山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年4月19日を表示

上町台地から天王寺七坂めぐり49

大江神社を後にする。すぐ左(北)に勝鬘院(しょうまんいん)愛染堂の赤い門(山門)が現れる。


門を潜ると、また同じような赤い門が現れる。
こちらが赤門と呼ばれている。正式には「薬医門」。
瓦が真新しい。ピカピカ。

愛染さん(愛染堂・勝鬘院) によると、
・本柱2本の後方に控柱2本を建て、切妻屋根をかけた門のことを一般に藥医門と呼ぶ。
・聖徳太子が愛染堂を創建された当初、この場所が施薬院だったこともあって、正真正銘の薬医門と云われている。



金堂。

愛染さん(愛染堂・勝鬘院) によると、
・金堂は推古天皇元年(593)聖徳太子によって創建。
・その後、織田信長の大阪石山寺攻めの際に焼失したが、徳川幕府二代将軍・徳川秀忠の手によって再建。
・内部の構造は江戸時代の様式を伝えるもので、大阪府の指定文化財。



金堂の後ろに回ると、美しい多宝塔が建っている。


多宝塔の駒札。

多宝塔

宝塔は推古天皇元年(五九三年)聖徳太子の創建。
慶長二年(一五九七年)豊臣秀吉が再建した。高さ二十二メートル、建坪三十二平方メートル、三手先造り、本瓦葺き、極彩色、様式は桃山時代で、当時の粋を集め豪華雄大、彫刻壁画亦妙技を尽くしている。明治三十五年サンフランシスコで万国博覧会が開催された時、日本建築の代表として、この塔の模型を出展した。明治四十二年国宝建造物に指定された。
御本尊は大日大勝金剛尊、勝利開運の本尊として民衆の信仰が篤く、毎年愛染まつりに開扉される。



4月19日(火)20:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり48

愛染坂の説明板。

   愛染坂

 その名のとおり、坂の下り口にある愛染堂勝鬘院から名付けられた。【一部割愛】
大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりからの夕焼けは今も美しい。



 料亭「浮瀬(うかむせ)亭」跡
   (大阪星光学院敷地内)

夕陽の名所であり、四天王寺支院である新清水寺の有栖山清光院(ありすざん せいこういん)の北隅で大阪星光学院校地西に当たる当地には、かつて江戸時代大坂を代表する料亭「浮瀬亭」がありました。浮瀬亭はその素晴らしい眺望とともに「浮瀬」という奇杯を所蔵していたことで多くの文人墨客をひきつけました。【以下割愛】



大江神社、東参道の鳥居。


境内の様子。クスノキとみられる。


 大江神社
    御祭神
 本社
   豊受大神(とようけのおおかみ)
   素戔嗚尊(すさのおのみこと)
   欽明天皇(きんめいてんのう)
   大己貴命(おおなむじなのみこと)
   少彦名命(すくなひこなのみこと)
 摂末社
   日吉稲荷神社
   羽呉神社
   大江護国神社(山口藩殉難諸士招魂碑)
     由緒
当神社は、伝うる所によれば、上之宮、小儀(四天王寺東門外、北側)、土塔(南門外、東側)、河堀、堀越、久保の各社と共に天王寺七宮と称し、四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られしものであると云う。大江の社號は、慶應三年この社地が大江岸(おおえのきし)の続きなるを以て時の祀官が斯く改称せしなりと云う。
 当社は天王寺北村の産土神(うぶすながみ)にして祭社主神に豊受大神を祀り、稲荷神と同一神にて五穀豊穣、食糧保持の神であり、また明治四十年神仏分離により本社へ合祀せられた東門外の元村社、小儀神社及び南門外の元村社、土塔神社の祭神 素戔嗚尊、元村社 上之宮の祭神 欽明天皇 大己貴命 少彦名命の何れをも祭神とする。
 上町台地の西端に沿う一帯は「夕陽ヶ丘」と呼ばれており、その昔、この台地ののすぐそばまで海がせまり、西の海に夕日が沈みゆき、茜色に染まる空の美しさにいつしか「夕陽ヶ丘」と呼ばれるようになったと云う。当境内には俳句碑があり、芭蕉の句としても有名である。【以下割愛】



4月19日(火)20:36 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


(1/1ページ)