竹内街道(古市~大泉緑地) |
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| 2019年1月6日(日)は、おおばこの会に参加した。 タイトルは「竹之内街道~古市から大泉緑地へ~」。
<概要> おおばこの会の2019年初歩き。 スタートは近鉄南大阪線古市駅。ゴールは地下鉄御堂筋線新金岡駅。
例年、初歩きは天理教本部のお節会(おせち)に参加していたが今年はなし。 Tリーダーによると来年は復活するかもしれないとのこと。
竹内街道、奈良県側はお馴染み。 金剛山地を挟んで大阪府側の麓は何回か歩いたことがある。 しかし、羽曳野市(古市駅)以西、堺市(新金岡駅)方面への平地歩きは初めて。 行政区では羽曳野市、松原市、堺市を歩いた。
古市駅前から南西方向に歩き、日本武尊御陵参拝道と彫られた道標を見て右折。 ここから先はカラー舗装されており竹内街道を表していた。 すぐに日本武尊白鳥陵古墳(やまとたけるのみこと はくちょうりょう こふん)に到着。
古墳を時計回りに周回しょうとしたが、道が途絶えており引き返す。 峰塚公園(峯ヶ塚古墳)を目当てに西方向へ歩く。 この辺り竹内街道沿いに旧家が建ち並ぶ。 旧道沿いに「衝破除」と彫られた石柱が道と民家との境に埋め込まれているのが散見された。
軽里北交差点でR170に架かる歩道橋を渡る。 歩道橋から日食が見られた。 歩道橋を降りると峰塚公園・峯ヶ塚古墳に到着。 小休止となる。
峰塚公園を後にして、竹内街道に立つ道標や常夜灯を見ながら野中寺(やちゅうじ)へと向かう。 廻鶴池の縁を歩き、児童公園を過ぎると、旧道らしく辻に常夜灯(太神宮)と道標「右 大坂 さかい 道 / 右 はせ 天保七年 / 法名××」が立っていた。 その向いには道標を兼ねた地蔵菩薩像「右ハ 者せみち 左ハ 奈らみち」。 近鉄バス野々上バス停の手前に、「元野中寺伽藍礎石 / 昭和三年三月」と刻まれた石柱が立つが、礎石は何処にあるのかよくわからない。
野中寺は聖徳太子建立四十六院の一とも称するところから、叡福寺の「上の太子」将軍寺の「下の太子」に対し「中の太子」と俗称せられている。 石人像を観たかったが、京都の高麗美術館に移転されていた。残念。
野中寺を後にする。 天仁病院前で車道から少し離れ旧道へ立ち寄ると立派な道標が立っていた。 「右 大坂 さかいみち 左 まきの寺 さやま / 左 ふじい寺 大みね いせ はつせ つぼ坂 / 文政十二年 / 堺施主 神南辺隆光」と刻まれている。 この“神南辺隆光”という人物、比較的知られているようだ。
東除川(ひがしよけがわ)に架かる旧伊勢橋の欄干が現在の橋の脇に置かれていた。 八王神神社、丹治(たじ)はやプラザ(丹比図書館)を見て進む。 近鉄バス野村バス停前で石仏を安置した覆屋とその横に日吉神社がある。 日吉神社の重厚な常夜灯は印象に残る。
更に西へ歩くと、目薬石と記された石が置かれていた。 この頃、昼食時間となったが、このまま進んでも昼食の適地がないようなので、日吉神社まで引き返し、大座間池の縁、桜の木が植林された横で昼食となる。 池の縁は風が強かったので、風を避けて昼食タイム。
昼食後、野霊園前を通って竹内街道を更に西へ歩く。 阪和道の高架下を潜る手前で、行政区が羽曳野市から松原市となる。 緑の一里塚で「竹内街道と立部遺跡」の説明板を見る。
暫く歩くと街道の左側に道標と、竹内街道とこの道標についての説明板が立っている。 道標には「左 ふちゐ寺 上太子 やまと 道 / 右 さやま かうや 左 ひらの 大坂 道 / 寛政九年丁巳五月 いせこう中」と彫られていた。
街道の右側(北)角に、松原南コミュニティセンターがあってその角にも道標と説明板があった。 「右 ひらの 大坂 道 / 左 さやま 三日市 かうや 道 / 左 さ可い 道 / 寛政九年丁巳五月 いせこう中」と彫られている。
やがて街道沿いに「岡の太子堂」と呼ばれるところに出る。 “岡”とは住所の名前。 岡公民館前から清堂川に架かる岡橋を渡り丹南北交差点でR309を横断。 この先で、行政区が松原市から堺市へ変わった。 西除川(にしよけがわ)に架かる西除橋を渡る。
野遠町(のとうちょう)会館前を経て(野遠)八坂神社に立ち寄る。 境内に「心のわがまち」と記された案内板が立っていた。
堺市立八下中学校前から大泉(おおいずみ)緑地に入る。 当日は第35回 大阪新春 マラソンが行われておりゴールとなっていた。 バーベキュー広場「GoodBBQ」、ふれあいの庭と歩いて中央休憩所で水鳥を見ながら小休止。
大泉緑地を後にし、西へ向かって歩き、15時23分に地下鉄御堂筋線新金岡駅にゴールした。
画像はこの日歩いた古市駅から新金岡駅までのGPSログを表示。
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| <コース> 9:27近鉄南大阪線古市駅9:34_道標(仁腎(にんけん)天皇 清寧(せいねい)天皇 日本武尊御陵参拝道 / 大阪皇陵巡拝會建設)_日本武尊白鳥陵古墳(やまとたけるのみこと はくちょうりょう こふん)を半周_道標(←峯ヶ塚古墳0.7km<竹内街道>古市駅0.5km→)_説明板(ウォーキング・トレイル)_民家(梅原軽金属工業)の狛犬一対_石柱(衝破除)が随所に見られる_軽羽迦(かるはか)神社_軽里北交差点でR170に架かる歩道橋を渡る_歩道橋から日食が見られた(地球から見て太陽の一部が月に隠れる部分日食)_峰塚公園・万葉歌碑(霞立つ 野の上の方に 行きしかば うぐいす鳴きつ 春になるらし)・説明板(古市古墳群)・絵図(峰塚公園)・説明板(史跡 峯ヶ塚古墳)_高松池_廻鶴池_児童公園_常夜灯(太神宮)・道標(右 大坂 さかい 道 / 右 はせ 天保七年 / 法名××)_道標を兼ねた地蔵菩薩像(右ハ 者せみち 左ハ 奈らみち)_道標(野中寺 0.2km)_石柱(元野中寺伽藍礎石 / 昭和三年三月)・説明板(歴史街道)_近鉄バス野々上バス停前_野中寺(やちゅうじ)_説明板(史跡 野中寺旧伽藍跡)・石柱(聖徳太子 御遺跡 第五番 中之太子 野中寺)・説明板(野中寺金堂跡 / 野中寺塔跡 / ヒチンジョ池西古墳石棺)・石柱(地蔵大菩薩 中之太子)・案内板(石人像の保管場所移転のお知らせ)・八臂辨財天・野中寺霊園・六地蔵・お染・久松の墓所・説明板(史跡 野中寺旧伽藍跡)_道標(←緑の一里塚 1.5km 野中寺 0.6km→)_落ヶ池_天仁病院前_道標(右 大坂 さかいみち 左 まきの寺 さやま / 左 ふじい寺 大みね いせ はつせ つぼ坂 / 文政十二年 / 堺施主 神南辺隆光)_東除川(ひがしよけがわ)に架かる旧伊勢橋の欄干(伊勢の橋/伊せはし/昭和六年三月架設)・東除川に架かる伊勢橋を渡る_八王神神社_丹治(たじ)はやプラザ(丹比図書館)前・道標(←野中寺1.8km 緑の一里塚0.3km)_樫山池_近鉄バス野村バス停前・覆屋・日吉神社・常夜灯_記念碑(野町会建立)・目薬石_緑の一里塚・説明板(竹内街道と野村)_元来た道を日吉神社まで引き返す_市立高年いきがいサロン5号館前_12:10大座間池・昼食12:50_野霊園前_道標(←緑の一里塚0.2km 松原市0.4km→)_道標(←野中寺2.3km 峰塚古墳3.0km 立部0.6km 正井殿1.2km→)_松原市と堺市の市境_立部東交差点_阪和道の高架下を潜る_立部東交差点_緑の一里塚・説明板(竹内街道と立部遺跡)_府営松原立部団地前_道標(左 ふちゐ寺 上太子 やまと 道 / 右 さやま かうや 左 ひらの 大坂 道 / 寛政九年丁巳五月 いせこう中)・説明板(竹内街道・中高野街道の寛政九年道標)_松原南コミュニティセンター・道標(右 ひらの 大坂 道 / 左 さやま 三日市 かうや 道 / 左 さ可い 道 / 寛政九年丁巳五月 いせこう中)・説明板(竹内街道)_説明板(岡の大師堂)・大師堂・説明板(竹内街道)_岡公民館前_清堂川に架かる岡橋を渡る_丹南北交差点でR309を横断_西除川(にしよけがわ)に架かる西除橋を渡る_石川鋳造所前_道標(竹内街道)_堺北八下(やしも)郵便局前_野遠町(のとうちょう)会館前_(野遠)八坂神社・堺市指定保存樹木くすの木・説明板_大池_富士ゴルフセンター前_堺市立八下中学校前_大泉(おおいずみ)緑地・第35回 大阪新春 マラソン会場・GoodBBQ・ふれあいの庭・中央休憩所・水流_光明幼稚園前_おさる公園前_新金岡市民センター前_府道28号線に架かる歩道橋を渡る_15:23地下鉄御堂筋線新金岡駅
<メモ> ・参加者総勢: 24名。 ・コース歩行 (古市駅~新金岡駅までの所要時間と距離) 距離: 約14.1km。 時間: 5時間56分。 ・実歩行 (自宅~自宅 正味歩いた時間と距離) 距離: 約20.8km。(0.67m×30,975歩=20,753m) 時間: 4時間48分。 歩数: 3万1千歩。 ・反省会:ニューミュンヘン 南大使館(難波千日前)
<参考> ・竹内街道・横大路(大道)活性化実行委員会ホームページ ・竹内街道 ・泉州・河内の道標を訪ねる。その①
民家の玄関先に置かれていた狛犬一対。 新しいものではなさそう。 羽曳野市軽里3丁目にて。
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| 日本武尊白鳥陵古墳から峰塚公園(峯ヶ塚古墳)に向う途中に、「衝破除」と彫られた石柱が、民家と道の境に埋め込まれているのがあちこちで見られた。 “しょうはよけ”と読むらしい。
車両が民家の壁などを傷つけないように置かれた置石のようなものかと思っていたがそうではない。
なんだろ? 衝破除(しょうはよけ) ー 南河内に多いようです。によると、昔から往来の多い街道の辻には霊が宿ると考えられ、T字路やY字路の突き当りには行き交う人々の情念が溜まるところと考えられていたらしい。 そして、それを除くものとして「衝破除(しょうはよけ)」というものが考えられた。
こちらのサイトは奈良県内の衝破除について紹介している。 衝破除 (しょうはよけ)
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| この日は日食が見られた。 詳しいことは知らないが、地球から見て太陽の一部が月に隠れる部分日食。 軽里北交差点、R170に架かる歩道橋から。
つづく。
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1月17日(木)20:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園57 |
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| 中垣内交差点で集女街道(府道67号線)を横断して暫くすると左手に来迎寺の道標が立っている。 来迎寺には立ち寄らず。
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| 引き続き大原野道を東へ歩き、梅ノ木交差点で府道206号線に出合いこれを左折。
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| 反省会は阪急東向日駅近辺ではお馴染み、餃子の王将 東向日店。参加9名 15:02~16:17。
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| いつもながらボリュームがあって美味しい。 画像手前左の料理は「肉と玉子のいりつけ」。
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| 「肉と玉子のいりつけ」は税抜500円也。 この後、私はJR東海本線向日町駅まで歩いて帰路に着いた。
おしまい。
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1月16日(水)18:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園56 |
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| 大原野道(府道207号線)に出合いこれを左折。(東)
曲がり角に桓武天皇皇后御陵の道標が立つ。(画像中央)
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| 大原野道を東へ歩くと、右手に曹洞宗 慶昌院が現れる。
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| 慶昌院が所蔵している市指定文化財の説明板。
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| 慶昌院と大原野道の角地に立つ地蔵菩薩立像。
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| やがて右手に例慶(れつけい)公園が現れ、公園の中に「願徳寺宝菩提院跡」の説明板が立っていた。 説明書きによると、白鳳時代に建てられた仏教建築跡地。
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1月16日(水)18:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園55 |
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| 暫くの間、西ノ岡竹林通を歩く。
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| 右手に「竹穂垣」が続く。
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| 「桓武天皇皇后陵 天之高藤廣宗照姫之尊(あまのたかふじひろむねてるひめのみこと) 高畠陵(たかばたけのみささぎ)」に到着。
向日市歴史・観光サイト によると、長岡京を築いた桓武天皇の皇后のお墓で宮内庁陵になっています。 直径約65メートル、高さ約7メートルの円形をしています。 もとは古墳時代前期の円墳であったとされています。
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| 分岐で右折(南)。 阪急東向日駅、JR向日町駅方面へ向かう。
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| 住宅地の中を歩く。
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1月15日(火)18:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園54 |
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| 西ノ岡トリムコースの案内板。 全長5.3kmと表示されている。
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| 「竹の径」の案内板。 左の道からやって来た。
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| 右手に寺戸町北墓地が現れる。 塀の外側から宝篋印塔を撮影。
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| 「西ノ岡トリムコース」の案内板。
この案内板ではコースは片道2.65kmとなっている。 往復して全長5.3kmということなのだろう。
現在地から、この後、桓武天皇皇后陵へ向かうのでコースから外れる。
ところで“トリム”とは、21世紀の森公園 のサイトによると、 「トリム」は、バランスを保つことを意味するノルウェーの造船用語で、そこから「トリム運動」という言葉が生まれました。 トリム運動は、1960年代後半にノルウェーで始まり欧米各所に広まった運動で、心身ともにバランスをとるためにスポーツで健康・体力づくりをしようとするものです。 特に具体的な種目というものはなく、楽しみながらスポーツに親しみます。
上記サイトは「いわき市公園緑地観光公社」の説明だが、同じような意味だろう。
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| 向日市立第6向陽小学校の校舎を左に見遣る。
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1月15日(火)18:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園53 |
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| 手前の竹垣が物集女垣、右奥に続くのは竹穂垣。
京都市洛西竹林公園 のサイトによると、 物集女垣・・・中世の物集女城壁をイメージし、竹の表面を縦横に配するなど竹本来の美しさを強調している。 竹穂垣・・・・選別した竹の枝のボリュームを十分に生かした美しい作りになっており「竹の径」で最も多く使われている。
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| この後に歩くポイントが表示されている。 まずは寺戸大塚古墳、徒歩僅かに1分。
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| 「史跡 乙訓古墳群 寺戸大塚古墳」の石柱が立つ。
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| 寺戸(てらと)大塚古墳
向日市歴史・観光サイト の最新情報によると、 向日市立第6向陽小学校から竹林公園へ続く竹の径にある、古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳です。 古墳の後円部が雑木林となっており、前方部は竹林として利用されています。 全長約98メートル、後円部が直径約54メートル、高さ約10メートルで、前方部が幅約45メートルです。 墳丘は、後円部が三段築成、前方部が二段築成で、斜面に葺石が施されており、平面には埴輪が大量に並べられていました。 埋葬施設は後円部と前方部から一室ずつ発見されており、双方ともに竪穴式石槨ですが、後円部は地元の西山産の板石でつくられており、前方部は大阪府柏原市産出の板石でつくられています。 後円部は埋葬の中心的な場ですが、前方部の施設にも後円部と同等の副葬品(鏡や勾玉などの装身具、鉄刀や剣などの武器、鎌や斧などの工具、埴輪等)が納められていたことから、前方部の埋葬者も手厚く葬られる地位の高い人物だったと考えられています。 全長: 約98m 後円部: 直径約54m/ 高さ約10m(三段築生) 前方部: 幅45m (三段築生) くびれ部: 幅35m
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| 寺戸垣。
向日市観光協会のサイト によると、 地元寺戸町に由来し、格子の間から見える竹林がまた違った趣となるよう、結び目の位置や格子の間隔に職人の技生かされている。
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1月14日(月)18:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園52 |
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| 洛西竹林公園を後にして、西ノ岡竹林通に戻り、引き続き南へ向う。 歩道はないが、クルマの通行量はそれほど多くない。
先程の説明板によると、このあたりの竹垣は竹穂垣(たけはがき)と呼ばれている。
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| 阪急洛西口駅まで徒歩35分と表示されている。 この日のゴールはこの駅の一つ大阪寄り阪急京都線東向日駅。
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| 「竹の径」の案内板。 この地図は上が南。
現在地から寺戸大塚古墳、第6向陽小学校、桓武天皇皇后陵を経て阪急東向日町駅へ向かう。
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| この竹垣は他所ではほとんど見たことがないと思う。
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| 物集女垣(もずめがき)と呼ばれている。
名称は、地元、物集女町に由来し、中世の物集女城跡から城壁をイメージして作製されています。 竹の表面を縦横に配するなど竹本来の美しさを強調して見せる竹垣として、「竹の径」に彩りを添えています。 向日市観光協会
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1月14日(月)18:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(続)箕面山_六個山_五月山_ひょうたん島コース |
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| わくわく展望台から大阪平野の眺望。
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| 五月山山頂。 正式名:千代山 三等三角点 314.88m 点名:木部(きべ)。 ここも山頂からの展望なし。
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| 昼食場所の日の丸展望台。
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| この吊り橋は一人ずつ渡るものだろう。 複数で渡ろうとすると、バランスを崩し吊り橋が大きく揺れて危険。 先頭の人は足元の丸太に足を乗せられないのでパニックっていた。 後方の人が両手で手摺を持つようアドバイスし無事に渡ったみたい。 五月山公園、吊り橋にて。
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| ひょうたん島コース取り付きにあるひょうたんの形をした小さなコブ。
おしまい。
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1月13日(日)18:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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箕面山_六個山_五月山_ひょうたん島コース |
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| 2019年の初歩きは3日(木)、山を登る会の第1,023回例会に参加した。 山域は北摂。
<概要> 初歩きにふさわしいお天気となり遠望もそこそこ楽しめた。 例年通り山を登る会の初歩きは距離が短めで案内では12km。 スタートは阪急箕面線箕面駅。ゴールは阪急宝塚線池田駅。
箕面駅から滝道を歩き、唐人戻岩の手前で三国峠方面へ取り付く。 箕面大滝の遠望スポットを経て、今回、初めて箕面山355mの山頂に立った。 三角点はなく山頂からの展望はない。
三国峠の“三国”とは、具体的にどの地域を指すのだろうか、と話しながら三国峠に到着し小休止。 再び歩き出し、葉っぱが落ちた大ケヤキを見て下る。 箕面GCでプレイする人を右に眺めながらフェンスに沿って南へ。
わくわく展望台を経て、六個山(ろっかやま)395.77mに到着。 通常のハイキングだと、ここで昼食となるところだが、山を登る会は歩くペースが早い。 山頂到着は10時50分。
六個山から下山時、ありきたりのコースを歩くのは詰まらないので、石澄滝(いしずみたき)へ寄ろうということになった。 旗振り役はM氏。 石澄滝は前から興味があったので、この話に乗ったが、途中、倒木に気を取られ、左折すべき尾根道をロスト。 石澄川の渡渉地点から石澄川に沿って下ることも考えられたが踏み跡がないようで危険。また距離も長い。 結局、この日は行けなかったが、またの機会にチャレンジしたい。
トイレのある日の丸展望台前で昼食。 昼食後、今回初めて五月山の山頂に立ち寄った。日の丸展望台から1分程度。 正式には千代山(三等三角点 314.88m 点名:木部(きべ)という名前があって、五月山というのは、後から付けた名前だろう。
展望台から池田駅へ、自然とふれあいコースを経てひょうたん島コースを歩いて下山。 聞くところによると、この名前は上空から眺めた山の形がひょうたん島に似ているから名付けられたという。 ひょうたん島コースに取り付くところに、ひょうたんの形をした小さなコブがあった。
温室、緑化植物園前から池田城跡公園、池田駅前公園を経て、12時50分池田駅にゴールした。
<コース概略> 阪急箕面線箕面駅9:05_ 瀧安寺_落合橋方面(通行禁止)を左に見送り直進_唐人戻岩の手前で左折、階段を登る_箕面大滝眺望ポイント_箕面山355m_三国峠_分岐(ようらく台 エキスポ記念の森方面を右に見送り ハート広場・六個(箇)山)方面へ直進_大ケヤキ_森林作業道を横断_落合橋方面(通行禁止)を左に見送り直進_箕面ゴルフ倶楽部のフェンスに沿って歩く_落合谷分岐を左に見送り直進_わくわく展望台・分岐を右折し東尾根コースを歩く_分岐で右折し青空展望台方面へ_急階段を登る_六個山(ろっかやま 二等三角点 395.77m 点名:松尾山)_石澄川を渡渉_林道に合流・南へ歩く_眺望地_五月山緑地霊園_池田カンツリー倶楽部工務部の建物を右に見て歩く_三叉路で左折・五月山幹線道路方面へ_電波塔前_五月山霊園入口前_五月山公園_11:33日の丸展望台・昼食・千代山(三等三角点 314.88m 点名:木部(きべ))12:00_東屋_五月山霊園_道標(五月山緑地遊歩道)_トイレ_道標(五月平高原コース分岐を左に見送り 直進して自然とのふれあいコース五月台方面へ歩く)_道標(杉ケ谷コースを左に見送り五月台方面へ直進)_ベンチ_吊り橋_愛宕神社分岐を右に見送る_自然とのふれあいコースから左折しひょうたん島コースに取り付く_ひょうたんの形をした小山_道標(緑のセンター ひょうたん島コース→)_展望台_休憩所分岐を右に見送り直進_杉ケ谷コースと合流_温室・緑化植物園前_五月橋を渡る_五月山児童文化センター前_五月山体育館前_杉ヶ谷川に架かる橋を渡る_池田城跡公園分岐を右に見送り直進_小林一三記念館分岐を左に見送る_法園寺前_祠(延命子守地蔵尊)_地蔵堂_池田市役所前_池田駅前公園_12:50阪急宝塚線池田駅
<メモ> ・参加者: 89名。 ・リーダー: N氏 ・コース歩行 (箕面駅~池田駅 休憩時間含む) 距離: 約13.5km。 時間: 3時間45分。 ・実歩行 (自宅~自宅 最寄り駅往復 大阪駅~梅田駅往復等を含む 休憩時間不含) 距離: 約16.9km。 時間: 3時間54分。 歩数: 2万5千歩。
<参考> ・五月山公園 ・さつきやまハイキングマップ
画像はこの日歩いた箕面駅から池田駅までのGPSログを表示。
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| 唐人戻岩の手前から三国峠方面へ取り付く。 途中、箕面大滝の眺望ポイントから箕面大滝。 写真では小さくて分かりにくい。 左からの風に吹かれて流落ちる水が右へ曲がっている。
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| 箕面山山頂。 潅木に覆われ山頂からの展望なし。
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| 葉っぱの落ちた大ケヤキ。
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1月13日(日)18:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園51 |
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| 百々橋の橋桁越しの水面に僅かに映ったモミジを眺める。
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| 先の京都市洛西竹林公園の説明にあったが、百々橋は応仁の乱(1467-1477)の頃は木製の橋だったが、その後、石橋に改築されたが、その年代はいつ頃なのだろうか。 比較的、新しい時代なのかもしれない。 ※ネット検索すると、明治40年(1907年)に石橋に改築された。
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| 一面ササに覆われた丘陵地。
このササはこれ以上背丈が高くならないのだろうか。 これは刈り込んでいる?
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| 説明板によると「オカメザサ」。
高さ1~1.5メートル。 庭園用、地被用に用いるとのことなので、刈り込んでいないのかも。 刈り込むにしても、背丈が高くならないなら、後の管理はラクみたい。
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| 生態園の案内図。
石仏群は案内図右上の「石造物」と表示されているところ。
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1月12日(土)18:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園50 |
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| 「人工四角竹」が目に留まった。 「孟宗竹」を人工的に「四角」く強制的に成長させたものらしいが、用途が知りたいところだ。
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| 庭(生態園)から、竹の資料館を眺める。
眼下に百々橋(どどばし)。
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| このあたり、元は竹が生えた丘陵地だったことがわかる。 赤っぽい木は植栽されたモミジ。
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| モミジの紅葉。やや色あせている感じ。
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| 水面に浮かぶ水草。
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1月12日(土)18:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園49 |
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| 板碑の類が並ぶ。
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| 盃状穴。
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| 光背の先が欠けている石仏が多く散見される。
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| 先の説明板に記述されていた「信長は多数の石像を倒し、頸に縄をつけて工事場に引かしめた。 都の住民は、これらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖を生ぜしめた」(松岡毅一・川崎桃太訳「フロイス 日本史」による。)
この光景が目に浮かぶようだ。
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| 旧二条城関係の石造物群を後にして、竹の資料館へ戻る。
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1月11日(金)18:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園48 |
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| 旧二条城関係の石造物群
ここに展示されている石造物は、地下鉄烏丸線建設に先だって昭和50年から53年にかけて行われた事前発掘調査により確認された旧二条城跡から出土したもので、 主に石垣の石材に使用されていたものである。 旧二条城は、永禄12年(1569)に織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭のために築造したもので、烏丸丸太町交差点の北に位置し、発見された石垣には、自然石の他に石仏、供養碑、五輪碑、礎石、建材等が使用されていた。 当時日本で布教活動をしていたポルトガルの宣教師フイス・フロイスの著わした「日本史」の中にも「信長は多数の石像を倒し、 頸に縄をつけて工事場に引かしめた。都の住民は、これらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖を生ぜしめた」(松岡毅一・川崎桃太訳「フロイス 日本史」による。)という記載があり、上記の事実と一致する。 これらの石造物は、従来あまりよく知られていなかった旧二条城の貴重な資料であり、 昭和58年6月1日に京都市指定有形文化財(考古資料)に指定された。 京都市
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| 展示?されている石仏群。
転倒のおそれがある為か、半身が埋没されている。
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| 右端の石仏は埋め過ぎ。
拝顔できない状態。
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| 優しそうなお顔をされている。
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| 双石仏だが、仕切りがある、と云うか舟形の背が二つ並んでいるので、仕切りのように見えてしまう。
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1月11日(金)18:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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エラ・メイ |
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| エラ・メイを視聴してみよう。
Ella Mai - Trip
Ella Mai | "Trip" | Choreography By Karon Lynn
Ella Mai - Trip (Live On The Tonight Show Starring Jimmy Fallon/ 2018)
Ella Mai Trip 和訳
Ella Mai - Boo'd Up
洋楽 和訳 Ella Mai - Boo'd Up
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1月10日(木)21:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理
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薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園47 |
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| 由緒ありげな石橋が見える。 駒札が立っている。
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| 一見すると新しい橋のように見えたが。
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| 百々橋(どどばし)の由来
宝鏡寺門前の東西の通りを百々(どど)の辻と呼ぶのは平安時代からであるが、小川にかかるこの小橋が、いちやく有名となったのは、戦国時代この橋をはさんで合戦が行われてからである。 応仁元年(一四六七年)五月、応仁の乱最初の大合戦にさいし、この橋には、細川勝元配下の三宅、吹田、茨木、芥川氏など攝津の武将が布陣し、山名方の平賀氏と激しく戦った。 ここから、南の方一条戻り橋付近までが、その時の主戦場となり、付近一帯が戦火で焼失した。 それから四十年後、細川勝元の子、政元の跡嗣をめぐって、養子の澄元と澄之が対立、永正四年(一五〇七)六月二十三日澄之が、香西元長(嵐山城主)、薬師寺長忠らと謀って養父政元を殺し翌二十四日澄元を攻めて、この橋で激しく戦った。 澄元は近江へ敗走したが、八月一日には京都へ還り、澄之、元長、長忠を攻め亡した。 この小さな橋には、かくて戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれている。 なお、明治四十年(一九〇七)に改築したもので小川が昭和三十八年(一九六三)に埋められ、石橋の貴重な遺構として現地に礎石を遺しここに移築したものである。 京都市
京都市洛西竹林公園 のサイトによると、竹の資料館から生態園の遊歩道に出てまもなく、池の上に「百々橋」(どどばし)が架けられています。 この橋は、かつて京都市百々町と宝鏡院東町との境の寺之内通に架けられていたもので、応仁の乱(1467-1477)のとき、 細川家(東軍)と山名家(西軍)が11年にわたって戦ったその発端となった橋です。 もともと板橋でしたが、後に石橋に改築されたもので、昭和38年に解体され、室町小学校に保管されていたものをこの洛西竹林公園へ移築されたもので、京都でなくては見られない遺跡の一つです。
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| ミヤコザサ。
低山でよく見かけるササ。
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| 案内板「石仏→」の方向へ進む。
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1月10日(木)18:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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