山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


ウォーキング・散策

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停17

いよいよ本丸が近い。


撮影した画像では分かりにくいがヤマユリが所々咲いていた。(赤丸印)


「宇陀門跡」を通過。


「八幡口→400m」分岐に到着。
八幡口(通称)は県道119号線からの登り口。(壺坂口門方向)
コースは「本丸 200m→」へ向かう。



史跡高取城跡 大手道登城案内図
この場所には、高取城の「大手門」がありました。
大手門は「御城門」とも呼ばれ、城内への入り口である「二の門」「壺坂口門」「吉野口門」から城内に進むと、この「大手門」の前でひとつになります。
この大手門が二の丸、本丸への唯一の入口です。
本丸はまさに高取城の中心であり、高取山の最高所(標高583.61m)にあります。
二の丸は高取城で一番広く日当たりのよい平場があり、藩主の屋敷や政庁がありました。
本丸と二の丸からは気象条件により葛城・金剛山の山並みから広大な吉野地域を望むことができます。
本丸まであと少し、がんばってください。
   ここから本丸まで289m 壺阪山駅まで4,484m

つづく。



Sep.13(Fri)06:19 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停16

「矢場門跡」を通過。


更に登る。
やや薄暗い。



「松ノ門跡」。


この先、本丸は右折。


「本丸 360m→」を“470m”に手書きで修正している。

つづく。



Sep.13(Fri)06:15 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停15

「二の門」付近の石垣。
一部崩れかけているところが散見された。(赤三角印)



大手道へ戻る。


本丸まで700m。
あと少し。



「国見櫓→」分岐だが、何回か行ったことがある。
暑いのでカットした。
国見櫓跡は展望が素晴らしいので、初めての人はお薦め。



「←本丸 520m」へ直進。
尚、この分岐から国見櫓跡まで距離120m。

つづく。



Sep.13(Fri)06:11 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停14

付近には石垣が見られるようになる。


すぐに「二の門跡」に到着。


史跡高取城跡 大手道登城案内図
この場所には、高取城の「二の門」がありました。
「二の門」は、三つある城内への入口のひとつです。
門の前には山域では珍しい水掘(池)があり、掘の両端を堤にて堰き止めています。
また、「二の門」へは、この西側り堤の上に架けられた、欄千の付いた橋を渡っていました。
この水掘は大阪湾に注ぐ大和川の支流「高取川」の源流です。
また、大手道と明日香村栢森への分岐点には飛鳥時代の石造物である猿石が置かれています。
ここから本丸まで高低差が約110mあり、「日本一の山城」にふさわしいほかにはない規模の城であったことを物語っています。
   ここから本丸まで872m 壺阪山駅まで3,901m



説明板にある水掘(池)。


近くに寄ってみたが、カエルが飛び跳ねていた。
それほど深いようには見えなかった。

つづく。



Sep.13(Fri)06:08 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停13

「←本丸 860m」の道標。


そして後を振り返ると猿石。
【参考】高取城郭図 (高取町ホームページ)
高取城郭図



高取町指定文化財
猿石(さるいし)
高取城二の門外に所在し城下町に下る大手筋と明日香村栢森(かやのもり)へ下る道筋の分岐点に位置する。
花崗岩製で高さ85cm幅75cm厚さ65cmを測る。
目と鼻は円形で顔面は丸く平坦である。
口元の両端をあげ耳は顔側面の全体にとる。
手は右手をややあげている。
陽物(ようぶつ)らしい表現もみられる。
背中にも表現がみられるが明確ではない。
飛鳥の「猿石」と同様に現在の明日香村平田から掘り出され高取城築城の際に石垣材として運ぶ途中にこの場所に置かれたようである。
飛鳥時代の製作と考えられている。
猿石がのせられている台石は古墳の石材の可能性がある。
     高取町教育委員会



ここは案内板にも記載されている通り「←明日香村栢森 2.0km」分岐となっている。


「八幡宮」「常夜燈」と刻まれた常夜燈の一部が散乱していた。

つづく。



Sep.13(Fri)06:04 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停12

踏み跡が怪しくなり、私が先行することに。
キョロキョロしながら、ようやく到着。
後方で待っていた二人に合図した。

正面に石仏が三体。
その手前に、円錐形の石柱が一対見える。
左上に貼り付けたのは、三体ある内の右端の石仏。
ネット検索すると、役行者とのこと。(?)



三体の石仏の残りの二体。
右は不動明王。
左は獅子に乗った文殊菩薩とされている。
かなり風化していて、古い時代には違いない。
ここには昔、神社があったそうな。



円錐形の石柱には「文政六年癸未 十一月八日」の銘。
左右に置かれており、花立と見られる。



岩屋不動を後にする。
途中、崖のようなところで、岩の一部を四角に切り取ったような跡があった。
足場が悪いので立ち寄らなかったが、そこには磨崖仏が残されているらしい。



大手道に戻り、引き続き高取城跡を目指して登る。
すると、見覚えのある猿石が現れた。(赤四角)

つづく。



Sep.12(Thu)06:01 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停11

「一升坂 (城跡まで約1.1KM)」を示す道標。


一升坂の道標から4分程登ると「岩屋不動」右分岐に到着。
本丸は左。
ここで後続の人達を暫く待つ。
特にこの日参加されていたTu氏が岩屋不動に行きたい意向だったので彼を待つことにした。
ところがなかなか彼が登って来ない。
痺れを切らしていたら、一緒に待っていた人達の内、女性二人が行ってみたいということだったので同行することにした。
私は何年か前に訪れたことがあった。
ザックを分岐に置いて同行の人に見てもらうことになった。



踏み跡を辿りながら進む。
距離120mと表示されていたが、もっと長く感じた。



ここは岩場に山水が流れ出ており足場が悪かった。
私は左の苔生した岩に手を掛けて攀じ登った。



来た踏み跡を振り返って撮影。

つづく。



Sep.12(Thu)05:57 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停10

「←高取城跡」を示す道標。


橋を渡る。


ここにも「史跡高取城址」の標石。


石が散乱する、やや歩き難い登山道。


史跡高取城跡 大手道登城案内図
城下町から城へと登るこの道は、古くは「大手道」と呼ばれ、往時は今より道幅は広く、馬や駕籠が行き交じっていました。
これから長い直線の上り坂が続きますが、この坂は古くから「一升坂」と呼ばれています。
この「一升坂」という名称は、高取城築城の際に、急坂であるため石材を運ぶ人夫に米一升を加増したことによるといわれています。
それほどの難所であったことが、坂の名称の云われとなっています。
ゆっくりとお気をつけて登ってください。
   ここから本丸まで1,154m 壺阪山駅まで3,619m

つづく。



Sep.12(Thu)05:54 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停9

「史跡高取城址」の標石。
この標石は、この先の城跡まで何回か見る事になる。



流石に夏場に低山に登るのは辛い。
今までこの時期に高取城址を訪問したことはなかった。
たいてい訪れるのは秋。カエデの紅葉で知られている。



以前と較べると、周りの植林が間伐されていた。
なので、周囲の見通しがよく、谷間などの地形も分かりやすい。



風がまったくなく蒸し暑い。
足元を見て黙々と歩く。



有刺鉄線で囲われたところが見えたので立ち寄った。
蓋を被せてあったので井戸跡らしい。

つづく。



Sep.12(Thu)05:50 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停8

左の石柱には「新西國大和八十八ヶ所巡?」と刻まれているようだ。
ネット検索したが、ヒットするものは見つからず。
読み方が違っているのかもしれない。“西國”?
右側の石仏が、新西國大和八十八ヶ所の第一番とみられる。(赤四角)
台座の大きさと較べると、不釣合いに見える。
後の時代になって、新しく造られた石仏だろう。

リーダーが到着。
予想通り宗泉寺には立ち寄らず。



史跡高取城跡 大手道登城案内図
いよいよ山登りのはじまりです。
このあたりは別所郭と呼ばれ、高取山中に点在する曲輪(防御陣地など)のひとつです。
植村家の菩提寺(初代植村藩主の邸宅跡)である宗泉寺を中心に侍屋敷の平場が連なっており、曲輪(くるわ)の入口には高取城の一の門である黒門がありました。
黒門跡から本丸までは高低差が約350mあります。
高取城を築城した約400年前、石垣の石を運び上げた当時の人々の気持ちになって登るのも一興。
それぞれの楽しみ方で高取城跡を満喫してください。
   ここから本丸まで1,836m 壺阪山駅まで2,937m



更に4分ほど登ると、同じようなパターンの説明板があった。

史跡高取城跡 大手道登城案内図
これからの曲がりしねった道は、古くから「七曲り」と呼ばれています。
尾根につくられた大手道で、くねくねと曲がっています。
道が曲がっているため、戦の際にはなかなか上へは進めません。
城内には「竹皮」を入れておく「竹櫓」があり、敵の進入を防ぐため竹皮をまきすべりやすくしたり、竹を倒して敵を防いだと伝えられています。
くれぐれも足元にお気をつけて登ってください。
   ここから本丸まで1,704m 壺阪山駅まで3,069m



「史蹟 高取城址」と刻まれている。
この石柱は比較的新しい時代“近代”になって建てられたものだろう。



「七曲り (城跡まで約1.7KM)」を示す道標。

つづく。



Sep.12(Thu)05:46 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停7

上小島沢砂防公園内の東屋で小休止。
ところが、この東屋で休憩をしたのは、私とリーダーの二人だけ。
他の人は、先に行くとのことで、東屋には立ち寄らず。

トイレを済ませ、先に行った人達を追おうとしたが、彼らは目と鼻の先で立ち休憩していた。
日陰だったので、東屋よりこちらで休憩した方が良かったらしい。



ウバユリが咲いていた。(赤丸印)
この金網はイノシシ避けだろう。



この辺りから、高取城への道となる。
「黒門跡」の案内板があった。(赤四角)
この門は高取城へ向かう最初の門となる。
ここから先の内側を“郭内”と呼ぶそうな。
【参考:Search Labs | AI による概要】
郭内(かくない)とは、城郭や遊郭などの囲いの内、または仕切られた地区の内を指します。
郭内の反対語は郭外です。



おっと「立入禁止」となっている。
ここは、以前、訪問したことがあったが、失念していた。
ネット検索すると「島流社」で聖天(天聖喜自在天)さんを祀っていた。
【参考】
島流社 (島の宮聖天)



一応、立入禁止なので、それに従う。
正面には「天台宗 眞各山 宗泉寺」の寺標が建つ。
当初の予定では、宗泉寺を訪問することになっていたが、この日の雰囲気としてはスルーする気配だったのでリーダを待つ。

つづく。



Sep.11(Wed)06:21 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停6

シバグリだろう。
【参考】
シバグリ



民家の石垣にオニユリ若しくはコオニユリが咲いていた。(赤丸印)
石垣だと足場がないので、イノシシは百合根を食べられない。



「七丁」の丁石。


水車茶屋(橙仙花)の水車小屋が見える。
周りの木が生長しているので、僅かに見えるだけ。
また、水車は動いていなかった。
この店はもう営業していないのかもしれない。



ヤブカンゾウだろう。
随分と背丈が伸びている。

つづく。



Sep.11(Wed)06:13 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停5

「馬冷やし」。
江戸時代に出先から帰って来た家臣たちが、馬を洗う泉が湧いていた場所らしい。



ここで先程眺めていた新しい車道を横断し、高取城跡へ向かう。


この先の「↑上小島沢砂防公園 830m」(トイレ利用可)で小休止。
高取城跡までは2.8kmとなっている。



「十丁」の丁石。
尚、観音院跡には立ち寄らない。



「子安地蔵 松巌山長圓禅寺」の寺標を右に見送り、引き続き高取城跡方面へ向かう。

つづく。



Sep.11(Wed)06:09 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停4

「右 觀音院道 是ヨリ 十六丁」。
“觀音院”とは壺阪寺を指すのかと思ったが距離が合わない。
十六丁は、約1.7km。(1丁=109m)
ここから壺阪寺迄の距離は歩くルートにもよるが約2.5~3km。
どうも、上子島(かみこしま)の観音院跡を指しているようだ。
【参考】
観音院(かんのんいん)



松ノ門位置図
高取町の南東部には、標高583.9mの高取山がそびえ、山頂には高取城跡(国指定史跡)があります。
この城は、南北朝時代の元弘2年(1332)ごろ、この地方一帯を治めた豪族・越智氏により築かれた山城で、その後、本多氏などを経て幕末(1868)まで、植村氏の居城となりました。
城は、城内と郭内に分けられ、城内は約1万㎡、周囲約3㎞。郭内は約6万㎡、周囲約30㎞という広大なものでした。
松ノ門は、城内にあった門のひとつで、切妻造・本瓦葺の建物であったと知られています。
現在、城内の楼閣などは失われましたが、石塁などは昔のままの姿をとどめており、中世から近世までの高取の栄華を今に伝えています。
平成16年度 街なみ環境整備事業 高取町(土佐地区)



松ノ門
松ノ門は、高取城内にあった建築物のひとつで図のような門であったとされています。
明治4年の廃藩置県により高取城が廃城となった際、多くの建築物は取り壊されましたが、数棟は移築されました。
その中のひとつ「松ノ門」は、明治25年に土佐小学校の校門として移築されていました。
しかし、昭和19年の火災により一部が焼失したため、解体されたままとなっていました。
現在の門は、地元の熱い要望と当時材を取得保管されていた臼井氏(金剛力酒造株式会社)からの材の提供により、図の朱色部分について復元したものです。
平成16年度 街なみ環境整備事業 高取町(土佐地区)



高取城 移築松ノ門を後にする。
「十五丁」の丁石。



北東方向の眺め。
新しい車道がR169とほぼ並行して通っている。
(R169飛鳥駅前交差点付近→清水谷交差点付近)

つづく。



Sep.11(Wed)06:05 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

土佐街道_岩屋不動_高取城_壷阪寺バス停3

ポーチュラカらしきの左に置かれている赤い花は、マンデビラ・サンデリと見られる。
これも同じような草花が多い。改良品種だろうか。
【参考】
マンデビラ・サンデリ



「観光案内所 夢創館」に到着。
ここで暫く休憩。
係りの人に高取城のヤマユリについて尋ねたところ、丁度、今が見頃という。
また、ヤマユリは群生しておりその数は圧巻で、近年は訪問するハイカーが多いとのこと。
その話を聞いても、私はまだ半信半疑だった。



夢創館を後にして、再び歩きはじめると、右手に「金剛力酒造」がある。
残念ながら入口は閉まっていた。



金剛力酒造の向いに「土佐町大年寄 池田屋伊兵衛 池田邸屋敷跡」の石碑があった。
今までこの道を何回か歩いていたが、この石碑には気付かなかった。
この日は石碑の周囲を地元の人とみられる男性が、綺麗にされていたので気付いた次第。

この石碑とは直接関係がないが、傍に土佐町由来の駒札が立っていた。
【参考】
土佐街道 土佐町



道標。
逆光となり、読み難い。
「右 徒保左か 与し能 道」。
徒→つ、保→ほ、左→さ、与→よ、能→の、それぞれ変体仮名。

つづく。



Sep.11(Wed)06:00 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin


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