伊賀街道①(笠置_月ヶ瀬口)26 |
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| 松本恵美子という歌手が唄う「恋路橋」という曲があるらしい。 「恋路橋」は、恋志谷神社の北西、木津川に架かる潜沈橋。 YouTubeで、歌を聴いてみたが、この「恋路橋」のことを歌っているようには思えず。
京都寺社案内*天満宮社・恋志谷神社 によると、境内には国道163号線より木津川に渡る。川には恋路橋(こいじばし)という欄干のない低いコンクリート製の橋が架かり、天満宮社の参道になっている。1945年に架橋された。それ以前は、渡し船が北大河原と南大河原の集落を結んでいた。潜没橋(せんぼつきょう)と呼ばれ、川の増水時には陥没する。この付近には同様の橋がある。また、「沈み橋」、単に「石橋」とも呼ばれている。長さ95m、幅3.6m、花崗岩製。1996年、公募により新たな橋名として「恋路橋」と命名されている。
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| 天満宮・恋志谷神社社務所が発行した説明文。
天満宮 【一部割愛】 天満宮は、江戸時代初期に柳生藩第3代藩主柳生宗冬公が勧請したと伝えています。そして、この石鳥居は正保4年(1647)建立寄進されたものです。
鳥居には銘文が刻まれています。 正保四年奉建立天神寳前石鳥居柳生主膳正宗冬敬白亥丁六月二十五日
父宗矩や2人の兄(長兄十兵衛・二兄友矩)の愛したこの土地の神社に、柳生の主人公として深いかかわりのしるしに寄進したものであり、歴代の藩主がこの地を重要視したあらわれです。【一部割愛】
恋志谷神社 恋志谷神社は、昔から子授け・安産・婦人病平癒など女性の守り神として知られています。 鎌倉時代末期、元弘元年(1331)倒幕の計画が知れた後醍醐天皇は、京都を脱出し笠置山に籠って挙兵した。それを天皇に想いをよせていた姫(妃)が聞きつけ、伊勢で病気療養中にもかかわらず駆けつけたが、時すでに遅し。天皇は追っ手から逃れるため、笠置山を後にしていた。姫は悲しみと長旅の疲れから持病が再発。「恋い焦がれ、病に苦しむような辛いことは自分一人で十分。人々の守り神になりたい」と言い遺し、この世を去った。
これを哀れんだ人々が祠を建て、祀ったのが「恋志谷神社」の始まりだと言い伝えられています。最期まで「天皇が恋しい、恋しい」と言い続けていたことから、いつしか親しみを込めて「恋志谷さん」と呼ばれるようになりました。
もとは古森とよばれた地に祀られていたが、江戸時代元治元年(1864)天満宮社に合祀されました。【一部割愛】
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| 拝殿付近で昼食。
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| 拝殿は吹き抜けで、萱葺となっているが、トタンで覆っていた。
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| 境内の巨樹。左はケヤキと見られる。 右はモミの木だろうか。
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5月31日(火)20:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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伊賀街道①(笠置_月ヶ瀬口)25 |
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| 境内に巨樹が見えた。何本かあるようだ。
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| 「嗽泉」。“そうせん”と読むようだ。 “嗽ぐ”は“くちすすぐ”と読む。 なので、くちをすすぐ泉で、そのものズバリ。
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| 盃状穴。
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| 恋志谷(こいしや)神社。
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| 社務所となっている。
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5月31日(火)20:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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伊賀街道①(笠置_月ヶ瀬口)24 |
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| 木津川左岸から北、国見岳方向の眺め。
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| 南山城村南大河原小字西海道の集落に到着。
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| 開花を待つシャクヤク。
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| 昼食場所となる恋志谷神社(こいしやじんじゃ)に到着。 社標は恋志谷神社の他に天満宮社の二つが建っている。 その後に石鳥居。
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| 境内へは正面の石段を登る。 地元の夫婦と見られるお二人が神社の手入れをされていた。(石垣に生えた雑草の除去)
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5月31日(火)20:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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ラジオ体操_2016年1~5月出席状況 |
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| 奈良市中登美ヶ丘で行われているラジオ体操に2015年6月24日より参加している。
2016年1~5月の出席状況は下記の通り。
1月 22日 71% 2月 18日 63% 3月 17日 55% 4月 20日 67% 5月 20日 65%
1~5月合計 出席率 64% (97/152日)
今後、入梅すると欠席が多くなるだろう。 引き続き無理のない範囲で参加したい。
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5月31日(火)20:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理
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