山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2015年8月12日を表示

京都トレイル④(ケーブル比叡_戸寺)16

浄土院の手前に立つ道標。浄土院を観た後、釈迦堂・にない堂へと向かう。


西塔の配置図。椿堂、にない堂、釈迦堂、居士林研修道場を経て、横川方面に向かう。


浄土院(伝教大師の御廟)の説明板。

※ここは比叡山の開祖、伝教大師最澄上人のご廟所で、比叡山中で最も清浄な聖域です。大師は一生を大乗戒担院の独立に捧げられ、弘仁十三年六月四日(八二二)中道院に於て、五十六歳で入寂されました。弟子の慈覚大師円仁が、仁寿四年七月(八五四)この地に中国五合山竹林院を模してご廟所を建立し、大師の御遺骸を祀り、以来ご廟を守る僧侶を侍眞といい、一生山を降りない覚悟で昼夜を分かたず、厳しい戒律のもとに身心を清浄にして、生身の大師に仕えるように、今も霊前のお給仕に明け暮れしています。またご廟前玉垣の辺りには、沙羅双樹と菩提樹が植えられ、極楽浄土の雰囲気がかもし出されています。侍眞は、早暁より薄暮まで勤行と掃除勉学修行に励んで、十二年間山を降りない籠山修行の内規に則って、生活しています。



正面の門から境内を観る。唐門の扉、菱格子の模様が目につく。


正面の門から築地塀に沿って左に進むと、参拝者入口の門があって、門の入口に「浄土院御廟」という表札が掲げられており、その下に、何故、浄土院と称するのかが説明されていた。

「宗祖傳教大師ノ創建ニシテ御自作ノ阿弥陀佛ヲ安置ス故ニ浄土院ト称ス 弘仁十三年六月四日大師入滅ノ後御遺骸ヲ此所ニ葬リ廟堂ヲ建立ス萬治四年徳川家光公之ヲ改造セラル」。



8月12日(水)22:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル④(ケーブル比叡_戸寺)15

山王院堂を後にする。石段を降りて、正面に見える奥比叡ドライブウェイに架かる陸橋を渡らずに右へ。


左の道標、「← 法然上人 廿番霊場 黒谷青龍寺 十三丁」。
右の道標、「← 元三大師霊場 本覺院 是ヨリ六丁 」。

※青龍寺、Wikipediaによると、「比叡山延暦寺は東塔、西塔、横川(よかわ)の3地区に分かれ、それぞれがさらに「○○谷」と称される小地区に分かれる。これらを総称して「三塔十六谷」というが、これらとは別に、「三塔十六谷」に含まれない「別所」が2か所(黒谷、安楽谷)ある。青龍寺はこのうちの黒谷別所に位置する。黒谷は西塔の釈迦堂から北に約1.5㎞離れた山中である。青龍寺の位置は京都府・滋賀県境にまたがる比叡山の京都市側にあり、行政区分のうえでは京都市左京区八瀬秋元町に位置するが、住所の表示は延暦寺と同じく「滋賀県大津市坂本本町4220」となっている。開基は天台座主良源(慈恵大師、通称元三大師)と伝える。」



「傳教大師御廟道 → 是より一丁」。


この先、長い石段を下る。


石段を下った正面に見えたのが浄土院。


8月12日(水)22:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル④(ケーブル比叡_戸寺)14

山王院堂の説明板。

※詳しくは法華鎮護山王院といい、第六祖智証大師圓珍の住房で後唐院ともいった。千手観音を祀るので千手堂とか千手院の名でも知られるが、圓珍座主の滅後百年、圓珍派と慈覚大師圓仁派の学僧の間に紛争が起こり、圓珍派はここから智証大師圓珍の木像を背負うて大津三井寺(園城寺)へ移住したといわれる。このお堂は歴史上きわめて重要なお堂です。



趣のある石段を登る。


山王院のお堂。「山王院」の表札の下には、「本尊千手観世音菩薩」「六祖智証大師円珍御住坊」と記されていた。


宝篋印塔。宝永三年(1706年)建立。


空海だろう。どういうわけかお堂の横に置かれていた。


8月12日(水)22:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル④(ケーブル比叡_戸寺)13

延暦寺の境内に入る。いつの間にか京都府から滋賀県に入っていた。


マルミノヤマゴボウだろう。


北山No.6の道標が現れる。ここは左折し奥比叡ドライブウェイに架かる陸橋を渡る。直進は東海自然歩道で、根本中堂0.6km、ケーブル延暦寺駅1.3kmとなっていた。


橋の下、奥比叡ドライブウェイを走るクルマ。


橋を渡った正面が山王院堂(さんのういんどう)。この先ルートは左だが、石段を登って山王院堂に立ち寄る。


8月12日(水)22:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理


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