山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


ウォーキング・散策

2019年1月1日~2月13日のウォーキング

2019年1月1日~2月13日のウォーキングは下記の通り。
★=自宅近辺 ・=近郊 (当日正味歩いた時間と推測距離)

★1月01日(火) 菖蒲上池近辺 4.9km 1時間15分
★1月02日(水) (疋田町)三輪神社近辺 3.2km 43分
・1月03日(木) 箕面山_六個山_五月山_ひょうたん島コース 山を登る会 16.9km 3時間54分
★1月04日(金) 大渕池公園近辺 8.1km 1時間38分
・1月06日(日) 竹内街道(古市~大泉緑地) おおばこの会 20.8km 4時間48分
★1月08日(火) 大渕池公園近辺 5.5km 58分
★1月09日(水) 秋篠寺近辺 7.3km 1時間31分
★1月10日(木) 尼ヶ辻・学園前コース 8.9km 1時間50分
★1月11日(金) 尼ヶ辻・学園前コース(続) 7.9km 1時間39分
・1月13日(日) 銀峰_雌岳_原岳_麻呂子山_馬の背 山を登る会 14.2km 5時間2分
★1月14日(月) 石切参道買い物 9.2km 1時間57分
★1月16日(水) 尼ヶ辻・学園前逆コース 11.1km 2時間22分
・1月17日(木) 多武峰から高家を経て生田 14.3km 6時間4分
★1月19日(土) 蛙股池周辺 7.5km 1時間38分
・1月20日(日) 近鉄酒蔵みてある記(御代菊)+日本橋周辺 18.8km 4時間37分
★1月22日(火) 宝来町近辺 5.6km 1時間15分
・1月24日(木) 長尾街道4(當麻寺_忍海) ササユリの会 14.6km 3時間26分
・1月26日(土) なにわの熊野街道(天満橋_阿部野橋) 土曜会 14.4km 3時間13分
・1月27日(日) 旧摩耶道_学校林道_摩耶山_木の袋谷北尾根_杣谷 山を登る会 19.5km 4時間37分
・2月02日(土) 近鉄酒蔵みてある記(豊祝) 16.5km 4時間1分
・2月03日(日) 洛西観音霊場4(卒台寺_正覚寺) こばこの部 14.4km 3時間25分
・2月07日(木) 多武峰から北山を経て今井谷 20.8km 5時間19分
・2月10日(日) 七福思案処_東山山頂公園_清水山_四つ辻 山を登る会 18.0km 4時間8分
・2月11日(月) 江包・大西のお綱祭り 11.0km 2時間27分
★2月13日(水) 追分梅林 9.7km 2時間8分

現在、
・1月24日(木) 長尾街道4(當麻寺_忍海)
を連載中。



2月15日(金)18:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

なにわの熊野街道(天満橋_阿倍野橋)

2019年1月26日(土)は土曜会に参加した。
タイトルは「なにわの熊野街道(天満橋~阿部野橋)を歩く」。

<概要>
以前から大阪のど真ん中に通じている熊野街道を歩いてみたいと思っていた。
きっかけは京阪電車が発行している「京阪沿線 ウォーキングまっぷ 大阪市内編 熊野街道コース(天満橋→住吉大社)を見てから。
京阪のウォーキングまっぷ

ところが機会がなく、わざわざ一人で歩くほどでもないと思っていた。
そんな時に土曜会のコースに出てきたので“渡りに船”。

熊野街道のスタート地点は天満橋。
その昔、都の人々は淀川を船で下り、天満橋から熊野に向かって歩き始めた。
京阪のウォーキングまっぷでは、天満橋から住吉大社までがコースとして紹介されている。

熊野街道(熊野古道)とは

熊野古道は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に詣でるための道でした。
熊野は古くから聖地とされ、厳しい道を越えて熊野に足を運ぶことで、来世の幸せが叶うという信仰が生まれました。
さらに江戸時代には、紀州藩が石畳、道標などをつくり、熊野街道としてますます歩きやすく整備されました。

2004年7月熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が、世界遺産に登録されました。
長い時を経て周りの景色は変われども、今なお熊野街道の様々な軌跡が大阪市内に残ります。
歴史のロマンを感じつつ、古人の道筋をたどり、歩いてみましょう。
(以上、京阪のウォーキングまっぷ より)

この日は主宰者(N氏)の時間の都合で、途中の阿部野橋まで歩いた。
歩行距離は約6.9kmと短めだったので、社寺仏閣などゆっくりと観ながら歩くことが出来た。
昼食をアベノ地下街で済ませその後解散した。

「山を登る会」に代表されるように、ただ黙々と歩くのみ、というのも一つの歩きのスタイル。
今回のようにのんびりと歩くのも一つのスタイルで、私としては一つの形に限定することなく臨機応変に歩きたいと思っている。

<コース>
地下鉄谷町線天満橋駅9:33_大阪キャッスルホテル前_八軒屋浜船着場跡_土佐堀通出合_案内板(熊野かいどう)_土佐堀通を西へ_日刊工業新聞社大阪支社前_土佐堀を左折(南)_坐摩神社行宮(ヰかすりじんじゃあんぐう ざまじんじゃあんぐう 窪津王子跡)_北大江公園前_長光寺前・石柱(維新史蹟 贈正四位僧月性龍護遺跡 長光寺)_東横イン天満橋大手前前_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から0.5km)_中大江公園前_日本キリスト教団大阪東教会前_阪神高速13号東大阪線の高架下を潜る_石柱(← 太閤下水見学施設)_説明板(太閤下水(背割下水))_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から1.1km)_南大江公園・水呑地蔵尊・説明板(朝日神明社跡(坂口王子伝承地))_石碑(熊野かいどう)_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から1.3km)_説明書(榎木大明神の栞・榎木大明神の由来)・文学碑(直木三十五(直木賞)「南国太平記」より)_長堀橋通(R308)を横断 御祓筋を南へ歩く_大大阪藝術劇場前_左折して空掘商店街を東へ歩く_旧ヤム邸前_谷町筋を横断_大衆食堂スタンド そのだ前_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から2.1km)_右折(南)_大阪キンキ前_大阪市立上町中学校前_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から2.4km)_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から2.9km)_天王寺上汐郵便局前_大阪市立生魂小学校前_天王寺郵便局前_まるはちあられ_天王寺警察署前_谷町筋を南へ_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から4.1km)_四天王寺前夕陽ヶ丘駅前_説明板(四天王寺・椎寺・夕陽丘)_旧町名継承碑(椎寺町)_寺標(妙覚寺)_大阪市立大江小学校前_四天王寺 はやうち(蕎麦)前_四天王寺・中之門・融通地蔵尊・地蔵山_堀越神社前_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から4.7km)_赤松種苗前_あべちか入口7_12:00とんかつ KYK アベノ地下街店(昼食)12:45_12:53天王寺駅

<メモ>
・参加者総勢: 9名。
・コース歩行 (天満橋駅~天王寺駅までの所要時間と距離)
 歩行距離: 約6.9km。
 所要時間: 2時間19分。
・当日歩行 (自宅~自宅までの歩いた時間と推測距離)
 推測距離: 約14.5km。(0.67m×21,607歩=14,476m)
 歩行時間: 3時間13分。
 歩数: 2万2千歩。
・昼食: とんかつ KYK アベノ地下街店

画像は地下鉄天満橋駅からJR天王寺駅まで歩いたGPSログを表示。



榎木大明神。
大阪市中央区安堂寺町2丁目3。

榎木大明神の由来

長年に亘り、地元の人達に「エノキさん」「巳さん」と親しみ呼ばれているこの大樹は、正しくは「槐(エンジュ)」という中国原産の樹である。
楠木正成公がお手植えという説もあり、樹齢はおよそ六百五十年と言われている。
豊臣の時代には当地も大阪城域で、この辺りは紀州熊野参りとお伊勢参りの街道筋だった。
だから大きくそびえるこの樹は、何よりの目印になったし、また地元の人達は土地神として、「白蛇大明神」の祠を建てて、代々この樹をお守りしてきた。
昭和二十年(一九四五年)第二次世界大戦の大空襲の折りには、襲ってきた猛火がこの樹の辺りでぴたりと止まり、東側一帯が危うく類焼を免れた。
これも霊験のひとつとして語り伝えられており、毎年春のお彼岸前後には、地元「箔美会」(はくびかい)の人達により、榎木大明神の大祭が挙行されている。
昭和六十三年(一九八八年)、当樹が枯死寸前の状態になったとき、大阪市と「箔美会」からの依頼を受けた山野忠彦樹医の適切な延命治療により、再び元気をとりもどした。
そして現在、樹勢は極めて盛んとなり、地元で生誕され直木賞で有名な直木三十五氏の文学碑とともに、都心のオアシスとなっている。
平成六年(一九九四年)十月吉日 榎木大明神 箔美会



大大阪藝術劇場。
大阪市中央区谷町6丁目17。

古い町屋の残る空掘(からほり)地区に明治時代の長屋を改装したフリースペース。



こちらは素人寄席、空堀亭「ふくびき寄席」。
大大阪藝術劇場横の蔵で行われた模様。
入場無料。



融通地蔵尊。
四天王寺境内。

逢坂清水と融通地蔵尊(右)
大阪府有形文化財 地蔵菩薩立像(融通地蔵)

この井戸は逢坂清水の井戸と呼ばれ、もと一心寺の門前西、逢坂の途中にあったが、明治の末、電車道が開かれる道路工事のため融通地蔵尊と一緒を四天王寺の地蔵山に移された。
『摂津名所図会』に「清冽にして四時(四季)増減なし。茶に可なり」との記述がありどんな日照りが続いても、いつも同じような清水をたたえ水枯れせず茶の湯にも適した名水だったことがわかる。
現在は枯れているが、天王寺七名水のひとつである。

おしまい。



2月14日(木)18:43 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)23

先の説明書にあった竜山石(たつやまいし)を使用してつくられた蓋石(ふたいし)。


屋敷山古墳出土の竪穴式石室天井石

これは、屋敷山古墳の被葬者を長持形石棺に納め安置した、竪穴式石室の天井石の一つです。
大きさは、長さ3.4m、幅1.2m、厚さ30cmで、両端には各1個の縄掛突起がつくり出されています。
兵庫県高砂市で産出する、竜山石と呼ばれる凝灰岩で製作されています。葛城市教育委員会



縄を掛けた突起部分。


屋敷山公園を後にする。
画像の建物は葛城市民体育館。



県道30号線を横断する地下道を歩く。
地上は横断禁止。



2月13日(水)18:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)22

屋根のある休憩所があった。
昼食場所として適当かどうか様子を見に行く。



石の階段を登る。


休憩所には大勢が座れる場所があって、眺めもよかったので、ここで昼食となった。


歩いて来た方向を振り返って撮影。
右の建物は葛城市中央公民館。

昼食後、公園内を観て回る。



史跡 屋敷山古墳

葛城市内で最大の規模(全長 135m以上)をもつ前方後円墳です。
古墳の周囲には周濠がめぐらされ、墳丘上には埴輪が立ち並んでいたと考えられます。
出土した品々から、この古墳が造られたのは5世紀中ごろと推定されます。
埋葬施設は、竜山石(たつやまいし 兵庫県高砂市産)を使用してつくられた蓋石(ふたいし)をもつ竪穴式石室で、内部には竜山石でつくられた長持形石棺(葛城市歴史博物館にて展示)が安置されていました。
竜山石は、当時の大王など有力者のみが使用できた石材と考えられ、この古墳の埋葬者が葛城地域の有力な王であったことを想像させます。
『古事記』『日本書紀』にもその名を残し、天皇と親戚関係を結んで大きな権力をもった、古代の大豪族「葛城氏」にかかわる人物が、この古墳に葬られたと考えられます。
1972年(昭和47)に、国の史跡の指定を受けて、周辺も含め屋敷山公園として整備され、現在の姿になりました。葛城市教育委員会

屋敷山古墳 墳丘復元図
全 長:135m以上
後円部径:約77m
後円部高:約15m
前方部幅:約90m

その後の屋敷山古墳の利用(慶長八 (1603)年の絵図による)
平安時代から室町時代にかけて、葛城市南部を本拠とした布施氏の「里の館」として使用されました。
また、江戸時代初期には、新庄藩(2万石)を治めた桑山氏が「陣屋」として使用しました。
「屋敷山」の名称は、これらのことに由来しています。



2月13日(水)18:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)21

屋敷山公園は広大な公園でよく管理されている。
この日は公園の整備が行われていた。



池に架かる橋を渡る。


シダレサクラ。
開花したら見事だろう。



池には噴水が設置されている。


新庄城址の石柱が立つ。
この日は工事中で立入禁止。



2月12日(火)18:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)20

県道30号線の歩道を歩き柿本川に架かる橋を渡る。


葛城市新庄、歩道橋の下を潜る。


昼食場所、屋敷山公園の案内板。


屋敷山公園には、元は屋敷山古墳があり、後世、墳丘の上に城(新庄城)が築かれた。
現在は付近一帯が公園として整備されている。

画像は墳丘の一部が崩れ落ちたと見られ整備されていた。



コミュニティバス屋敷山公園バス停前を通過。
この路線は一日五本運行されている。



2月12日(火)18:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)19

太神宮と彫られた常夜燈。
“太神宮”の文字は、最近着色されたようだ。



紅梅が開花し始めている。


大峯山の常夜燈も。


新しい車道に出合い、これを右折。(西)


県道30号線、中戸鈴原交差点を左折。(南)


2月11日(月)18:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)18

「老人ホーム当麻園」西の道を南へ歩く。


いかにも旧道らしい辻に出合う。
正面、蔵のある家の前に墓石のような道標らしき石造物が見える。



道標。
「左 かうや よしの つ本゙坂 道 / 文化十癸酉年 十一月下旬 世話人 × / 爲太田村南久蔵」。



引き続き長尾街道を南へ歩くと、南阪奈道路(R166)の高架が現れる。
高架の下、太田東の交差点を横断。



太田川に架かる“くぼばし”を渡る。


2月11日(月)18:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)17

長尾街道を南へ歩くと突き当たって三叉路となる。
三叉路の北西角に道標と太神宮の常夜燈が置かれていた。

道標には「右 大坂 さかい 道 世話人 ×土撰 / 文政六未八月年立之」と彫られている。



端整な常夜燈。
「太神宮 / 金毘羅大権現 / 春日社 / 文化六己巳年×」と彫られていた。
左後方にも一基の常夜燈が見られる。



二基の常夜燈は良く似ていたので同時に建てられたものかもしれない。


「文化六己巳年×」の記銘がある。


三叉路の南側正面に建つ茅葺屋根の民家。
撮影した画像は逆光となっている。



2月10日(日)18:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)16

松と柿を接木した部分。


現徳寺境内から金剛山地を望む。


このお寺もロウバイが咲き始めている。


現徳寺を後にして長尾街道を引き続き南へ歩く。
画像は旧當麻町時代のマンホール。
二上山と當麻寺の東塔と西塔に旧當麻町の花のボタンが描かれている。
「たいま」「げすい」の表示。



綺麗に敷かれた砂石の中に石柱か見えたので立ち寄る。
「遥拝所」と彫られており、側面には「大正四年御即位式記念」。
大正天皇即位の礼を記念したものだ。(大正4年11月10日に京都御所紫宸殿で行われた)



2月10日(日)18:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)15

自然石の道標の右上に指のような絵図が彫られている。
右方向を示している。



離れた位置から道標を撮影。
水路の中に置かれている。



現徳寺の山門。
右に「蓮如上人御遺跡」と彫られた石柱が見える。
蓮如上人(れんにょしょうにん)の遺跡があることから浄土真宗。



現徳寺 本堂。


松柿の案内板。

「保護樹木・松柿」
蓮如上人がお立ち寄りになった時、松の木を台木に柿の小枝をお接ぎになったものといわれ、松の木膚の柿の木という珍しい木。
奈良県保護樹木(松柿)



2月9日(土)18:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)14

西方向の眺望。
周りに高層建築物がないので見通しが良い。
後方、V字形の谷は岩橋峠、その右のピークが岩橋山658.8m。



北西方向の眺望。
二上山の雌岳(左)と馬ノ背を挟んで雄岳。
雌岳の手前の山塊は原岳375m。



伊邪那岐(いざなぎ)神社、石鳥居の横に置かれていた五重塔。
凝灰岩と見られる。風化が著しい。



現徳寺

南側の現徳寺には昔、蓮如上人がこの寺に立ち寄られ、境内地にあった松の木を台木に柿の小枝を接木され「今、汝にすすめる阿弥陀の本願が虚妄(きょもう)ならば、この接木も空しくなる。実なれば栄え繁盛する。」といわれました。
この松に柿を接木した霊木は今も実を結んでいます。
また、この柿の実を食べると腹痛が治ると伝えられています。



来た道を長尾街道へ戻り現徳寺へ向かうが、自然石の道標が見られた。
「本朝二十四孝伊麻石碑 是より十間西にあ里 / 安井清三郎石工寄附」。



2月9日(土)18:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)13

石鳥居と常夜燈があるが付近に神社はない。
これはここから西へ500m程度先にある伊邪那岐(いざなぎ)神社の鳥居。
この日は伊邪那岐神社にはお参りせず。
石鳥居と常夜燈には後で立ち寄った。



玉垣で囲われた石碑と立派な説明板が見える。


石碑には「孝女碑」と刻まれている。


説明板。
「本朝二十四孝 伊麻女の史跡 並びに 孝女於伊麻畧傳」

葛城市のサイト によると、『今市物語』の主人公、孝女伊麻の誕生の地とされており、天保11年(1830)2月に、伊麻女の孝養を顕彰し、この碑が建立された。
題して『孝子の碑』といい、伊麻女の事蹟がくわしく刻まれている。
孝女伊麻は父の長右衛門に孝行の限りを尽くした人で、この物語は『今市物語』として書き記されている。
竹内を訪れた松尾芭蕉も伊麻の話を聞き當麻寺に詣で、孝女への感心の思いを友人への手紙に書きつづっている。
地元では財団法人伊麻旧跡保存会を設立し、碑の保存と顕彰に努めている。



ここには葛城市コミュニティバスの「伊麻公園前」停留所がある。
一日に四本バスが運行されている。(8:36/9:40/14:23/17:03)

どこのコミュニティバスでも同じだが、地域住民の利便性向上等のために運行されている。
観光客が利用するには無理があるが、いずれにせよ、私達は自分の足で歩くのでめったなことでは利用しない。



2月8日(金)18:23 | トラックバック(0) | コメント(5) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)12

地蔵菩薩像。
地蔵堂に安置されているお地蔵さんではなく、お堂の左前、祠の中に祀られていた。



道標を兼ねたお地蔵さんで、台座に「法界菩薩 地蔵尊 つ本゙坂へ三里」と刻まれている。


今市地蔵堂を後にし、引き続き長尾街道を南へ歩く。


オウバイ。
ウメの花が咲く頃、同じように開花するのと、黄色い花の形がウメに似ているから“黄梅”という名前になった。
ウメの木の仲間ではなく、ジャスミンの仲間。中国原産。



何回か訪れている見通しのよいところへ出た。
ここだけ道路がとても広い。
カラー舗装されており、ウォーキングコースになっている。歩行者専用道ではない。



2月8日(金)18:22 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

長尾街道4(當麻寺_忍海)11

葛下川に架かる虎橋を渡る。
暗渠になっていた。



今市地蔵堂に立ち寄る。


「大磯虎女旧跡地」と彫られた石柱。


「大磯虎女の旧跡」

「和州葛下郡今市地蔵尊略縁起」によると、この地蔵院は富士野の仇討で有名な曽我十郎祐成(すけなり)に愛された大磯の虎女に始まります。
建久四年(一一九三)、弟の五郎時致(ときむね)とともに曽我兄弟は、苦節十八年の末、父の仇を討ったものの討死(うちじに)し、空しく草葉の露と消えました。
これを悲しんだ虎女は、出家の後、この草庵にわび住まいし、十郎祐成の供養をしました。
当大字南今市には、虎女が架けた「虎がはし」という橋が残されています。
また、この地蔵院には虎石というのがあり、虎女の墓印であるといい伝えられています。



右は庚申塔。
左が虎石だろうか。案内板はなし。



2月6日(水)18:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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