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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2021年11月30日を表示

ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス他

ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス他を視聴してみよう。
ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス

ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス他
1.Niña de los Peines seguiriya de Manuel Molina
ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス(Pastora Pavón)
2.manolito el de maria y diego del gastor solea de alcala. II
マノリト・デ・マリア(Manolito de María)
ディエゴ・デル・ガストール(Diego Del Gastor)
3.Fernanda de Utrera no caia nunca en cama solea
フェルナンダ・デ・ウトレーラ(Fernanda de Utrera)
4.La Niña de los Peines seguiriya de Paco la Luz
ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス(Pastora Pavón)
5.Francisco Mairena - Soleares De Alcala, Cadiz Y Jerez
クーロ・マイレナ(フランシスコ・マイレナ)
6.Yo No te he dao motivo
ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス(Pastora Pavón)
7.Soleá de Triana
8.Soleá. Fernanda de Utrera. 1990
フェルナンダ・デ・ウトレーラ(Fernanda de Utrera)
9.Tomas Pavón - A clavito y canela
トマス・パボン(Tomas Pavon)
10.La Niña de los Peines - Quisiera yo renegar (Petenera)
ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス(Pastora Pavón)


【参考】
ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス cante flamenco(1)
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc63OK60D5873D/1/
No.2ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc62nL6007E308/1/
ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc60im5E919C99/1/



11月30日(火)19:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理

No.25木津川源流4(笠置から月ヶ瀬口へ)

道路脇に現れた雄滝。


動画撮影した画像はこちら。



滝を観て暫く(2分程度)歩くと、東海自然歩道の案内板と簡易ベンチが置かれたコーナーに出た。


東海自然歩道の案内図は、先程見たものと変わらず。
現在地が高山ダム寄りになっているだけ。



目前には素晴らしい景観が広がっていた。


景観が観られたすぐ横に案内板が立っていた。

「弓ヶ淵の伝説 大字北大河原・南大河原 →」
この付近は大河原発電所の取水えん堤ができ景観がかわったが、太古からの大きな深淵を通称〝弓ヶ淵〟という。
天和2年(1682)に書かれた「茅栗草子」(菊岡如幻)には次のように記されている。
「昔、この地に大和守菅道臣という人がおった。
名張の大領の女を奪いとって、島ヶ原の里に近い伊賀田という所にひそかに隠し住まわせておいた。
やがて一人の童子をもうけた。
ところがこのことが明らかになり、名張の大領の徒党が討手にさしむけられた。
道臣は戦いにやぶれて、弓を引っ提げて、崖上より深淵に飛び入って自害した。
妻女もつづいて身をなげて死んだ。
以後その亡霊が、いつ時を決めず、島ヶ原の観音堂に参詣しているということだ。」

弓ヶ淵という名称の起源説話ともいえる。
.........................
「明神の滝 大字北大河原 ←」
老松やさつきの生えた巨岩が木津川の河原に有り、地元の人は白滝明神という。
この地域、滝といっても川幅が狭くなり急流をなしている所で雄滝・雌滝と古くからいわれている所である。
古く奈良朝より木材供給の水運上重要な木津川の中でも、ここから笠置浜までは筏流の最大の難所であり、南都高僧が何回も笠置寺にこもって水運をひらいたとの古文書も残っている。
又、和州神野寺の僧も何回となくこの地を訪れ、河川の祈祷をした言い伝えもある。
この付近の河原は薪炭の集荷地でもあり、江戸時代には「滝の鮎」と称された鮎の群集地であった。

南山城村教育委員会

つづく。



11月30日(火)05:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

No.24木津川源流4(笠置から月ヶ瀬口へ)

道路脇に「府道82号上野南山城線」の道路標識。
現在地は京都府南山城村北大河原。



引き続きクルマに注意しながら車道を歩く。


道路脇に滝らしきが現れた。
自然の滝ではなく、コンクリートで段差を築いている。
元は自然の滝だったのだろう。



橋に「雌滝」の表示があった。


すぐに今度は「雄滝橋」と書かれた橋を渡る。

つづく。



11月30日(火)05:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

No.23木津川源流4(笠置から月ヶ瀬口へ)

12時51分、昼食を終え、再び歩き出す。
画像は東海自然歩道の案内図で、押原~柳生までの区間を示している。
現在地は戀志谷神社。
この日、我々の出発地点は笠置橋付近(笠置駅)で、ゴールは高山ダムを経て今山付近(月ヶ瀬口駅)。



真輪院前を通過。
このお寺をネット検索すると下記に詳しく紹介されていた。
[南大河原/寺社]真輪院(Shinrinin Temple)
上記のサイトによると、
『明治43(1910)年に、北大河原の真蔵院と南大河原の十輪寺とが合併し、それぞれから1字ずつとって新しい寺院名となって誕生した寺院。
真蔵院は、江戸時代初期に開かれた真言宗の寺院。
十輪寺は、柳生友矩の菩提を弔うために、柳生宗冬が正保4(1647)年に創建した。
剣豪・柳生宗矩は、柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南をつとめた。
息子には、十兵衛、友矩、宗冬らがいます。
友矩は、将軍家光から大名になるよう再三すすめられましたが、若くして亡くなりました。
弟の宗冬は友矩の死を悲しんで、十輪寺を建てたとのことです。
隣の天満宮社とあわせ、柳生家と深いかかわりがあります。』



祠の向こう側に十三重石塔が見える。

「十輪寺寺跡の十三重塔 大字南大河原」の説明板によると、

花崗岩製十三重塔で基礎の側面四方は素面である。
塔身は高さ28センチメートル、幅は29.8センチメートル、下端は29センチメートルで月輪内に種字でウーン(阿閦)、タラーク(宝生)、キリーク(弥陀)、アク(不空成就)の金剛界四仏種子を配している。
この塔は軒反の萎縮等から考えて室町時代中期の造立と考えられる。

南山城村教育委員会



車道を歩く。歩道はない。
時折、クルマが猛スピードで走ってくる。
この先分岐。



正面に見える木津川に架かる大河原大橋を渡らずに手前で右折。

つづく。



11月30日(火)05:46 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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