来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵11 |
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| 青面金剛像の従者とされる三猿(見ざる、聞かざる、言わざるの3匹の猿)。 青面金剛像について下記のサイトに詳しく紹介されていた。 ※青面金剛の庚申塔(北摂みのおの春夏秋冬) 60日に一度回ってくる庚(かのえ)申(さる)の日には、一晩中寝ないで徹夜をする。これを庚申待ちと云う。庚申の日と云うのは帝釈天の縁日である。これは、中国の道教に由来する習俗で、人の身中には三尸(さんし)と云う三匹の虫が住んでおり、帝釈天の縁日の夜、人が眠っている間に、この虫がこっそりと身体の中から抜け出して天に昇り、その人の犯した罪を帝釈天に報告し、帝釈天はそれに応じて、その人の寿命を縮めるので、この夜は眠らないで、虫を抜け出せなくすると云うものである。青面金剛というのは、この三尸の虫を押さえる力を持った金剛童子で、青い顔で憤怒の形相をしている。しばしば、三猿(見ざる、聞かざる、言わざるの3匹の猿)を従者としている。この習俗は平安時代に我が国に伝わって来て、江戸時代に全盛となり、明治になってからもなお行われていた。本来は、この夜は眠らないで身を慎み、夜通し青面金剛をお祭りすべきなのだが、いつしか、夜通し飲み食いして騒ぐ風習に変わっていった。この青面金剛をお祭りしている石塔が庚申塔。これには、「庚申」「青面金剛」「猿田彦」(神道では青面金剛の代わりに猿田彦を祀る)などの文字を刻んだ文字塔と、青面金剛の像を刻んだ刻像塔がある。
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| 畑で見つけたトウガン。これはどちらかといえば夏野菜になるのだろう。
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| 大きくて立派な宝篋印塔。破損もないようだ。
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| 奈良市が設置した説明板。
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| 見事な茅葺屋根。
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10月6日(月)22:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵10 |
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| お寺の参道左に覆屋がある。
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| 地蔵菩薩。磨耗が激しい。
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| こちらは「阿弥陀石仏」。上手く撮影できているが、これはN氏のおかげ。南北朝時代のもの(建武の年号)とされているが確かなことはわからないようだ。
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| 覆屋の隣にある小さい庚申堂。
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| 宝暦六年(1756年)の銘がある青面金剛像(庚申像)。くっきりと浮かびあがっていて素晴らしい。中央左手に持つのはショケラなのだろう。中央右手は剣。
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10月5日(日)18:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵9 |
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| 前方に茅葺屋根が見えるが、これから訪れる青竜寺。
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| 牢屋に見えなくもないが、きちんと分別されていた。これだと新聞紙も雨に濡れない。
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| 南南東方向の山々を撮影。
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| アジサイがまだ咲いていた。日中でもそれほど気温が上がらないのだろう。
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| 青竜寺に到着。左に宝篋印塔が見える。青龍寺の石標の右に見えるのはサルスベリの木。
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10月5日(日)18:52 | トラックバック(0) | コメント(4) | 石仏 | 管理
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来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵8 |
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| 次の目的地、青竜寺に向って歩く。
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| キンモクセイが咲き誇っていた。良い匂いがする。畑の中に植えられていて、剪定はされておらず。放置したまま。
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| 農家の「長屋門」だろう。
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| 紫色の花はゲンノショウコ。
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| 安楽寺を右に見送る。画像は振り返って撮影。
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10月5日(日)18:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵7 |
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| 真平山方向(南)を撮影。中央に位置する山は「立割山」。撮影した場所の近くに奈良市立並松(なんまつ)小学校があるが、この小学校の校歌は、「1.立割山を あおぎ見て 清い流れの 恵みうけ みんな学ぼう 集まって・・・」。尚、並松小学校は開設が明治7年で、来迎寺本堂に仮設開校した。
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| 畑で見たカボチャ。あまり見かけないタイプのようだが。
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| 並松小学校がすぐ近くにあるので、スクールゾーンになっている。この先、都祁山口神社方向(南)へ歩くが、都祁山口神社には参拝せず。
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| 旧家を撮影していると、画像に見える人に「どちらから 来られた?」と、声をかけられた。来迎寺バス停から来ましたと答えた。
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| マウンテンバイクが無造作に置かれていた。
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10月5日(日)18:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵6 |
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| 来迎寺では薮蚊がいたので、蚊取り線香をつけようとしたが、風があってライターの火がなかなか、蚊取り線香につかない。一行は先に行ってしまったようなので、慌てて追いつこうとした。
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| 分岐があったが、ここは右折。田んぼを左右に見て歩くようだ。
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| シバグリ。時間があれば食べてみたかった。
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| 右上を見上げるとお地蔵さんが。
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| 時間もなかったので、撮影だけしておいた。
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10月3日(金)22:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵5 |
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| 板碑。
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| あまり見かけないデザインの石塔。後で知ったが重要文化財。五輪塔ではなく宝塔。N氏によると、相輪の先がなくなっているという。
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| 光線のあたり具合でうまく撮影できないが、独自の彫刻が見える。 ※ネット情報によると「宝塔は花崗岩製。塔の高さは2.5m、塔身は木造を彫った様に細部まで細かく表現され、基壇の正面に銘が刻まれて、「延慶3年(1310年)」の造立。」
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| 宝塔の周りには、驚くほど数多くの五輪塔が見られた。
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| 双体石仏とお地蔵さん(左)。
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10月3日(金)08:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵4 |
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| “下馬”だろう。磨耗して見えにくい。
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| 本堂だと見られるが、工事中であった。
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| 十三重塔。
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| 奈良市が指定している保存樹。コウヤマキ。
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| こちらがそのコウヤマキ。枝打ちされていた。
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10月2日(木)21:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵3 |
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| 椿の実。あまりにも赤いので果物のように見える。それにしても見事に結実している。
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| 長閑な周りの景色。
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| こちらの石仏には清潔な涎掛けが掛けられていた。好感が持てる。
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| これから歩くコースの説明を聞く参加者の皆さん。Y氏はご質問中。
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| 石段を登ろうとしたが、山門の前に通行禁止の案内板が見えたので、右方向へ迂回する。最近はどこの社寺でも、歩いてお参りする人が少ないのか、歩道や特に石段は荒れていて、その一方、立派な車道が完備されている。
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10月2日(木)21:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵2 |
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| このあたりではすっかり稲刈りが終わっていた。
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| 出発の準備を兼ねて小奇麗なトイレで休憩。
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| 受粉が終わってガクがひっくり返ったガクアジサイ。
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| 旧都祁村が設置したと思われる案内板。“村”の部分を消している。現在は奈良市。説明文は途中で消えており残念ながら読めない。
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| こちらの石標も先程の石標とほぼ同じで「唐来朝 御自作 善導大師 多田 来迎寺」と彫られていた。“来朝”とは、来日の意味で、唐から日本へ来た善導大師ということになる。
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10月2日(木)20:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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来迎寺_旧藺生峠_三谷の寝地蔵1 |
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| 2014年9月28日(日)は「歩く・石仏の辻」に参加した。題して「都祁(つげ)から旧藺生(いう)峠を下って三谷の寝地蔵さんへ」。この日訪れた社寺仏閣、石仏の内、来迎寺_青竜寺_西法寺はお初。葛神社_寝地蔵(ネンド)_滝倉はクルマでお参りしたことがある。歩き通したのは、これが初めて。コースは石仏の宝庫と云った趣で、懸念された薮蚊も来迎寺以外では現れず。携帯の蚊取り線香を持参したが不発に終わった。しかし、個人的にはバラの香りには癒されたと思う。
コース・タイム 10:08近鉄大阪線榛原駅北口バス停10:11_10:37来迎寺バス停_10:40来迎寺横トイレ10:56_10:59来迎寺11:09_11:12来迎寺前石仏_11:34青竜寺11:50_11:54葛神社・昼食12:38_12:50旧藺生峠(推定)_13:06寝地蔵(ネンド)13:20_13:22車道横断_13:34道標(右だけ 左いう)_13:48菅原神社13:59_14:20十三仏14:21_14:29西法寺_14:40権現桜_14:55瀧蔵神社_14:58弥勒菩薩石仏_15:10鳥居堂(とりいどう)_15:20県道38号沿い歩き_15:27梵字石碑_15:36天落神六社権現15:38_15:55見廻(みかえり)不動尊_16:07長谷寺山門前_16:24長谷寺駅 ★反省会 16:48白木屋八木駅前店18:05
朝の蛙股池。池の水はすっかり抜かれている。水面に白く泡のように見えるのは小魚の死体。よって付近には悪臭が漂っていた。なんとかしてもらいたいものだ。あやめ新橋に幟が立っているが、10月第2日曜日に開催される大祭(秋祭り)の幟。
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| 榛原駅北口からバスに乗る。
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| 来迎寺バス停で下車。
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| 町の(村の?)理容店。「へあーさろんやまもと」
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| 「唐来朝 御自作 善導大師 来迎寺」と彫られた石標。
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10月1日(水)21:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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矢田山磨崖仏_金勝寺38 |
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| 元山上口駅は駅名の通り、元山上・千光寺の最寄り駅。
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| 近鉄電車で王寺駅へ出て、王将・王寺店で反省会となった。
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| 終了後、王寺駅から生駒駅へ出て、近鉄奈良線に乗って帰宅した。おしまい。
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8月13日(水)20:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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矢田山磨崖仏_金勝寺37 |
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| 本堂(金堂)の右手に祀られている鎮守社。
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| 金勝寺を後にする。来た道を戻り、近鉄生駒線の踏み切りを横断。生駒線は単線。
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| 竜田川に架ける綱架けの神事。
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| 勧請綱の説明板。3で龍神信仰との関わりを説明している。
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| 元山上口駅に到着。
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8月13日(水)20:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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矢田山磨崖仏_金勝寺36 |
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| 磨崖石仏群。中央に二体。右上と右下にもある。 ※金勝寺のHPによると、「右上部の石仏に続いて室町時代から江戸時代にかけて追刻された石仏群。 中央に見える矢田寺型地蔵には「康正二年丙子六月日(1456年)」の造立年号がある。」
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| 「線刻不動明王」。 ※金勝寺のHPによると、「岩壁に刻まれた不動明王像は、自然の風化や苔などで姿が分かりにくいが右手に剣、左手に羂索縄(けんさくなわ)を持って岩座に立つ。右下方に「僧快慶」の銘がある。鎌倉時代、二度にわたる元寇を迎えた鎌倉幕府の命により全国各地の寺社で『敵国調伏』を願って不動像の造立が盛んに行われた。この不動明王像もそのひとつで、当時この磨崖仏の前に護摩壇が組まれ祈祷が行われた。」 ※金勝寺のサイト 「線刻不動明王」の拓本 不動明王図。 http://kinsyouji.or.jp/img/treasure/p09_b.jpg
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| 弁財天だが、池に水はない。 ※金勝寺のHPによると、「当地は古くから龍神信仰があり、山門の前を流れる竜田川には大正時代まで龍穴があった。1200余年前に行基菩薩がこの地に寺院を建立したのはこの地に龍が住むと信じられていたからだと寺伝にある。龍穴は大正時代に鉄道建設のためダイナマイトで爆破されたが、今も毎年一月三日に龍神の化身である雌雄二体の綱を打ち、竜田川に架ける綱架けの神事が残っている。無量寿殿の裏の小さな池にある弁才天の祠は、鎮守社に祀られている清瀧権現とともに、古くからの龍神信仰として大切にお祀りしている。」 龍穴、ダイナマイトで爆破とは。感無量。
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| 十三重石塔。 ※金勝寺のHPによると、「層塔は三重以上の層が多い物で十三重塔まで奇数を持って造立される。仏塔は釈迦如来の舎利を納める為に造られた塔である。下から基礎・塔身(初重軸部)・屋根・相輪で構成される。この塔は高さ3メートル、塔身の四方に月輪を刻み、金剛界四仏の種子を薬研彫する。最上部の相輪が欠損している。鎌倉後期。」
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| 境内で暫く休憩。
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8月13日(水)17:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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矢田山磨崖仏_金勝寺35 |
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| 総門を潜ると正面に本堂への石段がある。右の建物は社務所。
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| 金堂(本堂)。ややこじんまりとした印象。 ※金勝寺のHPによると、聖武天皇の御代、天平十八年(746年)、行基菩薩の発願のより創建。創建当初は十間四面であったが戦国時代の焼き討ちで焼失し、寛文五年(1666年)に仮堂として半分の規模の五間四面の大きさで再建され、現在に至っている。本尊は薬師如来。
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| 本堂の左手、磨崖石仏群を拝見する。画像は磨崖仏「茶々逆修(の石仏)」と説明板。
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| 「茶々逆修の石仏」。 ※金勝寺のHPによると、「不動磨崖仏の下方に船形に彫り込んで像高70cmの矢田寺型地蔵が彫られている。像の脇に「茶々逆修」「天正十四年丙戌卯月二十四日(1586年)」の刻銘がある。興福寺の『多門院日記』によると戦国時代に平群谷を支配した驍将 嶋左近の妻「ちゃちゃ」の逆修供養の仏として造立されたものという。逆修とは生前にあらかじめ自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ることをいう。」
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| 向って左に「薬師如来坐像」。 ※金勝寺のHPによると、「方形の彫り込みの中に像高56cmの薬師像を浮き彫りしている。彫り込みの上にある横穴の柄穴(ほぞあな)には当初は笠石のような雨よけがあったと思われる。」 その右に「宝筐印塔」。 ※金勝寺のHPによると、「宝筐印塔は一切の災難から助かることを願い、塔身部に宝筐印陀羅尼経という経典を納めたことからこの名がある。高さ88cm。相輪部に別の宝珠を載せる。」
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8月13日(水)17:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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