山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年4月14日を表示

上町台地から天王寺七坂めぐり44

足場が組まれた工事中の建物は、祠か地蔵堂のように見えたが、工事の作業中で立ち寄れず。


右の燈籠には「樂天地北横」、左は「八島洋食店」と彫られているようだ。
最初、この祠に祀られている石仏の名前かと思ったが、どうも寄進者の名前らしい。
香炉の向こうに小窓があったが、足元が悪く、工事の邪魔にもなるので、そのまま通過。



ここも急な石段になっている。


「大阪府立夕陽丘髙等女學校跡」の碑。
「霞も 尓(に)ほふ 夕陽丘」と彫られているようだ。
校歌なのかもしれない。



口縄坂を振り返って撮影。
画像のお寺は善龍寺。口縄坂にそそり出ている木はソメイヨシノのようだ。
「海中出現地蔵尊」と彫られた石柱が立つ。

天王寺 寺町寺子屋-善龍寺- によると、戦災で山門を残して全焼。元は松屋町筋沿いにあったが昭和47年再建時に現在の場所に移動。海中出現地蔵尊(かいちゅうしゅつげんそん)が有名。下寺町一帯が大阪湾の海底だったころ、一人の漁師が光り輝くお地蔵さんを発見した。漁師はそのお地蔵さまを家に持って帰った。実はこの漁師の母親は病気で、このお地蔵さまを拝み続ければ治るかもしれないと毎日拝んだ。すると、母親の病気がたちまち治った。それ以来、「口縄坂の身代わり地蔵」として信仰されている。



4月14日(木)21:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり43

付近の住宅地図。現在地は右の地図の左下と、左の地図の右下。
この先、太平寺を右に見て口縄坂を西へ下る。
この地図は上が西。
それにしてもお寺が多い。



珊瑚寺。

大阪市天王寺区珊瑚寺は水子供養・安産・子授の寺院です - iタウンページ によると、太閤秀吉公の重臣、桑山修理太夫重晴が、秀吉公の武運長久を願って私財を投じて建てられたのが珊瑚寺のはじまりです。重晴は朝鮮出兵の際に朝鮮より持ち帰った小児薬を「桑山丸子(くわやまがんじ)」の名で売り出したところ、評判がよく、のちに近松門左衛門の「心中天網島」の中に、子供に「くわやま」を飲ませるように、とあるように、たちまち有名になりました。この薬は長く大正時代まで作られていました。 また、天王寺七坂のひとつ、口縄坂の傍に珊瑚寺は位置しますが、その坂に面した「延命地蔵尊」は古くより、安産、子育てのお地蔵さまとして広く人々に祈られてきました。このように珊瑚寺は創建当時より、特に子供にゆかりがあるお寺として今日に至ります。先の戦災で消失しましたが、境内には、秀吉公座像、淀殿直筆の書物など秀吉公にゆかりのある品々を保管していた「太閤堂」という建物がありました。



「開運大黒天 / 準提観世音 / 太閤秀吉公 /  珊瑚寺」と彫られた石柱が山門前に立つ。


口縄坂の表示。

※天王寺七坂③口縄坂(くちなわざか)・・・天王寺七坂のひとつ。長さ130m、高低差15m、平均斜度7度。坂下に「口縄坂」と刻まれた石標と案内板がある。坂名の由来は幾つか伝わっている。①口縄は蛇の意で、坂下から見上げると坂が蛇の腹ように見えた。②道が蛇のように曲がっていた。(現在の坂は曲がっていない)③大坂城築城の時に縄を打ち始めた場所。④坂の昇り降りが大変なので縄を手繰って往来した。

坂にはモダンな街灯が設置されている。
そして右側の建物は足場が組まれ工事中。



織田作之助の文学碑。

 口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた。
 私は石段を降りて行きながらもうこの坂を登り降りすることもあるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。
 風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。

   織田作之助「木の都」より



4月14日(木)21:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


(1/1ページ)