山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年3月31日を表示

上町台地から天王寺七坂めぐり6

越中公園にて。ソメイヨシノと見られるサクラが開花していた。


中央区玉造2丁目付近を南へ歩く。左手に立派な建物が現れた。キリスト教の教会。


カテドラル聖マリア大聖堂カトリック玉造教会の敷地に立つ細川ガラシャの説明板。この他高山右近やいくつかの説明板が掲示されていた。

魂をかけた決断 細川ガラシャ(1563-1600)

 1600年細川忠興が徳川家康の東北上杉氏討伐征伐に従った間に、石田三成は忠興を味方につけるために妻ガラシャを人質として大坂城に連れて行こうとしましたが、ガラシャは応じませんでした。忠興は、常々自分の留守中に妻の外出を禁じていました。三成側が大坂方の誘いを拒否したガラシャの屋敷に火を放つ中、キリシタンの教えでは自害が禁じられていたガラシャは家臣に胸を突かせ、37歳でこの世を去りました。
 大聖堂北西の一隅は旧越中町に属し、ガラシャが壮烈な最期を遂げたゆかりの地です。そこに「越中井」が残っており、そばにガラシャ辞世の句碑が立っています。

 ちりぬべき時しりてこそ世の中の
 花も花なれ 人も人なれ
           カトリック大阪大司教区


先の説明板と若干違うところがあるが大筋は同じ。



細川ガラシャ(1563-1600) 

大聖堂正面右に立つ細川ガラシャの像は彫刻家・安部政義氏の作です。ガラシャは1563年、越前国で明智光秀の三女として生まれ、玉子の名をうけました。1578年に織田信長の媒酌で細川藤高の長男、忠興と16歳で結婚しました。しかし、1582年に父明智光秀による本能寺の変により、細川家は、秀光の娘である玉子を離縁し丹後国土野に幽閉、謹慎の意を表しました。
 1587年の豊臣秀吉による伴天連(ばてれん)追放令の直後、忠興から外出を禁じられていた玉子は自宅で侍女清原マリアから洗礼を受けてキリスト教徒になり、信仰に生きる人となりました。
 ガラシャ(恩恵の意)は、その洗礼名です。
           カトリック大阪大司教区



こちらは「慈しみの人 ユスト高山右近(1552-1615)」の説明板。


3月31日(木)20:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり5

石碑の正面。「越中井 / 細川忠興夫人秀林院 / 殉節之遺址」と彫られていた。


史蹟 越中井由来

ガラシャ夫人の名だけ聞いてもどんな人なのか知らない人が多いのではないでしょうか
ガラシャは細川越中守忠興公の夫人で熱心なキリシタン信者でありました 慶長五年(一六〇〇年) 忠興公が徳川家康に従って会津上杉を征伐に出陣した留守中 反家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城中に人質にしようとしたがガラシャ夫人は聞き入れず石田三成に取囲まれぜひもなく 家来に首を打たせ家屋敷に火を放ちいさぎよく火中に果てました 
この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝えられています 昭和九年(一九三四年) 当時地元の越中町内会の人々相寄りガラシャ夫人の徳をしのび顕彰碑を建立したものです 
碑の正面表題の文字は徳富蘇峯先生の筆で側面(左側)の由来説明は京都帝大文学部長新村出先生の文です 
改めてそれを読みながらガラシャ夫人の壮烈な最後を想い起こしてください
  牧村史陽識
  越中町会
     細川ガラシャ夫人顕彰
            頌徳会


細川ガラシャ



先の説明板にあった越中井。

大阪市イベント・観光 52.越中井(えっちゅうい)大阪府史跡
によると、かつて、この付近は細川越中守忠興の邸跡で、画像の井戸(越中井)はその邸内にあったものといわれている。



「越中井」を後にする。画像はコブシだろう。


石碑が見えたので立ち寄る。

青刻昆布発祥の地 

昆布加工品の原点である青刻昆布の主産地大阪における創始は一七二一年(享保六年)頃と伝えられる。文化年間に清国(中国)に試売し、一八二〇年頃から販路を拡張、専ら大阪上町台地において製造していた。一九〇〇年(明治三十三年)には、大阪の刻昆布が国の重要物産品に指定されている。
今日大阪の昆布加工品は、なにわ名物として広く認められ、大阪の食文化に大きく寄与しており、一九九八年(平成十年)には大阪特産物品として国により認証された。
大阪昆布商工同業会(起源は明治三十四年認可の大阪刻昆布製造同業組合)は、平成十三年に百周年を向かえたのを記念してこの碑を建之する。

  平成十三年三月建立 
  大阪昆布商工同業会



3月31日(木)20:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり4

「かぎや坂」を歩き、分岐を右折(西)すると、その先に樹木と石碑が見えたので立ち寄る。


中央に「越中井」と彫られた石碑。その前に井戸のような石造物。石碑の左、説明板を見入る熟年カップル。更には右に祠が見えた。


祠には「出世地蔵尊」と記されている。


観音扉を開くと地蔵さんが祀られていたが、日光の具合で上手く撮影出来ず。


花も花なれ人も人なれ - 紀行歴史遊学
によると、この石碑の側面には、「散利奴遍喜 時知り手古曽 世の中乃 花毛花奈連 人茂人奈禮」と彫られているようだ。
(散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ)



3月31日(木)20:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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