山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年4月11日を表示

上町台地から天王寺七坂めぐり36

お寺の名前は「齢延寺」。(れいえんじ)
お寺の人に手渡しで頂いたパンフレットによると、
曹洞宗の寺で元和元年(一六二三年)僧義春の開創。江戸時代は齢延彼岸桜と呼ばれた桜の名所で、現在も桜樹は多い。大樹古墓の多い寺。前田家(スーパー玉出)や、西村家(りくろーおじさん)の墓もある。

画像は南正門(鐘桜門)の仁王像。阿形。



吽形。


この柱、一体、お幾らくらいするものなのか想像もつかない。


門扉にも彫刻。

このお寺、毎月第2、第4土曜日に無料で座禅に参加することが出来る。
下記URLは、座禅に参加した人のブログ。
大阪旅めがね 寺町エリア(大阪の寺町 座禅体験ツアー)

座禅に関する情報
生魂山 齢延寺|寺ナビ〈寺院検索〉|曹洞宗近畿管区教化センター



齢延寺を後にし、引き続き源聖寺坂を下る。
石畳や左右の石壁が素晴らしい。



4月11日(月)20:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり35

銀山寺の庭。
まるで京都の観光寺院かと見間違うほど綺麗にされている。



すぐ右手(北)に立派な山門が建っている。扁額には「生魂山」。
境内には何人かお参りの人の姿が見えたので立ち寄ってみる。
右の石柱には「藤澤東畡先生墓所」と彫られている。

藤沢東畡 - Wikipedia によると、藤沢東畡(ふじさわとうがい、寛政6年12月13日(1795年2月2日)- 元治元年12月16日(1865年1月13日))は儒学者。讃岐生まれ。名は甫、字は元発、通称は昇蔵、別号は泊園。中山城山に儒学を学び、25歳で長崎に遊学、文政7年(1824年)大坂に出て泊園書院を設立、『原聖志』『思問録』などを出して名声があがり、在坂のまま高松藩に召し抱えられる。長男が藤沢南岳で、明治17年(1884年)に南岳編の『東畡先生文集』が出た。



お寺の山門とラブホのツーショット―笑。
このあたりはお寺とラブホが多い。



南正門(鐘桜門)に施された彫刻が素晴らしい。
これは龍。



柱にも彫刻が施されている。


4月11日(月)20:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり34

生國魂神社を後にする。
生國魂神社、表参道の脇に石碑が二基建立されていた。
左は「水戸藩士 / 贈正五位 / 川崎孫四郎自刀の所」。
右は「勤皇 烈士 / 贈正五位島男也之旧居」と彫られているようだ。

石碑の右、関西茨城県先賢士顕彰会が設置した説明文によると、
 水戸藩士 川崎孫四郎 萬延元年三月三日の水戸浪士による大老井伊直弼を天誅の桜田門外の変後、大阪挙兵を図り、幕吏に追われ二十三日この地で自刀す
 笠間藩士 島 男也 大阪挙兵の謀議のため幕吏に捕われ、江戸伝馬町獄にて死没



生國魂神社の前に生玉公園があり、「休憩適地」と案内されていたのでここで昼食とした。


昼食後、南方向へ歩き出す。分岐となり右折(西)するが。駒札があったので立ち寄る。


   源聖寺坂
 この坂は登り口に源聖寺があるので、その名をとっている。付近一帯は、寺町として長い歴史を持つ。齢延寺には、幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢東畡、同南岳親子の墓があり、銀山寺には、近松門左衛門の「心中宵庚申」にでてくる <お千代、半兵衛> の比翼塚が建てられている。


※藤沢南岳・・・道頓堀の「通天閣」や小豆島「寒霞渓」、薬品名の「仁丹」の名付け人。
※比翼塚=愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚。


※天王寺七坂②源聖寺坂(げんしょうじざか)・・・天王寺七坂のひとつ。長さ120m、高低差15m、平均斜度7度。坂下に「源聖寺坂」と刻まれた石碑と案内板がある。坂上と坂下には石畳が敷かれている。坂の中間は急な石段坂でゆるくカーブしている。



銀山寺。
「天王寺七坂 ご利益いっぱい歴史も満載 スタンプラリー」と記された幟旗が立ってある。
この門は閉められており、案内書きによると、東側入口より出入りするとのこと。
東側入口は歩いて来た道を引き返すことになり、この日は境内に入らず通過した。



4月11日(月)20:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


(1/1ページ)