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2019年4月16日を表示

(続々)難波の道(太閤下水から中央公会堂)

1931年建立の旧陸軍第四師団司令部庁舎(現在:商業施設 ミライザ大阪城)。

太平洋戦争の空襲で焼け残った建物。
大阪城近辺には軍事施設があった為、それが標的となり、残っている施設は僅か。
そんな中で、唯一現存している大物の建物がこれ。

現地の説明板によると、
・この司令部が建てられたのは昭和6年。
・昭和天皇の即位を記念して、市民の寄付により当時の金額で150万円が寄せられ、大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設と合わせて第四司令部として新設された。
・それまでは大阪城内に司令部が置かれていたために、一般市民の立ち入りが規制されていた。これをきっかけにして、大阪城の見学ができるようになった。
・戦後は占領軍に接収された後、大阪市警察庁、大阪府警本部として利用。昭和35〜平成13年までは大阪市立博物館として利用されていたが、博物館が移転。
・現在は商業施設ミライザ大阪城



日本庭園から大阪城を望む。
この近くの南西隅櫓跡付近で昼食。

ここまで足を伸ばすインバウンドは流石に少なかった。



刻印石広場。現地の説明板によると、
この広場は、大阪築城400年を記念し、その石垣を形成している刻印石を展示、紹介するため、新設したものである。
刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命ぜられた諸大名の家臣や石工らが、石集めや石積みの過程で、個々の石に、必要応じてさまざまな文字や文様を刻みこみ、さらに出来上った石垣の表面に担当大名の家紋その他を刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されている。
ここに展示したものには、昔の石置場、周辺の川筋などから出土したものや城内の石垣修理で撤去されたものなどである。
一般に、大阪城の石垣は、豊臣時代のものがそのまま残されていると思われがちであるが、実は、現存する石垣はすべて元和・寛永年間(1620~1629)に、徳川幕府が西日本の64藩を動員して築かせたもので、無数の刻印石がその事実を証明している。
  昭和58年10月 大阪市

大阪城、刻印石広場にて。



「豊臣秀頼 淀殿ら自刀の地」の石碑。 現地の説明板によると、
慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。



大阪城の内堀を船で周遊する大阪城御座船(ござぶね)

つづく。



4月16日(火)18:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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