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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2018年3月5日を表示

青谷道_摩耶山_穂高湖_杣谷51

車道のアスファルトが見えると、アゴニー坂は終わる。


車道脇に降り立つ。
この車道は奥摩耶ドライブウエイ。
横断して右方向へ歩く。



アゴニー坂の案内図。

この地図では、先程の「摩耶の石舞台」を単に「岩の丘」としている。
「岩の丘」より「摩耶の石舞台」の方がインパクトがある。
こうした名前の付け方が神戸は上手だと思う。

岩の丘→摩耶の石舞台。
展望台→掬星台。
国民宿舎 神戸摩耶ロッジ→オテル・ド・摩耶など。

ちなみに、掬星台(きくせいだい)の名前は、"手で星を掬(すく)える"ほどの絶景の夜景が由来。



車道よりアゴニー坂から降り立った取り付きを振り返って撮影。


奥摩耶ドライブウエイに沿って六甲山牧場方面(北)へ歩く。


3月5日(月)20:06 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

青谷道_摩耶山_穂高湖_杣谷50

アゴニー坂へ差し掛かる。
こちらから向かうと下り坂。



岩や石がゴロゴロしており、慎重に降りる。


小石もあってズルズルと滑りやすい。


ベンチ。

展望は得られず。
登りの人が休憩で一息つく為に設けられたものだろう。



V字型にえぐれた登山道を下る。
下草が刈り取られているので歩きやすい。



3月5日(月)20:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

牛滝街道から神於山へ

【2017_10_25~2018_02_14の記録】

2017年11月3日(金・祝)は、おおばこの会、こばこの部に参加した。
題して「牛滝街道から神於山へ」。
歩行距離約14km。参加者16人。

コース概要
JR阪和線久米田駅から久米田古墳群の一部、貝吹山古墳(伝橘諸兄(たちばなのもろえ)公塚)、無名塚古墳を見て歩き、隣接する久米田寺にお参りした。
久米田寺のすぐ南に位置する大阪府最大のため池、久米田池から牛滝街道を歩く。

牛滝川に架かる念仏橋を渡り、以後は暫く牛滝川に沿って歩く。
包近(かねちか)町に入り、牛滝川に架かる長滝橋を渡って、桃や蜜柑の果樹栽培が盛んな丘陵地を越える。

車道に出合いこれを暫く歩き、やがて府道230を横断。
蜻蛉池(とんぼいけ)を左に見て歩き、府営蜻蛉池公園に入って、大池の近くで昼食タイム。

食後は展望台に登り、360度パノラマの眺望を楽しんだ。
蜻蛉池公園を出て、近畿職業能力開発大学校の前を通り、道の駅愛彩ランドに立ち寄った。

愛彩ランドの南に位置する神於山(こうのさん)に東登山口(林道)から登った。
台風の影響で斜面が倒壊し道路を補修中だったが、徒歩では通行出来た。

まったく展望の利かない国見の森広場を経て、展望台のある山頂へ。
ところがこの展望台も、植栽された桜の木が生長し、ほとんど展望はなかった。
山頂には三角点がある。標高295.20m、三等三角点、点名:土生滝。

下山は神於寺コースを歩いて 神於寺に下山。
すぐ近くに神於バス停があったが、発車時間までかなり時間があったので、当初、下山予定だった宮の台バス停まで歩こうとした。
途中、歩く方向が間違っていることに気づき、河合町(交差点)まで戻った。
河合町(交差点)で台風の影響で府道39が、土生滝(交差点)から河合町(交差点)まで通行不可となっていることを知った。
この為、結局、徒歩は諦めて、河合バス停まで戻り、ここから南海バスに乗って東岸和田駅へゴールした。

反省会は、天王寺駅近く、阿倍野センタービルB1Fのアサヒビアケラーアベノ店。
反省会の参加者8人。この後も二次会があったらしい。


下記は、岸和田市公式ウェブサイト よりの一部。


◆久米田寺 拝観自由
行基が天平10年(738年)に開基しましたが、永禄年間(1558~1570)の三好氏と畠山氏の戦火で焼失しました。 現在の建物は、江戸時代中期に再建されたものです。 久米田寺所蔵の文書の内「楠家文書」(くすのきけもんじょ)などが、国の重要文化財として、指定されています。 4月21日は久米田寺の縁日で、近隣の住民は「21日のおだいっさん」と親しみ、また、春は桜の名所として有名です。

◆貝吹山古墳(伝橘諸兄(たちばなのもろえ)公塚) 写真ネガの入っている紙袋には諸兄塚(もろえづか)と記されています。 当時はまだ、橘諸兄(たちばなのもろえ)の墓であるとされ、1997年まで墳丘上には宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っていました。 現在では橘諸兄の墓は、京都府綴喜郡井手町にあるものとされています。 発掘調査の結果では古墳時代前期後葉の築造とされており、もちろん橘諸兄の墓ではありません。 貝吹山古墳の名称は、久米田合戦の際に陣城(じんじろ)となり、法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らしたという伝承にちなみます。

◆神於山(こうのさん)の歴史

命の水の源
神於山は、古代から私たちの祖先にとっては「神のおられる山」として、神様が自分の守っているところをながめる山、別名「国見山」とも呼ばれ、神体山として山そのものが崇拝の対象となっていました。 古代から和泉国は、気候が温和で、めぐまれた湧き水があり、多くの人々がくらしていました。 弥生時代に発生した水稲耕作は、水が必要不可欠なものであったが、当時の技術では牛滝川・津田川は大河であり、谷も深く、この水を利用することは難しかったと考えられます。 このため、神於山に源を発する春木川・天の川が稲作に利用できる唯一の流水であり、その水の源である神於山は、「命の水」を発するところとして大切にされていました。

◆神於山の地形

独立峰で多くのため池に囲まれている山
神於山は、南を旧国道170号、東を牛滝川、西は津田川によって囲まれ、独立した山塊を呈しており、標高は296.4メートルの高さがあります。 神於山の周辺は、気候的に天水が不足し、農作物の主要な生産地一帯は水の浸食が強い大阪層群の上にあることから水不足をきたすことが多いところでした。 そのため、灌漑対策が必要不可欠であり、谷の下方をせき止めて水を貯める方法で谷の出口に多くのため池が人工的につくられました。 このため、大小のため池が周辺にひろがっています。

花崗岩でできた山
日本列島がまだ深い海の中にあった時代に、領家花崗岩という下部にあった地層の上に和泉層群やニ上層群が堆積しました。 その幾層にも重なった地層が、60~200万年前に断層(中央構造線)をともなって隆起し、和泉山脈が形づくられました。 その和泉山脈の低地部(海側)の堆積層が、長年にわたって風雨などにより削り落とされ、浸食に強い基層の領家花崗岩が顔を出しているのが現在の神於山であるといえます。

◆神於寺
神於山の南麓に位置する天台宗寺院。
神於山は古来神体山として崇敬され、山内からは弥生時代の流水文銅鐸が出土しています。 かつて当寺に伝わった神於寺縁起絵巻(南北朝期)は中世の縁起絵巻の優品として有名ですが、絵画部分が寸断されて米国や国内のコレクター、美術館などに分散して保管されています。 縁起によれば役行者の開創で新羅から飛来した宝勝権現を山内に祀り、一旦荒廃したのちに百済僧光忍が奈良期に中興したそうです。 また、修験道との関わりが強く、葛城修験の一霊場として発展しました。 中世にはしばしば戦場ともなり、織田信長が紀州攻めの際に付近に逗留したこともありました。


画像はこの日歩いたJR阪和線久米田駅から南海バス河合バス停までのGPSログを表示。



トンボのオブジェ。
府営蜻蛉池(とんぼいけ)公園にて撮影。



鬼瓦風たい焼き。
愛彩ランドにて。



ウバメガシ地蔵。
神於山東登山道にて。
ウバメガシの木の傍に祀られているからその名がついたのだろう。



神於寺への下山道。
紅葉した落葉がいい感じ。



3月5日(月)14:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理


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