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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年1月9日を表示

高槻初詣と摂津峡6

この日(3日)、ふるまわれたのは「芥川」で地元高槻西田本店。


この酒樽は2日にふるまわれた「白真弓」飛騨蒲酒造場。


絵馬堂に掲げられていた「日露戦役凱旋記念」奉納。明治四拾年二月二十三日。


こちらは「皇太子殿下 良子女王殿下 御成婚記念」奉納。大正拾参年壹月。


御輿庫に立ち寄る。


1月9日(土)19:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

高槻初詣と摂津峡5

野身神社と宿祢塚(すくねづか)古墳、車塚古墳の説明板。

野身神社と宿祢塚古墳

 土師器(はじき)と呼ばれる素焼の壷や皿は祭祀用に用いられ、これらを製作する土師氏を率いる族長がノミ〔祈み]のスクネ(直の根)と呼ばれ神に対する直系の長を意味する。 この日神山を北端として、東西一キロ南に三キロの地域は野見郷と云いその族長が葬られ連綿と祭祀された。九二七年に制定され始めての法体系ともいうべき延喜式の神社台帳ともされる「神明帳」に記載されている神社を式内社とするが、野見宿祢を祀るのは四社(三河、尾張、因幡、及び当社)しかなく弊社の原点ともいうべき古社である。 そして明治十二年以降かなりの間、この全域は、古名野身神社が正式名称であった。 日本書紀の説話をもとに相撲の神様としての伝承も定着している。

車塚古墳

 この天神山(日神山)には南北に四つの古墳が築かれている。 境内に二つの古墳があり、その一つが宿祢塚(野身神社)あと一つは参道を下り交差点を左に折れ、急な小坂をあがったところにあり、前方後円墳とハッキリ解る。 この古墳は元来当社境内地であったが、道路建設の為分断された。 猪狩りの様子をあらわした動物埴輪が並んでいる。現在のものは模型であり、生捕りの狩は角力の原義を示し巫女の角笛も見られ全国唯一の角笛埴輪である。 立寄って頂き野見宿祢とのゆかりをしのんでいただきたい。



社殿。


境内のご神木。遠目ではクスノキに見えたが違っているかもしれない。


梅の古木。


お正月三が日は絵馬堂で神酒がふるまわれた。


1月9日(土)19:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

高槻初詣と摂津峡4

この灯籠は倒壊の恐れはない。それにしても随分と埋まっているものだ。どれほどの年月が経てばこのようになるのだろう。


やがて石段はコンクリートの舗装道に変わる。両端には段差の小さい石段。


“三柱山門”と呼ばれている。


上宮天満宮のご由緒。

御祭神 武日照命
      野見宿禰命
      菅原道真命


由緒
 日の神、武日照命の天降って鎮座された此れの太古の杜、日神山一帯は弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北に並ぶ四古墳のうち、中央の円墳上には式内古社の野身神社が在る。此地は「日本書記」が古代祭儀としての埴輪や相撲の逸話を記した野身宿禰を千数百年も前から斎き祀ってきた島上郡野身里である。彼の率いる祭祀者一族、土師氏は何百年か後に菅原道真、大江匡房始め平安時代に於ける史学、文芸学者たちを次々に生み出すが、殊に右大臣にまで昇った道真公は、然しその後天皇廃立に関わったとされ九州へ追放される。その死後百年近い頃、正暦四年(九九四)に正一位左大臣の位を遺贈する勅使として菅原為理が太宰府へと赴いた。御霊代など奉じての帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し、領主近藤氏の城館に宿った。ところがいざ出立となると輿が動かず、これを先祖と共に留まりたい霊意と排察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉った。実際の創建はこれより五十年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち二番目の古社とされている。戦国の天正年間、豊臣秀吉は当社参道「天神馬場」に本陣を置き、明智勢を山崎天王山に討った。その戦勝を感謝して、後に秀吉は社殿を美々しく修造する。これは平成八年に事故により失われた。
 江戸初期には高槻藩主永井直清が拝殿を設け大鳥居も建立、時の天台座主親王天松院宮筆の神額を奉納した。
 古来、近郷の三島地方はもとより遠く京都、大阪始め北攝能勢や北河内方面の崇敬を集め今に至る例祭「初天神」は、延々と露天の連なる京阪神きっての民衆的大祭である。



野身神社に立ち寄る。正面は神門。


1月9日(土)19:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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