山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


石仏

太子道(筋違道)22

初層には薬師「バイ」、釈迦「バク」、弥陀「キリーク」、弥勒「ユ」を表す四梵字が彫られている。画像は薬師「バイ」。


こちらは釈迦「バク」。


損傷が激しいが、弥陀「キリーク」と思われる。※弥勒「ユ」は撮影せず。


相輪と呼ばれる最上部に置かれる部分は明らかに元のものと違っている。宝篋印塔の笠に見えてしまう。また、全体的にアンバランスとなっている。元は十三重石塔だったらしいが、そうだとすると合点がいく。


阿形の狛犬。彫りが浅く力が入っていないように感じる。


7月11日(土)21:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)21

このピンク色の卵のかたまりは、外来種のジャンボタニシで、農林水産省により有害動物に指定されている。


右手に杵築(きつき)神社の鎮守の森とおぼしき森が見えてくる。


畑にサツマイモが植えられていた。サツマイモと云えば、奈良市のもちいどの商店街の中に、さつま揚げの老舗、「魚万」があって、“さつま茎”の佃煮を買って食べていたことを想い出した。とても美味しい。


安堵町窪田の杵築(きつき)神社に到着。神社の入口に立てられた由緒略記。


略記に記載されていた“推古式古代人造の石塔”。七重の塔となっている。


7月11日(土)21:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)20

植栽されたエゴノキの実。


運動場では少年野球の試合中。応援も賑やか。


時間は12時30分を過ぎており木蔭に入って昼食タイム。お日様が照ると暑い。


昼食後、再び歩きはじめる。次に訪れるのは安堵町窪田の杵築(きつき)神社。


途中の水田では、カブトエビやらホウネンエビやらを観ることが出来た。「ホラ、あそこ、あそこ」、「ここにもいるいる」。


7月10日(金)20:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)19

飽波神社を後にする。道路の左に大道教本部と掲げられた門札。


興味本位で中に入ってみる。後で調べると天理教から分離独立した教団らしい。
※大道教本部のHPより
大道教(生駒郡安堵町東安堵1461)は天理教本部準役員・平安支教会長であった飯田岩次郎(安政5年~明治40年)が明治の中頃、天理教教祖の中山みきの死後から約十年経過した後、天理教から離れて開教した。中山みきの死後、天理教は明治政府の宗教弾圧より急速に国家神道化したが、飯田岩次郎も同じように弾圧され、弾圧を逃れる形で神道大成教所属の教会となった。第二次大戦後の新宗教法により神道大成教から昭和28年5月に独立し、宗教法人大道教及び宗教法人大道教本部教会となった。
http://www2.mahoroba.ne.jp/~daido/



大道教本部を後にし、昼食場所の安堵中央公園へ向かう。


岡崎川に架かる橋を渡る。


ほどなく奈良県安堵健民運動場に到着。中に入る。


7月10日(金)20:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)18

SさんとK氏が太子腰掛け石に座ってツーショット。


狛犬。こちらは吽形。


そして阿形。


拝殿越しに本殿を拝む。


飽波神社の鳥居前で集合写真となった。


7月10日(金)20:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)17

消防訓練は見事で、一斉に拍手喝采となった。


斜めに貫く古道“太子道”を歩く。


見覚えのある飽波(あくなみ)神社に到着。素戔嗚神社とは形が異なるが、この神社にも扁額に笠(屋根)がある。


「國史現在飽波神社」と彫られた石碑。
※コトバンクによると、「10世紀の初頭にまとめられた《延喜式》には、全国で2861の神社、3132座の神名が記載されているが、そこに見える神社を後世式内社(しきないしや)という。また式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり、それらを国史現在社といった。こうした三千数百の神社は、国家が公認した特殊な勢力のある神社で、各地の集落の生活と結びついた神社はさらに多かったものと思われる。」



境内に入ってまず目につく「太子腰掛け石」。休憩するにはもってこいの石。


7月10日(金)20:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)16

こちらがその井戸。樹木や下草が生い茂っており、井戸の蓋を取って中を覗く気にはなれず。


太子道の斑鳩側の基点と考えられる広峰神社を後にする。


湿地に群生していたハンゲショウ。


「太子道」の案内板。このあたりは飽波(あくなみ)神社への中間地点となっている。
※斑鳩大事典 ■太子道と太子学問の道
http://www.d4.dion.ne.jp/~s.kage/n-155.html



丁度、消防訓練が行われている時に消防署前を通りかかった。全国大会出場の垂れ幕が見える。後の建物は安堵町役場。


7月9日(木)20:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)15

広峰神社の説明板。説明書きに記されている慶応三年は西暦では1751年ではなく1867年。また西暦1751年が正しいとすれば宝暦元年となる。いずれにしても間違っている。


牛頭天王(ごずてんのう)社と彫られた石燈籠。火が灯っていた。
※斑鳩大事典によると、「現在の広峰神社は、石段の上の鳥居の中に小さな社があるだけの村社で、成福寺からは真東500㍍ほどにあり、創建は不詳ですが、1598(慶長3)年「安堵社神験記」に、社地は聖徳太子の居られた飽波の宮地に当たるといい、牛頭天王とよばれ、境内に神宮寺の万福寺というお堂がありました。
『安堵町史』には、もと飽波神社の置かれたところで、聖徳太子が父用明天皇の病気平癒と伽藍守護を祈願して勧請した場所とあり、1006(寛弘3)年恵心僧都によって極楽寺(東安堵)が再興された際に現飽波神社に正遷宮された、といいます。鳥居の前の井戸は「太子鏡井戸」といわれ、周辺が旱(ひでり)になっても枯れることはなかった、と伝えられています。このことからも広峰神社は太子道の斑鳩側の基点と考えられます。」



拝殿。


拝殿越しに本殿を拝む。


「業平姿見の井戸」の説明板。前述の斑鳩大事典に記載されている「太子鏡井戸」のことだと思われるが、紛らわしい。


7月9日(木)20:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)14

善照寺を後にし広峰神社へと向かう。南へ200m。


途中、地蔵堂があった。中を覗いたが石仏は確認出来ず。


広峰神社に到着。樹木が生い茂っている。


神社前の民家の庭先にて。クルミらしい。


常夜燈が台座だけとなっている。邑内安全。


7月9日(木)20:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)13

蓮如上人御像。
※Wikipediaによると、「蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第8世。本願寺中興の祖。「蓮如上人」と尊称される。」



多人数で突然押しかけた私達に対し、「何もないところですが、ごゆっくりして下さい」と優しく声を掛けて下さった。お努めがあるようで、この後、出かけられた。


ガクアジサイだが、装飾花が大きくて立派。別の花に見える。


ムラサキシキブの蕾。


私達が境内で騒がしかったのかもしれない。お寺の方が出てこられ、「どのような関係の方たちですか」と尋ねられたので、「石仏の会です」と傍にいた人が答えた。


7月9日(木)20:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)12

お寺の前。水路のある小道。何か魚でも泳いでいるのかな。


小さな金魚を放してあった。


お寺は「浄土真宗本願寺派 龍華山 善照寺」。


境内に入ってすぐに目を引く「冨生(ふしょう)の松」とその説明板。


盆栽を大きくしたような姿。このような松は他ではあまり見た記憶がない。


7月8日(水)20:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)11

行政区は斑鳩町から安堵町東安堵に変わる。これはかなりの巨樹だが、由緒など不明。残念ながら木の名前もわからなかった。


ガクアジサイ。民家の庭先で。


こんなところを歩く。下見をしなければ到底歩けない道。


やがて前方に寺院が現れる。


足元を見ると安堵町の消化栓の蓋。右上のマークは安堵町の“安”をデザインしている町章。


7月8日(水)20:06 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)10

富雄川に架かる「新業平橋」を渡る。


「業平道」の説明板。


新業平橋の橋上から富雄川の下流方向(南西)を望む。


青空とヒマワリ。天気予報の通り、お昼前頃からすっかり天気は回復した。


JR関西線の踏切を横断。正面に見える山は二上山。この方向からは雌岳は雄岳の後に隠れて山の姿は一つにしか見えない。


7月8日(水)19:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)9

白色のムクゲ。


上宮遺跡公園を後にする。公園の隅っこに歌碑があった。


會津八一(あいづやいち)の歌碑。
※斑鳩大事典によると、「いかるがの さとのをとめは よもすがら きぬはたおれり あきちかみかも」。
読み:いかるがの里の乙女は夜もすがら衣機織れり秋近みかも。
歌意:斑鳩里の娘たちは夜が更けるまではた織をしている。秋も近いことだ。1908(明治41)年28歳の田舎の中学の英語の教師八一は初めて奈良を訪れます。法隆寺は今日のようなにぎわいはなく、廃仏毀釈の影響もあり訪れる人も少なく閑散とした村の中にあった。夢殿に近い宿屋に泊まった夜、村を散策する八一は機織の音に心を打たれます。甘酸っぱい青春の思いと古代への憧憬が若い乙女を通して歌い上げています。  



少しだけ田んぼの畦道を歩く。


畑に吊るされたカラスの死骸。これを見てカラスは近づかないのだろう。どのような方法でカラスを捕獲したのか、知りたいものだ。


7月8日(水)19:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)8

付近の案内図。この後、案内図にある上宮(かみや)遺跡公園に立ち寄る。


一箇所に集められ、丁寧に祀られている。まだ新しい。


カボチャかと思ったが少し違うようだ。マクワウリ(まっか)かもしれない。


上宮遺跡公園に到着。トイレ休憩となる。


上宮遺跡の説明板。
※法隆寺iセンターのHPによると、「この上宮遺跡は、平成3年のふるさと創世事業の一環として公園建設された際に確認された遺跡。奈良時代の宮殿クラスの掘立柱建物跡(官衙的な建物跡)、平城宮と同文様瓦のほか井戸跡も確認された。特に瓦は、平城宮でつかわれた瓦と同じ版傷(版は木なので乾燥したりつぶれたりして傷が出来るが、同じ傷ということは、同じ窯で焼いているということになる)をもつものが出土した。そのようなことから、『続日本紀』の称徳天皇が行幸した際に利用されたとされる行宮の飽波宮と考えられるのではないかといわれている。公園自体は「歴史・緑・水」をテーマに、地下遺構の保存に配慮する形で建設された。」



7月7日(火)20:36 | トラックバック(0) | コメント(2) | 石仏 | 管理


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