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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年2月24日を表示

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)22

正面通を挟んで耳塚の北側に和菓子の店「京菓匠 甘春堂」(東店)があった。
この日はテレビか何かの取材が入っていたようだ。



大和大路通に戻り南へ歩くと、すぐに京都国立博物館が現れる。
尚、京都国立博物館は方広寺(大仏)の旧境内にあたる。



「左 豊國神社へ是より一丁」の道標。上の道標には豊国神社260mと表示されており、石の道標の距離、一丁(約109.09m)とマッチしない。石の道標はこの場所へ移動されたのだろう。


「大和大路通」近辺の地図。この地図は上が東。この後、七条通を少し歩いて、三十三間堂の東側を歩き南へ。東海道本線を横断し、京阪・東福寺駅の東に位置する瀧尾神社へと向かう。


三十三間堂、参拝入口。


2月24日(水)18:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)21

手前に拝殿、奥に本殿。


豊国神社を後にする。唐門から西方向の鳥居を撮影。


鳥居からまっすぐ西に下る。左右(南北)に大和大路通を横断すると、正面通(東西)と呼ばれる広い道が現れる。その前方、左奥に石造物(五輪塔)が見えた。


古墳のように見えるが、五輪塔が置かれていた。


耳塚の説明板。

耳塚(鼻塚)

 この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592~1598年)にかかる遺跡である。
 秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。
 「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と想われる。
 秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、今に伝えている。
       京都市



2月24日(水)18:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)20

豊国神社・唐門。国宝。


豊国(とよくに)神社の駒札。

豊国神社

 豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
 慶長三年(一五九八)に六十三歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦(ほうこくびょうたいこうだいら))には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成(ごようぜい)天皇より正一位(しょういちい)の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長九年(一六〇四)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
 豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治十三年(一八八〇)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治三十一年(一八九八)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。
 正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。
       京都市



秀吉の馬印「千成瓢箪」にちなんだ瓢箪形の絵馬。


「豊國大明神」と記された扁額。扁額の後、欄間に見える鶴の彫刻は、桃山時代後期から江戸時代初期にかけて活躍した伝説的彫刻家、左甚五郎(ひだりじんごろう)の手によるものとされている。鶴はあまりに良い出来栄えであった事から、完成させると飛び立ってしまいかねず、あえて目を入れなかったという―笑。

Wikipediaによると、
左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。



唐門に使われている部材は全て欅で、出世を象徴する「鯉の滝登り」など見事な彫刻を観ることが出来た。(唐門は拝観自由)


2月24日(水)18:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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