見山15:29-15:57茶畑・展望地-16:23桜巨木-16:44県道186号-16:59県道80号-17:11鉢伏峠分岐-17:16東金坊地蔵尊17:26-鉢伏峠-17:39地蔵菩薩-18:37奈良佐保短期大学前-18:38護国神社・T-18:49護国神社バス停19:01発220円-(14)-19:15JR奈良駅バス停 ★飲み会:魚民JR奈良駅前(参加2人)

集合場所が近鉄奈良駅と自宅から近い。8時51分発のバスなので、菖蒲池駅発8時27分に乗ってもよかったが、西大寺駅で下車し、駅中にあるスーパーマーケット成城石井で昼食の弁当(幕の内500円)を買うことにした。なので、一本早い電車に乗る。いつもご一緒するM氏によると、コンビニの弁当は高くて不味いということなので、一度、試してみようと思った。結果、まったくその通りで、コンビニの幕の内弁当(398円)とは価格差(102円)があるものの、それ以上に美味しく、これから弁当はここで仕入れることにしたい。尚、西大寺店の営業時間は7:00-22:30。西大寺駅で電車待ちをしているとN氏が現れた。画像は最近、菖蒲池駅南口にオープンしたコンビニ。従来は北口にしかコンビニはなかった。



8:51発米谷町(まいたにちょう)行きのバスはやや小型だった。乗客は少なく途中から我々3人だけになった。バス賃660円は安くはないだろう。米谷町のバス停付近は小さなターミナル状になっている。付近を見渡すと、かつては、大和高原から奈良盆地へと至る古道が通じていた山間の農村というイメージだ。大きな屋敷の家が多い。今日歩くコースは、下見ということになっているが、私以外のお二人にとっては、お馴染みなのだろう。画像は乗車したバス。米谷町バス停にて撮影。


まず、バス停から南方向へ少し歩き、すぐに、分岐を東へ歩く。テイカカズラの花が咲いているが、もうピークを過ぎたようだ。この花は有毒なので、安易に花を取ったりしてはいけない。名前の由来が面白い。
「和名は、式子内親王を愛した藤原定家が、死後も彼女を忘れられず、ついに定家葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説(能『定家』)に基づく。」



やがて、右に工場のような建物が見えるが、操業しているのかどうかわからない。工場跡なのかもしれない。更にその先の右に石灯籠があって、道標を見た。「右 なら かうりやま(こおりやま)」 左はわからない。


左の畑の中に分け入り、その前方にある植林された山に取り付く。山に道はなく、歩きよいところを選んで藪コギする。画像は植林された山に分け入ろうとするN氏。


6月10日(月)22:00 | トラックバック(0) | コメント(4) | 石仏 | 管理

仮称萱生峠付近の萱生道探索

2013年5月19日(日) 曇り後雨
先週の日曜日、3人で竜王山不動石仏と萱生道の探索を行ったが、心残りのことが一つだけあった。
それは、私が自分の中で萱生峠と思っている地点から東南に向かって続く踏み跡(萱生道と推定)を辿ってみたかったのだ。ところが、意外にも、このことは、今日、実現することになった。先週、ご一緒したN氏から金曜日の深夜にメールが入り、N氏も同じように、気がかりなところを、歩いてみたいという内容だった。“渡りに船”なので、ご一緒させて頂くことになった。N氏が気がかりだと思われたことは、不動石仏へ、もっとたやすく辿りつく道がないか、探索したいとのこと。
今日は天気予報では、午前中曇り、午後3時から雨だったが、予報通りの天気となった。しかし、早い時間帯に切り上げたので、雨にはほとんど遭っていない。朝、多少のアクシデントがあったものの、ほぼ予定通りの時間に、山中へ分け入った。その結果、二人とも、“こうあるのでは”という予測に反する現実となった。つまり私の場合は、萱生峠と思っている地点から東南に向かって続く踏み跡(萱生道と推定)を辿ってみたが、その先は急斜面となっていて、歩いている時は、道が崩れた可能性もあると思っていたが、帰宅してから、山地図を見ると等高線の間隔が極端に狭く、その先は城址から西に続く沢筋に出合っていた。この沢筋は何年か前に道なき道を辿って城址に出た沢筋であり、とても萱生道とは思えない。
更にここで一つ気になることが出てきた。それは萱生道の定義だ。私が知った萱生道は、竜王山北城址から麓の萱生へと続く山城への道としての萱生道であり、これとは別に、リヤカーで薪を運搬したり、山仕事や生活道としての萱生道は、所々違っていた可能性がある。画像は今日撮影した竜王山不動石仏。尚、石仏の前に見える蝋燭立てと小皿は、私が先週、積もった落ち葉の中から見つけ置いた。



画像中央、葉っぱの上に乗っているのは、山ダニである。不動石仏の前で食事後、N氏が発見した。注意したい。


5月19日(日)23:36 | トラックバック(0) | コメント(4) | 石仏 | 管理

竜王山の不動石仏と萱生道

2013年5月12日(日) 私の中で、かねてより懸案となっていた、竜王山の不動石仏の所在と、萱生道の探索について、この日、事態は一機に進展、解決する運びとなった。このことについては、不思議な縁のようなものを感じる。今となれば、お不動さまが、私たちをお呼び下さったとしか思えない。「いつまで、グズグズしているんだ、私はここに居る。早いとこ、私の前へ現れよ」画像は文字通り、火焔光背を放つ竜王山不動石仏。「の~まぁくぅ さ~んま~んだ~ ば~さぁらだ~ せんだん ま~かろしゃだや そはたや うんたらた かんまん」

そして萱生道。不動石仏から続く萱生道を下ったが、途中、“ヤスンバ”とみられる平坦な場所から下は、倒木はもとより、堆積した落葉、生い茂る藪笹、クズやヤマフジなどの蔓が複雑に絡まって行く手を塞いでおり、さながらジャングルの様相を呈していて、予想通り麓まで辿り着くことは出来なかった。しかし、麓からの取り付きの場所を知り得たことや、城址へ至る行程の8割から9割は踏破できており、当初の目当ては完全に達した。これもあれもT氏と、当日、飛び入りで参加頂いたN氏のお陰であり、改めて感謝申しあげる次第です。竜王山不動石仏の印象は、予想以上に大きく立派なもので、そのお姿、お顔を決して忘れることはないだろう。その為にも、最低一年に一回は、潅木の伐採や下草刈りを兼ねてお参りすることが必要だと思う。奇しくこの日は母の日であり、野山は新緑が映える頃だが、毎年、この日の前後に、お参りすることも一考かとひそかに思った。(萱生は私の母の出里)



5月13日(月)20:12 | トラックバック(0) | コメント(7) | 石仏 | 管理

飛鳥駅から甘樫丘経由で高家へとその5

途中、石仏や石碑に立ち寄りながら下る。画像は今井谷川に沿って下る御一行様。


振り返ると、音羽山がずっしりとした山容を見せる。


やがて、分岐で安倍文殊院へは寄らずに、桜井駅へ向かって直進し、旧多武峰街道を歩く人たちと分かれた。私たちは予定通り安倍文殊院へ。家内によると、家内が子供の頃、安倍文殊院はすべて無料で入れたという。今は、境内は自由だが、仏像などは拝観料が必要。


画像は「史蹟 文殊院西古墳」の入口に立つK氏と、右でしゃがんでおられるのはH氏。尚、古墳の中には、石仏があった。古墳と石仏との関係は知らない。


こちらは、桜井駅近く桜井市谷で、信号待ちしていた時に立ち寄り撮影した石仏。線香のにおいが残っていて、ご近所の方がお参りされたのだろう。この石仏、下の四面にも仏様が彫られていた。桜井駅で一旦解散後、有志6人で反省会に行くことに。桜井駅近くの白木屋は5時開店で、まだ30分程度時間があったので、八木駅の白木屋へ。その後、北和に住む4人は西大寺駅まで一緒に電車に乗り、T氏を除く3人が新大宮駅前のジャンカラで1時間、カラオケを楽しんだ。おしまい。


4月30日(火)19:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

飛鳥駅から甘樫丘経由で高家へとその4

時間は正午を過ぎた頃で、葛城山、二上山、畝傍山などが望める斜面に腰を下ろして昼食タイムとなった。予定では昼食は、この先の春日神社だったが、眺めもよく、昼食には適地だろう。尚、下見の時もここで食事だった。メンバーの中には、日差しを避ける為に、展望に背を向けて食事をされる方もおられた。画像は田んぼの脇に咲いていたハルジオン。


昼食後、春日神社に向かって歩く。途中、庚申さんを祀ったところに寄って、来た道を戻る。この先、道は分岐となり、右へ行けば、最奥の人家で行き止まり。左の山道を歩く。暗い竹林の中に続き、右上に廃屋を見る。


やがて、奈良盆地の北西が望める開けた場所に出るが、右手に石灯篭と磨崖仏がある。磨崖仏は、途中で作るのをやめたかのような印象を受けるが、長い歳月で風化したのかもしれない。


この先、元は三軒の人家があったが、今は右奥の人家のみ住んでおられるらしい。道は一旦、下りとなって分岐を経て再び登り返す。庚申さんと役行者の石仏を見る。この先は、かつて飛鳥民俗調査会の代表をされていた某先生のお宅である。急斜面を登りきって春日神社に到着した。


春日神社で休憩後、桜井駅に向かって後は下るのみ。アスファルトの道は、歩いて楽しいものではない。かなり歩いたと思った頃、ようやく今井谷の八講桜に到着。葉桜となっていたが、桜が咲いていることをイメージして見た。周りの雑草が刈り取られ、以前と比べ手入れが行き届いているように見えた。


4月30日(火)19:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

飛鳥駅から甘樫丘経由で高家へとその3

亀石から、一旦、引き返し、交差点を渡って甘樫丘へ向かう。芝生広場を経て、やや登り道となるが、たいしたことはない。すぐに川原展望台に到着、少し休憩する。ここから尾根伝いに北へ歩く。やがて甘樫丘展望台に到着。展望はこちらの方がよい。画像は左からT氏、N氏とM氏、O氏とH氏、そしてM氏とYさん。甘樫丘で撮影。


こちらは、甘樫丘展望台から東方向の眺め。眼下に飛鳥坐神社、その上に高家の集落、そして後方には龍門山地の北端に位置する音羽三山が連なる。甘樫丘展望台から万葉歌碑を見て、階段を降りる。トイレ休憩を挟んで車道を歩き、飛鳥川に架かる橋を渡る。水落遺跡を右に見送り、飛鳥坐神社に向かって東へ歩く。


途中、森酒店で、T氏が清酒を購入した。以前、下見に来た時は、店が閉まっていたのか、記憶が定かではないが、T氏が自販機でワンカップ酒(220円)を買ったが、味はイマイチだったようで、今回は画像右の飛鳥(720ml 1400円)を買い求めた。お酒の味が、よくわからない私でさえ、この酒は美味しいと思った。民家の庭先に咲くオオデマリの花が美しい。白より緑の花がやんわりとしたカンジで良いと思う。


やがて、「右 岡寺」の道標を見送り、飛鳥坐神社へ。少し休憩し北へと歩く。茶粥懐石、飛鳥鍋の看板が掛かった店を左に見送って東へと方向を変え、八釣の集落へ入っていく。飛鳥周遊歩道の道標が立つ横に石仏がある。可愛いお顔をされていて、愛嬌がある。雲の上に乗っているように見える。


こちらは、石仏の後に植えられていた芝桜にとまるアゲハチョウ。


4月30日(火)16:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理


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