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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年1月16日を表示

高槻初詣と摂津峡21

神服神社、中門。


本殿。


神服神社を後にする。住所表示は宮之川原元町10となっていた。
カイヅカイブキ(と思う)の巨樹に出会う。刈り込みされており、よく手入れされている。



高槻文化教室の前を通り、「聞力寺」に到着。“もんりきじ”と読む。


「聞力寺」のご由緒。

聞力寺は、安養山と号して、真宗大谷派に属する。阿彌陀如来を本尊とし、慶長十七年(一六一二)の創建と伝えられる。
 境内に立つ石碑は、天明年間(一七八七前後)に京都の伏見で寒天づくりを学び、城山で試作に成功した宮田半平翁を顕彰して、大阪府等二府一県の寒天水産組合が建立した。翁の功績により、高槻の寒天づくりは飛躍的に発展し、海外へも輸出するほどであった。
 しかし、時代とともに生産は減少し、現在では市内で数軒となっている。
 昭和六十三年二月 高槻市教育委員会



1月16日(土)21:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

高槻初詣と摂津峡20

「西方浄土極楽入口」からは急坂となり大きく下る。クルマでお参りする時はこの道を登ることになる。この日は霞んでおり遠望は利かず。


高槻市のマンホールの蓋。

日本マンホール蓋学会高槻市のマンホールのサイトによると、

高槻市の木、ケヤキと市の花、ウノハナ、摂津峡をデザイン。



神服(しんぷく)神社に到着。


神服神社のご由緒。

平安時代以来の延喜式内の古社素盞鳴命・火之速日命・麻羅宿禰の三神を祭る。
この地和名抄にいわゆる「服部郷」で諸国の織部の部民を統括した服部連の居住地である。傳承では允恭天皇の時麻羅宿禰が織部司に任ぜられたというから八・九世紀のころ服部氏の氏の神を勧請しあわせて民族の始祖をその本貫の地に祀ったのが創祀である。当時は「服部神」と呼ばれのち、醍醐天皇の延喜年間(一〇世紀初頭)神服神社と定められ現在に至っている。
維新以前、神佛混交の時代には安岡寺の社僧が執務したが、明治初年これを廃し同五年には郷社に列した。
また近世には農耕・養蚕の神として村民の信仰厚く、社前の鳥居は延宝六年(一六七八)雨乞いの祈願成就の折建立されたもの。祭礼は毎年五月五日古くは棒振りの神事があり、神輿は阿久刀神社までお渡りがあった。
氏地は広く、塚脇、宮の川原、浦堂、大蔵司、西の川原を含む旧服部村一円にわたっている。



拝殿。


1月16日(土)21:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

高槻初詣と摂津峡19

由来にある「金銅聖観世音菩薩立像」。


中央におわすのは、阿弥陀如来坐像だろう。


安岡寺のご由緒。

安岡寺は、南山と号する天台宗系の単立寺院で、如意輪観音を本尊とする。宝亀6年(775)に光仁天皇の子、開成皇子が建立したと伝えられ、本堂の背後の岡に、大般若教600巻を一石に一字書写して安置したことから、安岡寺般若院と称するようになったという。
 戦国時代には、三好氏や高山氏の兵火にあい荒廃したが、江戸時代の寛文年間(17世紀後半)に良盛が再建、大日坊など4塔頭をかぞえ、大いに栄えた。しかし明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、現在は、本堂や鐘楼堂、院号の由来となった般若塚、青梅観音堂などとなっている。
 本堂には、本尊のほか愛染明王坐像、不動明王像、地蔵菩薩像などが安置され、青梅観音堂には、千手観音坐像が祀られている。この観音坐像は、青梅観音ともいわれ、真上(まかみ)にあった安正寺の本尊であったが、廃寺に伴って当寺に移された。檜の一本造りで漆箔がほどこされ、像高137cm、平安時代初期の作とみられ、昭和49年6月に国の重要文化財に指定されている。
 当寺で毎年2月1日に行われる大護摩供では、大峰山の行者や訪れた人々らが焼けた丸太の上を素足で歩き、無病息災や交通安全などを願う。
 平成20年3月 高槻市教育委員会



境内の様子。正面に鐘楼。右奥が青梅観音堂。


安岡寺を後にする。大きなワンちゃんが「西方浄土極楽入口」でお見送り―笑。


1月16日(土)21:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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