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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2021年1月11日を表示

今田 勝 アンダルシアの風

今田 勝 アンダルシアの風を視聴してみよう。
今田勝
Masaru Imada

Masaru Imada ‎– Andalusian Breeze (1980)
00:00 - 07:02 01 Andalusian Breeze
07:02 - 11:51 02 Morning Dream
11:51 - 18:32 03 Gulf Stream
18:32 - 27:11 04 Touch And Go
27:11 - 30:30 05 Samba Del Centauro
30:30 - 37:44 06 Nowin
...........................
Piano – Masaru Imada
Guitar – Kazumi Watanabe
Bass – Mitsuaki Furuno
Drums – Shinji Mori
Percussion – Yuji Imamura



1月11日(月)17:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理

No.10神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

刈り取った後の状態。
1回でこれほど綺麗に刈り取れるなら、この機械、重宝するだろう。



忍坂街道
「忍坂道伝承地道」の石碑が、この場所と、石位寺から30m西側にある庚申堂前の国道166号沿いにある2箇所に建てられています。
これらの石碑は、聖蹟伝承地が数多くある桜井市(当時は町)が、日本紀元で数える2600年目にあたる昭和15年( 1940年)に建てたものです。
神武天皇東征のとき、東に位置する宇陀(松山)から半坂峠(大宇陀区嬉河原から粟原山頂上の鉄塔の下)を経て粟原へ、そして忍阪の村を通って宇陀ケ辻への道、また向垣内橋から浅古への多武峯への道..。これが『忍坂道』なのです。
この忍坂(押坂)の地を『宮』としていたとされる「忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)」が住んでいたとされている忍坂の土地。
人の行き交いもあったでしょう。
『日本書記』皇極3年(644年)の記載によると菟田山には仙薬とする水銀の鉱床があったとされ、近年まで採掘されていました。
また、宇陀野へは仙薬としての薬草や猪,鹿などの薬物採取を目的として出向いていたのです。
草壁皇子(日並知皇子)や軽皇子が狩猟していた宇太郡漆部里まり阿騎野の里への道なのです。
この時に忍坂を通る道は出来ていたのです。
街道といわれる前に、すでに「忍坂道」があったと言えます。
「忍坂街道」は平成17年に文化庁により『遊歩百選』として『大和の古道紀行』の中に山之辺の道などと共に選定されました。
忍阪区



説明板に記載されている「忍坂道伝承地道」の石碑。


歴史街道の道標。
この日は道標に表示されている「↑粟原寺跡 約2.4km」方面へ向う。



R166に合流し左へ。(東)

つづく。



1月11日(月)05:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.9神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

石位寺を後にする。
正面参道の石段を降りる。



石段を振り返って撮影。
ご覧のように石位寺は小高い丘に位置している。



近畿自然歩道を粟原寺跡方面に向かって歩く。
粟原寺跡までの距離、約2.7km。
この日は粟原寺跡には立ち寄らない。



傾斜地に建つ家屋。


雑草を刈り取りされていた。
この機械、初めて見たが、ラクチンそうに操作されていた。
ただ押すだけ!?

つづく。



1月11日(月)05:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.8神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

境内に立つ「高円山 石位(いしい)寺」の寺号標。
寺号の高円山は、“たかまどやま”ではなく“こうえんざん”と読むようだ。
高円山・石位寺



国指定重要文化財 石造浮彫 伝薬師三尊像
収蔵庫内に安置されている本尊は、我国に現存する最も古い石彫三尊仏で、高さ一.一五m、幅一.五m、底辺一.二一m、厚さ約0.二mの丸みのついた砂岩製の石板に頭上に天蓋をいただいた倚座する如来形像を中心に三尊仏を浮彫にしたもので、寺伝では薬師三尊仏として伝えられているが、本来いかなる尊像として刻まれたものかは明らかではない。
刻出は極めて念入りで三尊とも薄い法衣を通して内部の肉体の起伏がよく表わされており、布の質感表現も巧みである。
長谷寺の銅盤法華説相図中の三尊仏と形式がよく似ており、白鳳時代のものと思われる。
昭和五十三年十一月 桜井市教育委員会



石位寺境内の石造物
<南東部石碑群>
4基の石碑は、右から3基は「西国三十三所巡礼供養碑」。西国三十三所観音霊場を供養した記念碑的要素が強いものです。
右より戦国末~江戸前期のもので法名を刻み、二つ目は江戸時代初期・正保4年(1647年)で物故者供養、三つ目は寛文4年(1664年)で俗名で構成されたものです。
桜井市史によるとこれらの石碑は、もともと境内の西北隅にあったもので、昭和53年の堂宇の建て直し時に移設されたものです。
また、左端の石碑は、庚申講衆碑で、大型ですが浅い梵字の形状、半肉彫で形骸化した蓮弁などから16世紀後半ごろの戦国末から江戸前期のものと想定できます。
これは昭和28年の国道166号開通よる現・庚申堂の移転に伴い、移設されたものです。
<北西部石造物群>
墓塔や墓標があります。
右端の石碑は、「阿弥陀名号供養碑」です。
通常は「南無阿弥陀仏」と記されますがこの石碑は供養碑として特異な表現となっています。
戦国時代・天文10年(1541年)のものです。
右から3基目は、「六十六部廻国供養塔」と考えられ、戦国時代・弘治2年(1556年)に法華経を66ヶ国の霊場に奉納し無事満願を迎えられたことを記念して建てられたたものです。
他にも、五輪塔火輪の15~16世紀のものや、江戸時代の墓標や五輪塔板碑もあります。
忍阪区



説明板に記載されている<南東部石碑群>。


境内で見られたサルスベリの大木。

つづく。



1月11日(月)05:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理


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