大阪市渡船場巡り_なみはや大橋21 |
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| 乗り場の方へ進む。 画像は停泊中の船。
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| 対岸に渡船の姿が見える。 頭上は平成十五年に完成した千歳橋。
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| 乗り場と海に浮かぶ台船。
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| 対岸の北恩加島側の標準時刻表。こちらは鶴町側。 13時台は1時間に3便。
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| 千歳渡船場の説明板。
千歳渡船場
鶴町(つるまち)地域は、大阪市の築港計画(明治30年~昭和3年)によって埋立てられ、大正8年には万葉集の歌(巻6-1064)に因み「鶴町」と名づけられました。当地と対岸にあった千歳新田(現在は大部分が大正内港となっています)を結ぶ橋として、大正11年に旧千歳橋が架けられ市電も運行されていましたが、大正内港工事のため昭和32年に橋は撤去されこの渡船場が設けられました。渡船は大正区鶴町4丁目と同区北恩加島2丁目を結んでいます(岸壁間371m)。 鶴町側からは、多くの船が浮かぶ大正内港のかなたに、昭和山(標高33m)や千島団地等が眺められ、尻無川の広々とした河口風景ともあいまって、ウォーターフロントの美しい景観となっています。 平成15年4月には、この渡しの上を全長1,064m、海面からの高さ28mの新「千歳橋」が完成し大正区の新たなランドマークとなっています。 大正区の花「つつじ」 大阪市
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5月3日(火)20:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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大阪市渡船場巡り_なみはや大橋20 |
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| 交差点を挟んで、神明神社の向いに位置する「鶴町学園」を右に見送る。
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| 「Healing Space」。 何のことかわからなかったが、中を覗くと銭湯。 大正区は沖縄出身の人が多いことから、こうしたネーミングになったのかもしれない。
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| 頭上に高架の車道と右奥に歩道を備えた千歳橋が見えた。 千歳渡船場乗り場を探す。ここまで案内板はなかった。
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| 千歳橋の説明板。
千歳橋(ちとせばし)
千歳の名は、江戸時代、弘化二年(一八四五)から開発された千歳新田に因む。 明治以降の近代化の中、この地も市街化が進み、大正十一年に旧「千歳橋」が千歳堀に架けられ、市電も通って重要な交通路を担っていた。当初は木橋であったが、昭和十五年には鉄の桁橋に架けかえられている。 戦後、大正区においても復興事業が進められ、大正内港が整備されるに伴って、この橋は昭和三十二年に撤去されたが、地域における交通路の必要性は高く、架橋が待たれていた。 新たな橋の建設は大正地区復興土地区画整理事業の協力も得て進むこととなり、平成十五年に完成した。 この「千歳橋」は、規模や形こそ異なるが、旧「千歳橋」の役割を半世紀ぶりに復活したものと言える。
平成十五年四月 大阪市
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| 千歳渡船場の案内板を発見。 矢印に従い右へ行く。
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5月3日(火)20:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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大阪市渡船場巡り_なみはや大橋19 |
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| 公園に設置されていた鶴町の説明板。
鶴町
鶴町地域は、市の築港計画(明治30年~昭和3年)による埋め立てによって造成され、大正8年3月、「鶴町」「鶴浜通」「福町」という新しい町として誕生しました。 鶴町の町名は聖武天皇(しょうむてんのう)の「難波宮(なにわのみや)」の近くの光景を「田辺福麻呂(たなべのさきまろ)」が詠んだ「潮干れば葦辺に騒ぐ白鶴(百鶴とも)の妻よぶ声は宮もとどろに」(万葉集巻6-1064)から「鶴」を、また福町は、この詠者の「福」からとられたものです。 昭和51年の住居表示により、鶴浜通は鶴町1~4丁目に、福町は現在の鶴町5丁目となりました。 鶴町地域は運河や内港に面していることから、外資系自動車工場や日本とアメリカの間に海底ケーブルを敷設した会社や橋梁会社等の工場や倉庫が立ち並ぶ臨海工業地帯として、また職場と住宅が近接した地域として発展してきました。 鶴町には、昭和5年から11年まで中央気象台大阪支台が設置され、昭和9年の室戸台風も観測していました。 昭和25年のジェーン台風以降に港湾事業や土地区画整理事業が並行して進められ、現在のような防潮堤に囲まれた地域となっています。
大正区の花「つつじ」 大阪市
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| 鶴町中央公園の様子。
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| この公園にある三角点。 三等三角点で、点名は北加賀屋。 標高1.41m
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| 昼食後、公園に隣接する神明神社に立ち寄る。
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| 大正九年の銘のある手洗舎。
神明神社 大阪市大正区鶴町
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5月3日(火)20:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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