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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


Show by Mar/5/2025

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第2番 クリスティアン・ツィマーマン

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第2番 クリスティアン・ツィマーマンを視聴してみよう。
ピアノ協奏曲第2番 (ベートーヴェン)
クリスティアン・ツィマーマン

Beethoven - Piano Concerto No 2 - Zimerman, Wiener Philharmoniker (1991)
1. Allegro con brio: 00:29
2. Adagio: 14:16
3. Rondo, molto allegro: 24:39
.........
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ピアノ・指揮者、クリスティアン・ツィマーマン。
1991年12月、ウィーン楽友協会大ホールで録音。


【参考:ベートーヴェン ピアノ協奏曲第2番】
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第2番 児玉麻里&ケント・ナガノ
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc664i654A00F4/1/

【参考:クリスティアン・ツィマーマン】
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第1番 クリスティアン・ツィマーマン
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc67oP65AA5EE5/1/
ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第5番 (クリスティアン・ツィマーマン ポリーニ)
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc61mS5EE0A78D/1/
ブラームス ピアノ協奏曲 No.1,2 (ポリーニ リーズ・ドゥ・ラ・サール クリスティアン・ツィマーマン) ★一部再生不可
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc5eqk5D248BB1/1/



Feb.5(Wed)21:11 | Trackback(0) | Comment(0) | 音楽 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺36

飛鳥坐神社前の道路(県道124号線)を北へ歩く。
信号のある交差点の北西角に石仏が刻まれた道標。
「右 天能(の)かく山道 同行?」。
「左 お可(か)寺 かうや よし能(の) みち ?人」。



左側面。
「右 はせ いせ 浄念?」。



左の石柱にも道標らしき文字が刻まれていた。
「右?」。



周辺の案内図があったが、バス停の場所が表示されていない。
スマホを取り出してバス停を探してみる。
バス停は現在地からこの地図では左方向(東)にあった。



明日香奥山バス停に到着。
このバスはこの先で折り返し運転するようだ。
ここで待つ。

つづく。



Feb.5(Wed)05:55 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺35

拝殿に向かって右側に位置する「むすひの神石」。(陰陽石)
右側が男性器、左側が女性器を表している。(子孫繁栄)
神聖な空間を示すため、紙垂が取り付けられている。



参道石段の耳石。
世話人の名前が刻まれていた。



奥の社 皇太神社・奥の大石。
御祭神…天照皇大神・高皇産霊神。



吉備姫王墓で見た猿石に似ている。


飛鳥坐神社を後にする。
画像は周辺の観光案内図。

つづく。



Feb.5(Wed)05:50 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺34

陽石。


陽石は境内のあちこちで見られる。
陽物の形の石。崇拝の対象とされる。



飛鳥坐神社で催される奇祭「おんだ祭」の舞台となる神楽殿・西良殿。


神楽殿・西良殿と向い合う位置に建つ本殿・拝殿。


拝殿の前に立ちお参りする。
(お辞儀を二度)、二礼、二拍手、一礼、(お辞儀をもう一度)。

つづく。



Feb.5(Wed)05:46 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺33

手水鉢だが、一風変わった作りになっている。
【参考:Search Labs | AI による概要】
飛鳥坐神社の手水鉢の特徴
・飛鳥石が使用されている
・飛鳥時代の酒船石をモデルにした流水設備から水が流れている



扁額には「飛鳥杜」と刻まれていた。


飛鳥坐神社(あすかに います じんじゃ)
御由緒
国のまほろば大和の国に鎮まります当社の創建は定かではありませんが、「日本書紀」において、大国主神の第一子である当社の御祭神 事代主神〔ことしろぬしのかみ〕は、国譲りの際に、八十万〔やそよろづ〕の神々を天の高市〔あめのたけち〕(現在の飛鳥)に合〔あつ〕めて天〔あめ〕に昇られ、「首渠〔ひとごのかみ〕」いわゆる統率神として称えられています。
同書、天武天皇元年(673年)七月の条には「吾は高市社に居る、名は事代主神」との記載が見られ、更に朱鳥元年(686年)七月の条では「幣〔みてぐら〕を紀伊国に居す国懸神〔くにかかすのかみ〕、飛鳥四社、住吉大社に奉る」とあり、天武天皇の病気平癒祈願がなされた際に、朝廷より当社に奉幣があったことが記されています。
【参考:飛鳥坐神社 オフィシャルページ】
飛鳥坐神社公式ホームページ



参道の石段を登る。


石段を登り切った中央に“力石”と左右に陽石(信仰)が見られた。
“力石”とは男性は左手、女性は右手で持ち上げることができると幸福が訪れるとされている。

つづく。



Feb.5(Wed)05:43 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺32

遠路ようこそ飛鳥寺へ!御一読を

現在の本堂は古えの中金堂(一塔三金堂)の位置に相当し本尊飛鳥大佛は千三百九十有余年間そのままに座したまうは奇跡の存在と言えよう。
平安朝まではより以上に膨張し中世以後天災地変、自然崩壊のため境内は1/20に縮小されたが、この長閑な青垣山こもれる風景に麗しい殿堂があった昔を偲べばうたた感慨無量といえようか。
聖徳太子は橘の藁(わら)小屋で生まれたまい、大陸の先生に先進国の学問を受け、その粋を取って国民の守るべき十七条憲法を示されたのがこの本尊に誓ってのことであった。
蘇我馬子が決戦の暁、強引に飛鳥寺に着手したことは必然的に飛鳥文化の扉が開けゆく固い約束にもなった。
即ち国家数千年の大計を果し得たことは権力の野望を充した一面見事な光彩を放ち得たといえよう。
驚くなかれ!佛法最初という寺のいくつかある中でも又、シルクロードの終点といわれる寺のいくつかある中で飛鳥寺こそその終着点であり、日本の起点になったことはまず疑いなき事実なり。
太子の師恵慈、慧聡が都の本格的なこの寺に住まわれたことも感激すべき事実である。
大化改新は勿論奈良朝然り、各宗の母胎揺藍の地になったこと。
また、世界に誇る万葉文学渕源の地ともいえよう。
既に我らの記憶から遠ざかったけれども、この土、この塵に曽て輝かなりし遠祖の香り、血が、汗が滲んでいることを思い起せば心揺ぶられ身の鼓動を禁じ得ない。
土地は枯れ、寺は寂びれて、み佛は傷つけども、領土・民族のあらん限り歴史のふる里ではある。
悠久なる前に吾人は一瞬である。
一生一度齷齪の中にも、此処に来た一時は大佛前に合掌し、古えの人の心にふれ、語り合い、民族の久しきことを国土の万世なることを願い顧みつつ懐古の情を温めることは報恩の一端ともなるものか。また、後代日本を背負う若人の弁えでもあろうか。
お互いの行く末無事安泰を黙祷されよ。
飛鳥への憧憬、飛鳥への郷愁、此処に来て初めて満喫し得るものか。諸氏の心情果して如何に。 
 平成十年四月吉日 住職謹記



飛鳥寺を後にし、飛鳥坐神社へ向かう。

辻に道標と道路元標らしきが見える。



(南面)「右 スグ元伊勢」。
(西面)「右 岡寺」。
この時は“元伊勢”が何処を指しているのか不明。
後で飛鳥坐神社のオフィシャルページをチェックすると、“元伊勢”は同神社のことと分かった。
(“元伊勢”と呼ばれる場所は一ヶ所ではなく複数ある)

そしてその左に「飛鳥村道×」と刻まれた道路元標が埋もれていた。



東方向に見える鎮守の森が飛鳥坐神社。


飛鳥坐神社に参拝する。
社標には「式内大社 飛鳥坐神社」と刻まれている。

つづく。



Feb.5(Wed)05:39 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin


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