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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


Show by Mar/4/2025

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺31

蘇我入鹿の首塚を角度を変えて撮影。

【参考:乙巳の変】
Search Labs | AI による概要
乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代の645年に発生した政権転覆(クーデタ)の事件です。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我氏を滅ぼしました。
発生の経緯
聖徳太子の死後、蘇我氏は権勢を強め、蘇我蝦夷と蘇我入鹿が強い権力を握りました。
蘇我氏による専横に不満を抱いた中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を暗殺しました。
蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷は自害に追い込まれました。
結果
中大兄皇子が実権を握り、天皇中心の国づくりの基礎がつくられました。
中大兄皇子は、中臣鎌足とともに政治改革「大化の改新」を実施しました。
「大化の改新」により、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わりました。
乙巳の変の古戦場は、奈良県高市郡明日香村の飛鳥宮跡です。



飛鳥寺西門跡
飛鳥寺は西暦588年につくり始められた日本最初のお寺。
塔を中心にその北と東西に三つの金堂がたっていた。
北の中金堂にあった鞍作鳥作といわれる飛鳥大仏は、いまもその位置を動いていない。
西門は礎石をおいて柱を建てた瓦葺きの門。
開口3間11.5m、奥行2間5.5mの規模だった。
門の西には塀があり、土管をつないだ上水道が埋まっていた。
寺の四方に開いた門のなかでは、この西門が最も大きい。
寺の西に、飛鳥寺の檜舞台、「槻(ケヤキの古名)の木の広場」があったからだ。
中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出合い、645年に大化改新をなしとげた。
この時、二人は飛鳥寺に陣をかまえ、西門から甘樫丘の蘇我入鹿・蝦夷の舘をにらんでいた。
672年の壬申乱の時には広場を軍隊がうめつくした。
その後は、外国使節や遠方の使者を歓迎する宴会の場となり、噴水がおかれ、歌や踊りが満ちあふれた。
西門はそんな飛鳥の歴史をみまもってきたのだった。



西門跡付近から飛鳥寺を眺める。


飛鳥寺略縁起
崇峻天皇元年(五八八)曽我馬子が創立した日本最初の本格的寺院であり、寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。
本尊飛鳥大仏(釈迦如来)は推古天皇十三年(六○五)天皇が詔して鞍作鳥仏師に造らせた日本最古の仏像である。
旧伽藍は仁和三年(八八七)と建久七年(一一九六)に焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永九年(一六三二)と文政九年(一八二六)に再建され今日に至っている。
現在は真言宗豊山派に属し、新西国第九番、聖徳太子第十一番の霊場でもある。



平成二十年(西暦二〇〇八年)
飛鳥大仏開眼一四〇〇年

推古天皇一三年(六〇五)日本最古の金銅丈六釈迦如来像の造立が発願され、同天皇一七年(六〇九)に開眼供養されてから一四〇〇年目にあたります。
中世の火災によって損傷されているものの、今以って元の位置に瑞座し給う日本の歴史的尊像であります。

つづく。



Feb.4(Tue)06:53 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺30

沙羅の樹 献木
釈迦が沙羅樹の林中で涅槃に入った時、その四方に各二本の高い沙羅樹があった。
それで双樹という。
東方のものを常と無常、西方のものを我と無我、南方のものを楽と無楽、北方のものを浄と不浄にたとえる。
皆、一つは枯れ一つは栄える。
釈尊が涅槃に入り終わると東西の二双樹と南北の二双樹がそれぞれ一樹となり、たれて床をおおい、木の色が白変して枯れたと言う。
平家物語に「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理」とある。
この花が咲いたり散ったりするさまは、盛んなものも必ず衰える真理を表す。



道標。境内に移設されたようだ。
「右 かぐ山法祢(ね)ん寺道」。
右側にも文字が見えるが画像では判読不明。



右隣の道標も法然寺を指している。
「右 圓光大師十番札所 香久山 法然寺」。
「左 たゑま大坂」。



祠の中に安置されていた石仏。
「右 ・・」の文字が見える。
地蔵さんの左側は目視では文字は刻まれていないように見えるが。



飛鳥寺の境内から出て西へ向かうと、「蘇我入鹿の首塚」。
「乙巳の変の時に蘇我入鹿の首が飛んできた」と伝承される五輪塔。

つづく。



Feb.4(Tue)06:50 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺29

やがて飛鳥寺に到着。
左に建つ一際目立つ建造物は「飛鳥大仏標石」。
文字の彫が深いから目立つのかも。



飛鳥大仏標石
江戸時代の寛政四年(一七九二)飛鳥寺参拝の道しるべとして彫刻された優秀な文字で台石は飛鳥寺創建時(五八八-一四〇〇年前)の礎石を用いている。



「寛政四壬子年三月八日」の銘。


飛鳥寺 本堂。

駒札には、
 平成二十年(西暦二〇〇八年)
 推古天皇誓願
 飛鳥大仏開眼千四百年
  飛鳥寺



境内に植栽されている沙羅(サラ)の樹。

つづく。



Feb.4(Tue)06:47 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺28

飛鳥京跡苑池遺跡を北へ歩く。
画像中央上の立派な建物は天理教 岡大教会。

画像に写っている白い鳥はサギ(鷺)の仲間。(赤丸印)



左右に田圃を眺めながら、のんびりと歩く。


稲穂が黄色を帯びて、こうべを垂れ始めている。


ヒガンバナ(彼岸花)。
まだ蕾。
開花は時期的には若干早い。(この日は9月15日)



これは田圃でよく見かける。
ヒレタゴボウ(鰭田牛蒡)の名前がある。
【参考】
ヒレタゴボウ

つづく。



Feb.4(Tue)06:43 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺27

史跡 飛鳥宮跡
飛鳥宮跡は、7世紀中頃から後半に造られた宮殿遺構です。
昭和34年以来の発掘調査で、大きく分けて3時期の変遷が確認されており、王宮名は次のように考えられます。
Ⅰ期遺構  舒明天皇(在位629~641年)  飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)
Ⅱ期遺構  皇極天皇(在位642~645年)  飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)
Ⅲ期遺構  前半:斉明天皇(在位655~661年)  後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)
      後半:天武・持統天皇(在位673~697年) 飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)
見つかった遺構は、飛鳥地域の歴史に止まらず、日本の宮殿の変遷を解明する上で重要な遺構と判断され、国史跡に指定されました。
最上層のⅢ期遺構のうち、内裏に相当する内郭は一本柱列の塀で囲まれた方形区画で、正面である東西5間・南北2間の南門を入った礫敷広場には、東西7間、南北4間の前殿が建っていました。
   令和5年3月 奈良県



新しく建設された「飛鳥京跡苑池休憩舎」。


コスモスが咲き始めていた。


冷房の効いたこの休憩舎で昼食タイム。
この快適な場所で昼食したのはこれが二回目。



昼食後、飛鳥京跡苑池休憩舎を後にする。

つづく。



Feb.4(Tue)06:39 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin


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