太子道(筋違道)8 |
|
| 付近の案内図。この後、案内図にある上宮(かみや)遺跡公園に立ち寄る。
| |
| 一箇所に集められ、丁寧に祀られている。まだ新しい。
| |
| カボチャかと思ったが少し違うようだ。マクワウリ(まっか)かもしれない。
| |
| 上宮遺跡公園に到着。トイレ休憩となる。
| |
| 上宮遺跡の説明板。 ※法隆寺iセンターのHPによると、「この上宮遺跡は、平成3年のふるさと創世事業の一環として公園建設された際に確認された遺跡。奈良時代の宮殿クラスの掘立柱建物跡(官衙的な建物跡)、平城宮と同文様瓦のほか井戸跡も確認された。特に瓦は、平城宮でつかわれた瓦と同じ版傷(版は木なので乾燥したりつぶれたりして傷が出来るが、同じ傷ということは、同じ窯で焼いているということになる)をもつものが出土した。そのようなことから、『続日本紀』の称徳天皇が行幸した際に利用されたとされる行宮の飽波宮と考えられるのではないかといわれている。公園自体は「歴史・緑・水」をテーマに、地下遺構の保存に配慮する形で建設された。」
| |
|
7月7日(火)20:36 | トラックバック(0) | コメント(2) | 石仏 | 管理
|
太子道(筋違道)7 |
|
| 阿波神社を後にする。
| |
| クルマ一台がギリギリ通れそうな狭い道。
| |
| 妙覚寺前を通過。
| |
| 石作りの郵便受けが目を引く。
| |
| 成福寺跡に到着。金網のフェンスが張り巡らされており、境内への立入は出来ない。画像は「太子道」と彫られた道標(石碑)。
| |
|
7月7日(火)20:35 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
|
太子道(筋違道)6 |
|
| 素盞嗚神社を後にする。神社の周りには旧家が見られ道は狭い。
| |
| 東へ2分ほど歩くと阿波(あわ)神社に到着。
| |
| 涎掛けを外した阿形。涎掛けがしてあった部分は黒ずんでいない。
| |
| 足先や渦巻きも精巧に彫られている。
| |
| こちらは吽形。顔に地衣類が付着している。
| |
|
7月7日(火)20:35 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
|
太子道(筋違道)5 |
|
| 何やらSさんが石灯籠の後に向かう。その後を追うF氏。
| |
| 盃状穴(はいじょうけつ)。この石灯籠だけに見られた。他の石灯籠には確認出来ず。
| |
| この巨樹はケヤキに見えるが違っているかもしれない。
| |
| 社殿は奈良県指定文化財になっている。
| |
|
| 素盞嗚神社のご由緒。 ※境内の案内より 重要文化財 興留 素盞嗚神社 この社の主神は素盞嗚命(すさのおのみこと)を祀られ創紀由緒は不詳であるが「興留」地名の起こりとされる天智天皇(六七〇年頃) の頃の貴人・興間人王子(おきまびとのおうじ=後の天武天皇)の宮殿内(興留五丁目一・二・四付近)に祀られていた神々を遷座されて旧指定村社となっていたのが現在の神社と伝えられています。 社殿は春日造一間社にして桧皮葺・向背付朱塗で様式上室町末期と推定され中世社殿の著例として昭和四十四年三月奈良県指定文化財に認定されています。 尚 当神社には貴重なる文化財として語れるものがございます。 一、石燈籠 本殿右側の三社前に建つ 貞享二年(一六八五年五代将軍綱吉が生類憐みの令発布) 壱基 貞享三年(一六八六年) 壱基 二、獅子・狛犬 横に広い顔・奥に引込んだ目・大きく深い彫りの巻毛・流れ毛は獅子(阿形)は前へ靡き、狛犬(吽形)は後ろへ靡く、力強く躍動的な姿体である。 獅子台座正面の「奉」の右払いの先端は十四糎もの深い彫りである。 裏面には「作師照信 花押」とあり、狛犬、台座の「献」も深いものである。 裏面には「安政四年丁巳九月日」(一八五七-アメリカのハリスが下田に着任した頃)が刻まれている。 作者は「村上照信」通称「丹波の佐吉」と言われ天才的技能に長じ、狛犬をはじめとし石灯籠・石仏・道標など多岐に及んでいる。 三、奉納絵馬 拝殿に沢山掲げられている中に西南戦争(一八七七~)の薩摩軍の西郷隆盛と幹部の描かれた二枚の絵馬がある。
| |
|
7月7日(火)20:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
|