(完)難波の道(太閤下水から中央公会堂) |
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| 明の時代の珍しい狛犬。
こま犬 現地の説明板より、 この一対の「こま犬」は中国・明【みん】の時代の文化遺産で、それぞれ高さ約3メートル、重さ約2.9トンである。 日中戦争の最中に日本へ運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。 戦後も長らく山里口出枡形【やまざとぐちでますがた】の東付近に置かれていたが、昭和59年(1984)、中国政府により改めて大阪市に寄贈されることとなり、現在の場所に移された。 以来この「こま犬」は、両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴となっている。 脇に建立された記念碑には、変わらぬ中日友好への願いをあらわした「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており、これは当時の宋之光中華人民共和国駐日本国特命全権大使の筆になる。
画像中央の石碑“中日友好萬古長青”は、当時の宋之光中華人民共和国駐日本国特命全権大使の筆による。
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| 川崎地蔵尊。 大川と寝屋川の合流地点、その大川に架かる川崎橋の南詰にある。
ネット検索によると、 川崎というのは旧地名だそう。 川崎橋は昭和53年に完成で新しい。 元は“川崎渡”があった場所とのこと。
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| 「将棊島 粗朶水制跡」の石碑と説明板。
将棊島は、淀川の水が寝屋川・鯰江川(なまずえがわ)に逆流して水害を引き起こすのを防ぐために、三つの河川の合流点の網島から天満橋を越えて二三六間(約四三〇m)余り下流まで築かれた隔流堤で、幅七間(約一三3m)あった。 淀川治水のため、明治六年(一八七三年)に来日したオランダ人技師デ・レーケ、エッシェル、ティッセンの3人は、その翌年、将棊島地先にオランダ式の粗朶沈床による水制工を実施した。 これは木の枝を束ね、組み合わせたものに石を詰め、河岸から河の中央に向かって設置された突起物で、水の勢いを弱め、護岸に効果があった。 この工法はケレップ水制とも呼ばれ、現在でも城北公園(旭区)北側の淀川左岸にその名残を留める。 デ・レーケは来日してから二九年間、大阪に留まり、淀川の治水と大阪湾の建設に尽力した。 大阪市教育委員会
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| ばらぞの橋。 中之島、パラ園にて。
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| 緒方洪庵像。
「史跡 重要文化財 緒方洪庵旧宅及び塾」の庭にて。
緒方洪庵 - Wikipediaによると、 ・緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日(1810年8月13日) - 文久3年6月10日(1863年7月25日))は、江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。 ・大坂に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。 ・天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
おしまい。
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4月17日(水)18:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(続々)難波の道(太閤下水から中央公会堂) |
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| 1931年建立の旧陸軍第四師団司令部庁舎(現在:商業施設 ミライザ大阪城)。
太平洋戦争の空襲で焼け残った建物。 大阪城近辺には軍事施設があった為、それが標的となり、残っている施設は僅か。 そんな中で、唯一現存している大物の建物がこれ。
現地の説明板によると、 ・この司令部が建てられたのは昭和6年。 ・昭和天皇の即位を記念して、市民の寄付により当時の金額で150万円が寄せられ、大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設と合わせて第四司令部として新設された。 ・それまでは大阪城内に司令部が置かれていたために、一般市民の立ち入りが規制されていた。これをきっかけにして、大阪城の見学ができるようになった。 ・戦後は占領軍に接収された後、大阪市警察庁、大阪府警本部として利用。昭和35〜平成13年までは大阪市立博物館として利用されていたが、博物館が移転。 ・現在は商業施設ミライザ大阪城
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| 日本庭園から大阪城を望む。 この近くの南西隅櫓跡付近で昼食。
ここまで足を伸ばすインバウンドは流石に少なかった。
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| 刻印石広場。現地の説明板によると、 この広場は、大阪築城400年を記念し、その石垣を形成している刻印石を展示、紹介するため、新設したものである。 刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命ぜられた諸大名の家臣や石工らが、石集めや石積みの過程で、個々の石に、必要応じてさまざまな文字や文様を刻みこみ、さらに出来上った石垣の表面に担当大名の家紋その他を刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されている。 ここに展示したものには、昔の石置場、周辺の川筋などから出土したものや城内の石垣修理で撤去されたものなどである。 一般に、大阪城の石垣は、豊臣時代のものがそのまま残されていると思われがちであるが、実は、現存する石垣はすべて元和・寛永年間(1620~1629)に、徳川幕府が西日本の64藩を動員して築かせたもので、無数の刻印石がその事実を証明している。 昭和58年10月 大阪市
大阪城、刻印石広場にて。
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| 「豊臣秀頼 淀殿ら自刀の地」の石碑。 現地の説明板によると、 慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。 それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。
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| 大阪城の内堀を船で周遊する大阪城御座船(ござぶね)
つづく。
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4月16日(火)18:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(続)難波の道(太閤下水から中央公会堂) |
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| 「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」の右側にある大村益次郎のレリーフ。 大村益次郎 - Wikipediaによると、 ・大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。 維新の十傑の一人に数えられる。 ・長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。 太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。 靖国神社の参道中央に像がある理由もこのためであるとされる。
この場所に記念碑があるのは、この地が“最期の地”だった。
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| 難波宮跡公園(フェンスの向こう側)に咲くハナニラ。 野生化している。
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| 難波宮跡、大極殿の礎石。(復元) 難波宮跡公園によると、 ・飛鳥~奈良時代にかけて、大阪が日本の都であったことを示す前後期の宮殿の跡。 ・大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。 ・昭和36年(1961)、大阪市立大学教授の山根徳太郎博士の発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認された。 ・現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられている。 ・史跡は2種類の方法で示されていて、地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが神亀3年(726)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉(びゃくち)元年(650)から造営が始められた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)=前期難波宮となっている。 ・公園の中央北寄りには、天皇が国家の公式行事をおこなう際に使用したとされる大極殿も復元されており、その上からは大阪城を眺望することができる。
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| 大阪城、大手口枡形の巨石 現地の説明板によると、 枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の進入を食い止める役割を果たした。 築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。 大手門をくぐって正面に位置する大手見付石(おおてみつけいし)は、表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石(おおてにばんいし)は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石(おおてさんばんいし)は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)と推定されている。 現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。 この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠弘(かとうただひろ)が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊氏(ありまとようじ)が改築した。
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| ソメイヨシノの開花は先の開花予報と較べると、4、5日遅れていたようだ。 大阪城、大手門付近にて。
つづく。
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4月15日(月)18:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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難波の道(太閤下水から中央公会堂) |
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| 2019年3月28日(木)は、ササユリの会に参加した。 タイトルは「難波(なにわ)の道~太閤下水から中央公会堂まで~」。
<概要> スタートは地下鉄谷町線谷町六丁目駅。ゴールは地下鉄御堂筋線淀屋橋駅。 谷町六丁目から七丁目辺りは、太平洋戦争の空襲で焼け残ったので、古い伝統的な家屋が多く残っている。
熊野街道に出合いこれを北へ歩く。 この近辺は今年1月26日、土曜会でなにわの熊野街道(天満橋_阿部野橋)で歩いていた。 なので、重複する部分は割愛する。 直木三十五文学碑、榎木大明神を観て太閤下水見学施設へ。 この施設、見学するには事前に申し込みが必要。
熊野街道の説明板、南組惣會所跡の石碑、兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑などを見て難波宮跡へ向かう。 難波宮朝堂院南門跡から難波宮跡公園、難波宮跡を観て法円坂の交差点を北へ横断。
大手門から大阪城へ入る。 サクラの開花は先の開花予報と較べると、2、3日遅れていたようだ。
平日ながらインバウンドで賑わう城内を練り歩く。 桜門枡形の巨石、1931年建立の旧陸軍第四師団司令部庁舎(現在:商業施設 ミライザ大阪城)などを観る。 日本庭園の南、南西隅櫓跡で昼食。
食後は刻印石広場、「豊臣秀頼 淀殿ら自刀の地」の石碑、大阪城の内堀を船で周遊する御座船(ござぶね)、珍しい明の時代の狛犬などを観て京橋口へ。 寝屋川に掛かる大坂橋、川崎地蔵尊、大川に架かる川崎橋を渡って造幣局の南門前へ。
「将棊島粗朶水制跡」を観て、天神橋北詰交差点から天神橋を渡って中之島へ入る。 薬剤散布中のパラ園、「ばらぞの橋」を渡って大阪市中央公会堂前へ。
土佐堀川に架かる栴檀木橋を渡って北浜2交差点から、「史跡 重要文化財 緒方洪庵旧宅及び塾」へ。 この施設は参観料(260円)が必要で、機会があればゆっくり観てみたい。 ここで解散となり、私は地下鉄御堂筋線淀屋橋駅へ向かった。
<コース> 地下鉄谷町線谷町六丁目駅10:10_長堀通の南側の道を西へ_春田ビル(閉ざされた階段)前_CAFE & BAR Hampi前_うたげ(肉料理)前_長堀通を西へ_熊野街道を北へ_直木三十五文学碑_榎木大明神_道標・説明板(熊野街道)_石柱(→太閤下水見学施設)_説明板(太閤下水(背割下水))_南大江小学校前_案内板(歴史の道 熊野かいどう)_石碑(南組惣會所跡)_谷町五丁目交差点を東へ_兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑_上町筋を東へ横断_難波宮朝堂院南門跡_難波宮跡公園_難波宮跡 公衆トイレ_法円坂の交差点を北へ横断_説明板(重要文化財 大手門)_大阪城 多聞櫓_説明板(大手口枡形の巨石)_説明板(重要文化財 千貫櫓)_説明板(南仕切門跡・太鼓櫓跡)_説明板(桜門枡形の巨石)_ミライザ大阪城(商業施設 旧陸軍第四師団司令部庁舎1931年建立)前_日本庭園_11:41大阪城 南西隅櫓跡・昼食12:14_刻印石広場・説明板(大阪城内ゾーン)・竜造寺町12ゾーン_石碑(豊臣秀頼 淀殿ら自刀の地)_大阪城御座船乗り場_狛犬(中国・明の時代の文化遺産)・記念碑(中日友好萬古長青)_大阪城 京橋口_旧大阪砲兵工廠化学分析場前_寝屋川に掛かる大坂橋を渡る_京阪本線の地下道を潜る_川崎地蔵尊_大川に架かる川崎橋を渡る_大川に架かる天満橋の高架下を潜る_石碑・説明板(将棊島粗朶水制跡)_天神橋北詰交差点を左折 天神橋を渡って中之島へ_案内図(中之島案内図)_パラ園_ばらぞの橋を渡る_大阪市中央公会堂_土佐堀川に架かる栴檀木橋を渡る_福仙楼前_史跡 重要文化財 緒方洪庵旧宅及び塾(参観料 260円)_緒方洪庵像_大阪淀屋橋郵便局前_14:15地下鉄御堂筋線淀屋橋駅1出入口
<メモ> ・参加者: 11名。 ・コース歩行 (谷町六丁目駅~淀屋橋駅までの所要時間と距離) 歩行距離: 約10.0km。 所要時間: 4時間0分。 ・当日歩行 (自宅~自宅までの正味歩いた時間と推測距離) 推測距離: 約12.5km。(0.67m×18,615歩=12,472m) 歩行時間: 3時間6分。 歩数: 1万9千歩。
画像は地下鉄谷町線谷町六丁目駅から、地下鉄御堂筋線淀屋橋駅までのGPSログを表示。
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| 左の建物の階段、通行が出来ない。所謂“デッドスペース”。 階段を塞いで平坦にした方が、スペースを有効に利用出来る。 大阪市中央区谷町6丁目にて。
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| 地下の太閤下水を覗き見するウインドー。 湿気で窓が結露しており、下の様子がよく見えない。 “下水”にしては、比較的綺麗な水が勢い良く流れていた。
太閤下水(背割下水) 現地の説明板によると、 江戸時代に造られた石組み下水道。 「太閤下水」の呼称から、豊臣秀吉が行った大坂の町づくりと関連付けられています。 17世紀中頃の大坂を描いた「三郷町絵図」にこれらの水路が描かれており、江戸時代初期からあった下水道といわれています。 明治27年(1894年)から行われた「中央部下水道改良事業」によって、石組み溝の底にコンクリートを打ち、蓋をかぶせる工事を行い現在の姿となりました。 江戸時代に造られた下水道が現役で機能している例は他都市にはなく、大坂の町づくりの歴史を示す貴重な資料として、一部が平成17(2005)年度に大阪市文化財(史跡)に指定されました。[大阪市]
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| 「歴史の道 熊野かいどう」 平安時代中期から鎌倉時代にかけて熊野信仰が盛んになると、王朝貴族から武士や庶民にいたるまで、多くの人々がこぞって熊野参詣を行うようになり、その様子は、「蟻の熊野詣」と言われました。 京都の下鳥羽から船で淀川を下り、窪津(別名を渡辺津といい、現在の中央区天満橋京町)に上陸します。 熊野街道は、そこにあった第一の王子社(おうじのやしろ)の窪津王子を起点として、この付近を通って四天王寺・住吉・泉州・紀州・中辺路を経由して、熊野三山(本宮・新宮速玉・那智)に至る信仰の道です。 なお、近くの神崎町に、九十九王子社の一つである坂口王子伝承地の朝日神明宮旧跡があります。 平成六年五月 大阪市 建立 南大江社会福祉協議会
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| 大阪市中央区のイベント・観光・旅行に役立つ情報サイト、“大阪中心”によると、 南組惣會所跡(みなみぐみそうかいしょあと)
町人が中心となって町政を司る 江戸時代の大坂は、大川以南から本町通までの北組、本町通から道頓堀あたりまでの南組、大川以北の天満組に区分され、その3組を総称して大坂三郷と呼ばれていた。 各組には自治行政を行った惣会所が置かれ、運営の中心となる惣年寄がおり、その下で惣代が実務を担っていた。 惣年寄は町奉行のもとで、年貢の取り立て、御触(おふれ)の通達、町年寄の任命、火消しの人手の指揮など、現在の市役所・司法・消防・警察などの業務を担当した。 この制度は大阪・岡山・高知・鹿児島などにみられ、江戸時代のはじめ頃の元和2年(一六一九)から明治のはじめまで続いた。 北組惣会所跡の石碑は大正8年(一九一九)、南組惣会所跡は昭和37年(一九六二)に建立。
画像左の石柱が南組惣會所跡碑。 右は南大江小学校跡碑。
つづく。
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4月14日(日)18:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(完)金剛山(青崩道) |
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| 豚バラ。メチャうまい おでんも美味しかった。 「酒処 つかさ」にて。
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| 店内の様子。
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| 反省会場二番手は、立ち呑み処 蔵元豊祝 天王寺区悲田院町10-48 天王寺MIOプラザ館 M2F 「奈良豊澤酒造」直営。
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| 立ち飲みスタイルとなっており、椅子はなし。 きき酒セット 350円がお値打ち。
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| こちらが、その「きき酒セット」。 このお店、立ち飲み日本酒バーというイメージ。 お酒はともかく食べ物がイマイチという気がしなくもない。 もっとも、立ち飲みなので、ゆっくり食事は出来ない。
おしまい。
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4月13日(土)18:23 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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(続々)金剛山(青崩道) |
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| ベンチが置かれた「セト」。 分岐になっており、千早本道方面へ続く黒栂谷道との分岐地点。 金剛山頂へは直進。黒栂谷道は右下へ降りる “セト”の漢字表記、“瀬戸”が浮かぶが、“背戸”あるいは“狭戸”とも考えられる。
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| セトから先、石が多く、やや歩き辛い。 この区間は短い。
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| 金剛山頂のかまくら跡!? ほとんど消滅しかかっている。
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| 国見城跡の金剛ざくら。 5月上旬頃に満開。 花を観たことがあるが、うすみどり色だけあって地味な色。
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| 反省会場の 酒処 つかさ 天王寺区悲田院町10-48 天王寺MIOプラザ館 M2F この店、クエ料理を前面に押し出しているが、この日注文可能なクエ料理は「クエぞうすい」だけだった。(私達は注文せず) 平日の16時半頃だったが、店に入るのに少し待った。 店を出る頃は長蛇の列。
つづく。
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4月12日(金)17:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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(続)金剛山(青崩道) |
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| 蕾を付けたミヤマキシミ。 この低木、葉をちぎるとミカンのような香りがあるが有毒。(アルカロイド)
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| 分岐に立つ道標。 右は「二河原辺(にがらべ)・水分道方面」。 金剛山頂は直進。
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| 二河原辺方面への分岐に立つ登山図。(金剛山赤坂古道) 現在地は“出会”と表示されているところ。 青崩→出会→電波管理所→セト→金剛山→葛木神社方面へ向かう。 画像に現在地を赤丸しておいた。 赤坂古道も歩いてみたいが、長丁場になりそう。
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| 石仏(右)と板碑。
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| ショウジョウバカマ。 真ん中の蕾の茎が伸びて(15cm~20cm程度)その先に花を付ける。 これは大株なので立派な花が見られそう。
つづく。
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4月11日(木)18:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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金剛山(青崩道) |
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| 2019年3月26日(火)は、Na氏と二人で青崩道から金剛山に登った。
<概要> 青崩(あおげ)道から金剛山に登ったのは、2008年4月29日以来、11年振り。 この時は、下山に石ブテ尾根道を歩いて駐車地点に戻った。 今回は、おとなしく青崩道をピストンしたが、次回以降、石ブテ尾根道も歩いてみたい。
トイレ横の駐車地点から山頂まで、山地図によると所要2時間20分と表示されている。 内訳は駐車地点(トイレ横)_<1時間20分>_水分道分岐_<20分>_セト_<40分>_金剛山頂(山頂広場)=合計2時間20分。
また、現地の私製の案内板によると2時間5分。 内訳は駐車地点(トイレ横)_<85分>_セト_<40分>_金剛山頂(山頂広場)=合計2時間5分。
これに対し、私達の実際の記録は、 9:51駐車地点(トイレ横)_<82分>_11:13セト_<41分>_11:54金剛山頂(山頂広場)=合計2時間3分。 現地の案内板より僅かに2分早かった。
もっとも国見城跡への登山道が崩落しており、この為、迂回する羽目に。 この分のアルバイトを考慮すると、現地の案内板よりかなり早く到着した。
山地図の時間とは少し乖離がある。 山地図は休憩時間を考慮しているのだろう。 私達は休憩らしき休憩はなかった。 服装を調整した程度。
このルートは、登りはじめは急な階段が続くが、尾根に登ると比較的なだらかな道が続くので、歩きやすい道といえると思う。 登山者の姿は少ない。
この日の山行で直近でのクルマを利用した金剛山方面は6回目となった。
1.2月21日 金剛山(千早本道_千早城跡) 2.2月25日 金剛山(水越峠_ダイトレ) 3.3月08日 金剛山(千早本道) 4.3月13日 大和葛城山(天狗谷道) 5.3月20日 金剛山(水越峠_ダイトレ) 6.3月26日 金剛山(青崩道)
<コース> 9:51駐車地点(トイレ横)_トイレ裏の舗装された林道(林道石ブテ線 延長1210m 幅員 2.0~5.7m)を100m程度歩く_林道から右折して山道に取り付く_西方面の眺望地_ベンチ_二河原辺(にがらべ)・水分道分岐を右に見送り 金剛山頂方面に直進_案内板(金剛山赤坂古道)_道標(出合 二河原辺・水分道方面)_石仏・板碑_電波管理所・道標(←坊領山・上赤坂城跡・桐山・二河原辺道)分岐を右に見送り直進_11:13セト_案内板(保健保安林)_ロープ(国見城跡方面通行止)・分岐を左折し迂回路を歩く_分岐を左に見送り直進_分岐を右折_金剛山転法輪寺境内_11:54国見城跡・昼食_12:12_案内図(頂上名所跡案内図)_売店・休憩所前の分岐を左へ_道標(←セト迂回路 森屋・青崩へ)_分岐を左折 旧セト方面登山道探索_分岐へ戻る_<往路と同じ道をピストン>_13:44駐車地点(トイレ横)
<メモ> ・参加者: 2名。 ・コース歩行 (駐車地点(トイレ横)~駐車地点(トイレ横)までの所要時間と距離) 歩行距離: 約9.1km。 所要時間: 3時間52分。 ・当日歩行 (自宅~自宅までの正味歩いた時間と推測距離) 推測距離: 約16.2km。(0.67m×24,224歩=16,230m) 歩行時間: 4時間09分。 歩数: 2万4千歩。 ・反省会: 酒処 つかさ / 立ち呑み処 蔵元豊祝
画像は駐車地点から金剛山頂(山頂広場)をピストンしたGPSログを表示。
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| 青崩道への取り付き付近。 左の車道、右手奥にトイレが見える。 青崩道へは右上へ続く林道(林道石ブテ線 延長1210m 幅員 2.0~5.7m)を100m程度歩いて右折し山道に取り付く。 林道は一般車進入禁止。
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| 青崩道は取り付きから激しい登りが続く。 尾根筋に出るまで、このような丸太の階段が延々と続く。 植林帯の中、登山道は薄暗い。
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| 西方向の眺望が得られるビューポイント。 眺望と云っても、見えるのは山のみ。 手前の谷は小峠谷。 正面の山塊の標高は600m程度。
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| 一輪だけ開花が見られたショウジョウバカマ。 金剛山では白色の花が咲く。 これに対し、隣の大和葛城山では紫色。 この個体は茎が十分に伸びずに花を付けているようだ。
つづく。
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4月10日(水)18:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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(続々)五百羅漢_高取城跡_栢森_稲渕 |
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| 高取城跡、天守閣付近にて。 これから下山するところ。
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| 飛鳥川に掛かる女綱。 明日香村栢森にて。
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| こちらは男綱。 右のピンクの花はコブシと思われる。 明日香村稲淵にて。
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| 西郷どん。 手前の小動物はイノシシ。 明日香村稲淵の案山子路(案山子ロード)にて。
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| 特別史跡 高松塚古墳。 高松塚古墳 - Wikipedia
おしまい。
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4月9日(火)19:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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(続)五百羅漢_高取城跡_栢森_稲渕 |
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| 五百羅漢。 圧倒的迫力!! 近世の時代に彫られたのだろう。 あまりの多さに目移りする。
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| 史跡 高取城跡
高取城跡は、奈良盆地の南端、標高五八四mの高取山の山頂を中心に、急峻な山上の地形を巧みに利用して築かれている。 何段にも重ねた石垣喰違い虎口(出入口)、急斜面により守られ、山麓の城下町との比高差は四〇〇m以上を測る。 十四世起前半に土豪越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりといわれている。 織田信長の一国破城(いっこくはじょう)により、天正八年(一五八〇年)に一旦は廃城となるが、天正一二年(一五八四年)の筒井順慶による復興をへて、豊臣秀長の家臣本田氏により天正から慶長の頃(十六世紀末~十七世紀初頭)に近世城郭として完成した。 その後江戸時代に入り、寛永一四年(一六四〇年)に譜代の植村氏が入部して二万五千石の居城とした。 以後明治維新まで、植村氏が一四代に渡って城主となった。 山上に本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、城と城下町のニ様相を山城としてまとめた特徴ある形であった。 そのため山城としては広大にならざるを得なかった。 しかし、平穏な時代には山上の生活が不便なため、藩主をはじめ多くの家臣が山を降り、その結果、城郭と城下町が離れた特異な形態となっている。 二の門・壺坂口門・吉野口門の内側は「城内」とよばれ、山中のすべての曲輪(くるわ)を含んだ範囲が「郭内」とよばれている。 現在は、郭内に建造物は残っていないが、広大な縄張りと堅牢な石垣群が残されており、国史跡に指定されている。
指定年月日 昭和二八年三月三一日 平成二三年三月 奈良県教育委員会
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| 「高取・明日香ハイキングコース」案内図。
スタートはつぼさかやま(壺坂山駅)。土佐街道を歩いて分岐で赤坂池を左に見て歩く。 壺坂寺前で、NTTアンテナ、八幡神社分岐を経て高取城跡で昼食。 食後は猿石で右折し栢森。 飛鳥川に沿って稲淵から文武天皇陵、高松塚古墳を経てあすか(飛鳥駅)にゴールした。
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| 丸太に直接彫られている。 当然、高取城をイメージしたものだろう。 高取城跡にて。
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| この熊も丸太に直接彫られている。 なかなか良く出来ている。
つづく。
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4月8日(月)21:48 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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ロシオ・ドゥルカル |
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| ロシオ・ドゥルカルを視聴してみよう。
"Jotas" - ROCIO DURCAL (Acompáñame 1966)
"Si yo tuviera rosa" - ROCIO DURCAL (Más bonita que ninguna 1965)
"Mi corazón" - ROCIO DURCAL (Más bonita que ninguna 1965)
"El camino de la felicidad" - ROCIO DURCAL (La chica del trébol 1963)
"Los piropos de mi barrio" - ROCIO DURCAL (La chica del trébol 1963)
"Pichi" - ROCIO DURCAL (Las Leandras 1969)
Rocio Durcal - Caracoles por Bulerias
Rocio Durcal - Saeta
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4月7日(日)20:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理
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五百羅漢_高取城跡_栢森_稲渕 |
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| 2019年3月24日(日)は、山を登る会の第1,033回例会に単独で参加した。 山域は奈良中部、高取・明日香周辺。
<概要> スタートは近鉄吉野線壺阪山駅。ゴールは同線飛鳥駅。 私にとって、この山域は何回か歩いているお馴染みのエリア。
まずは壺阪山駅から「町家のひなめぐり」(期間 2019/3/1~3/31)で賑わう土佐街道を歩く。 このイベント、今年で13回目を数えるという。 過去に何回か訪れているが、年々盛大になっていく感じ。
土佐街道を離れ清水谷を経て壺阪寺へ。 壺坂寺とのジョイント企画「壺坂寺大雛曼荼羅(ひなまんだら)」が催されていた。 開催期間中は奈良交通の臨時バスが運行されている。(壺坂山駅~壺坂寺前)
壺阪寺からは定番コースの五百羅漢を観て高取城跡で昼食。 食後は一旦、土佐街道方面へ戻るが、途中の猿石で右折。 明日香村栢森(かやのもり)へ向かう。 この区間、過去に歩いた記憶が残っていないので、初めてだったのかもしれない。
栢森で飛鳥川に掛かる女綱を観て、ひたすら舗装された道路を歩き明日香村稲渕(いなぶち)へ。 ここでは飛鳥川に掛かる男綱を観る。 後はこれも、私にとってはお馴染み、案山子路(案山子ロード)を歩いた。 昨年の案山子は既に撤去されており、姿を見ることはなかった。
文武天皇陵前でトイレ休憩し、高松塚古墳を経て近鉄吉野線飛鳥駅へゴールした。 参加者の中には飛鳥駅へゴールしてから、再び壺坂山駅へ向い、「町家のひなめぐり」を見物する女性が何人か見られた。
<コース> 近鉄吉野線壺阪山駅9:55_<土佐街道>_夢創館(観光案内所)前_高取土佐郵便局角で右折(南)_信楽寺_県道119号線出合 三叉路を左折(東)_道標(←ハイキングみち 壺坂寺へ)の分岐で左折_吉備川に沿って山道を歩く_壺坂寺駐車場・壺坂寺前バス停前_道標(→高取城跡ハイキング道 この場所での休憩・集合はご遠慮頂いております)_県道119号線出合 左折_分岐を左折して高取城跡へ約2.8km・五百羅漢約0.2km_五百羅漢・分岐を右へ(どちらを歩いてもこの先で合流)_三叉路分岐(→高取城跡)_道標(←五百羅漢0.8km 壺坂寺1.3km 五百羅漢を経て大淀古道 世尊寺 / 八幡神社0.4km 高取城跡1.0km→)_石仏ほか石造物群_NTT 高取無線中継所_石柱(史蹟高取城址 / 文化財指定 昭和二十八年三月三十一日)_板碑_県道119号線に出合 すぐに左折して山道へ_説明板(史跡 高取城跡)_トイレ_道標(←本丸 550m /砂防公園までトイレはありません)_道標(←八幡口150m / 本丸350m→)_壺坂口門跡_案内図(高取・明日香ハイキングコース)_11:25高取城跡・昼食11:45_芋峠分岐を右に見送り土佐街道方面へ直進_猿石分岐で土佐街道 直進を見送り栢森方面へ右折_道標(←栢森を経て明日香村)_道標(←石舞台 高取城跡→)_道標(←高取城 栢森→)_道標(猿石を経て壺坂寺・大淀へ 栢森を経て明日香村→)_石造物_大根田・キトラ古墳方面分岐を左に見送り 栢森へ直進_飛鳥川に架かる橋を渡る_女(雌)綱・説明板(栢森の綱掛神事)_石仏群_県道15号線(桜井明日香吉野線)を北へ歩く_飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社参道前_関西大学 飛鳥文化研究所 植田記念館 通用門前_分岐で県道15号線を右折_道標(南淵先生墓 是ヨリ壹町)_覆屋(地蔵菩薩)_稲渕・雄綱_飛鳥川に架かる橋を渡る_案山子路(案山子ロード)_西郷どん像_車道の高架下を潜る_明日香金かめ乗合交通・上平田停留所前_分岐で定林寺跡方面右折を見送り 高松塚古墳方面へ左折_石仏群・常夜燈(太神宮)_道標(←高松塚古墳0.4km / 橘寺1.7km→)_文武天皇陵_トイレ_案内図(飛鳥観光周辺案内図)_星宿の広場_特別史跡 高松塚古墳_13:19近鉄吉野線飛鳥駅
<メモ> ・参加者: 89名。 ・リーダー: N氏 ・コース歩行 (壺阪山駅~飛鳥駅までの所要時間と距離) 歩行距離: 約14.5km。 所要時間: 3時間23分。 ・当日歩行 (自宅~自宅までの正味歩いた時間と推測距離) 推測距離: 約16.4km。(0.67m×24,410歩=16,354m) 歩行時間: 3時間33分。 歩数: 2万4千歩。
画像はこの日歩いた近鉄吉野線壺阪山駅から同線飛鳥駅までのGPSログを表示。
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| 「町家のひな巡り」で野外に展示されていた「ミニジャンボ雛」。 高取町、土佐街道にて。
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| こちらは町家に展示されていた雛人形。 お内裏様は少々緊張気味。 お雛様はすまし顔。
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| 昔懐かしい光景。 子供の頃、こうしておかきを吊るして乾燥させた。 土佐街道にて。
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| 高取土佐郵便局角で右折し、清水谷へと向かうが、画像のような狭い道を歩く。
つづく。
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4月7日(日)19:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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(続々)大津宮跡_近江神宮_東海自然歩道_三井寺 |
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| 衆宝観音。 三十三観音の一つ。 衆宝とは衆生が求めてやまない財宝のことで、右手を岩に置き左手を立て膝の上に置く特異な観音様です。 三個の蓮華のうち未開の蓮華は、未だこの世に姿を現さない我々の状態を、半開の蓮華は、現世に生きる私達を、全開の蓮華は、完成された人格が表現されています。 この観音様を信仰すれば財宝が貯まり、福徳を授けられ、出世が叶うといわれる有難い観音様です。 三井寺境内にて。
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| 琵琶湖ビューポイント。 この日は生憎曇っていた。 三井寺、西国第14番札所、観音堂にて。
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| 道標。 「三井寺南別所 / →かたヽげんべゑくびのてら」 堅田源兵衛の首が見たい方はお申し出下さいって… 三井寺南別所にて。
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| 琵琶湖疏水、第1疏水第1トンネル東口。
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| 大津祭曳山展示館 ・大津祭をあらゆる角度から紹介する展示館。 ・館内では原寸大の曳山模型(撮影した画像=西王母山(せいほうぼざん))を中心に町並みの様子を再現。 ・お囃子の音響、照明、スライド投影により、お祭りムードが味わえるようになっている。 ・大津祭の特徴の一つであるからくりなども映像によって提供している。 ・入館無料。
おしまい。
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4月6日(土)18:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(続)大津宮跡_近江神宮_東海自然歩道_三井寺 |
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| 堕ちかけた道標。 東海自然歩道にて。
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| 野仏。 同じく東海自然歩道にて。
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| 案内図。 「自然の道・歴史の道」。 弘文天皇陵付近から東海自然歩道を南(左方向)へ歩いた。 ワイルドで面白い。
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| 園城寺(三井寺)大門(仁王門)。 三井寺(園城寺)は、 ・7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。 ・平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。 ・近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。 ・近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
重要文化財 建造物 園城寺(おんじょうじ)大門(仁王門)一棟 大津市園城寺町 この大門は、三間一戸(さんげんいっこ)、屋根入母屋造(いりもやづくり)、桧皮葺(ひかわぶき)の楼門(ろうもん)です。 宝徳四年(一四五二)に滋賀県甲賀郡石部町の常楽寺に建てられ、のち伏見城に移され、さらに慶長六年(一六〇一)徳川家康の寄進によって園城寺へ移されたもので、仁王門とも呼ばれています。 楼門としては、正規の手法にのっとったもので、全体の均斉(きんせい)もよくとれた美しい姿をしています。 また、桧皮葺の屋根がやわらかい感じを与えています。 その他、細部の蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)などの彫刻や斗栱(ときょう)などの組物に室町時代中期の特色が見られます。いずれにしても楼門の中でも代表作にあげられるものです。 明治三十三年四月に国の指定文化財になっています。 大津市教育委員会 昭和六十二年三月
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| 三井晩鐘。 近江八景 三井の晩鐘 近江八景のひとつ、三井の晩鐘で有名なこの鐘は、音の三井寺として日本三銘鐘のひとつにも数えられ、また平成八年七月には環境庁より「日本の音風景百選」にも認定されている。 この鐘は慶長七(一六〇二)年、古鐘・弁慶の引摺り鐘の跡継ぎとして鋳造されたもので、鐘楼(国の重要文化財)と共に県の文化財に指定されている。 目方は六百貫目(二二五〇キログラム)。除夜の鐘の百八煩悩に因んで、鐘の上部には乳といわれる百八箇の突起がある。
つづく。
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4月5日(金)18:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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大津宮跡_近江神宮_東海自然歩道_三井寺 |
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| 2019年3月23日(土)は土曜会に参加した。 タイトルは「大津のまちなかを歩く」。
“まちなかを歩く”となっているが、大津市役所横、弘文天皇陵から三井寺までの区間は、少々荒れた状態の東海自然歩道を歩いた。 この区間は“まちなか”というより“山道”と呼ぶ方がふさわしい。 スニーカーでは歩きにくく、トレッキングシューズが必要。 東海自然歩道はどこでも同じだが、歩く人が少なく荒れている。
“競技かるたの殿堂”近江神宮は、橿原神宮、平安神宮などと同じ近代の創建。 橿原神宮→明治23年 平安神宮→明治28年 近江神宮→昭和15年。
三井寺(みいでら)にお参りするのは初めて。拝観料 600円。 大津祭曳山展示館は一度訪問しており、この日が二回目となった。入館無料。
<主な訪問地> 1.大津宮跡(=近江大津宮 =近江大津宮錦織遺跡) 2.近江神宮 3.園城寺(=三井寺) 4.大津祭曳山展示館
<コース> JR湖西線大津京駅10:05_案内板(京阪大津京駅↑200m先 高架下左側を直進)・案内板(競技かるたの殿堂 近江神宮 直進後右折)_石碑(蓮如上人御舊跡 大谷派 由緒地 長蓮寺)_説明板(史跡 近江大津宮錦織(にしこうり)遺跡)_京阪パス錦織町バス停前_説明板(史跡 近江大津宮錦織遺跡 第一地点)_説明板(史跡 近江大津宮錦織遺跡 第二地点)_大津錦織郵便局前_大津京シンボル緑地_道標(←むし八まん宮 / 大正元年十月)・道標(宇佐八幡宮まで七〇〇米 徒歩十五分 / 昭和四十五年四月三日)_柳川に架かる柳川橋を渡る_近江神宮 二の鳥居_近江勧学館_大津錦織郵便局前_説明板(史跡 近江大津宮錦織遺跡 第七地点)_説明板(史跡 近江大津宮錦織遺跡 第九地点)_皇子山古墳分岐を右に見送り 県道47号線を直進_市民体育館前_皇子が丘公園_JR大津京駅分岐を左に見送り 三井寺方面へ直進_道標(左 ふと× / 右 さ可な×)_石柱(弘文天皇御陵参拝道)_FURIAN 山ノ上迎賓館前_道標(←弘文天皇長等山前陵0.15km)_石柱(地蔵尊)_石仏_弘文天皇長等山前陵_道標(新羅三郎の墓/三井寺→)_分岐で新羅三郎の墓方面直進を見送り 三井寺方面へ左折_東海自然歩道出合・東海自然歩道道標(←三井寺0.5km 長等公園1.2km)_野仏_案内板・略図(東海自然歩道・逢坂山~夢見ヶ丘)_お知らせ(園城寺(三井寺)事務所は移転しました)_案内図(自然の道・歴史の道)_大津市歴史博物館前_道標(三井寺→0.2km)_大津市伝統芸能会館前_駒札(車石)_円満院庭園前_駒札(重要文化財 建造物 園城寺大門(仁王門)一棟)_案内板(日本遺産 滋賀 園城寺(三井寺))・拝観料(600円)・釈迦堂・三井晩鐘・国宝 園城寺金堂・堂前灯篭・智證大師御廟所前・微妙寺・駒札(天台智者大師)・衆宝観音(しゅうほうかんのん)・百体観音堂・三井寺 観音堂・昼食・琵琶湖ビューポイント_馬神神社(大津馬神社)・長等(ながら)神社_道標(琵琶湖疏水0.1km)_道標(三井寺南別所 / かたヽげんべゑくびのてら)_琵琶湖疏水_大津市長等幼稚園前_北国橋(交差点)_<北国街道>_大津長等郵便局前_滋賀の都こんぶ前_大津絵の店前_長等神社_長等商店街・なかまちまつり_青龍寺前_傳光院前_長等商店街_中央一丁目(交差点)でR161と京阪京津線を横断_丸屋町商店街_大津祭曳山展示館(入館無料)_<旧東海道>・道標(東海道 追分道標まで15km)_京町二丁目(交差点)を南へ_大津駅前商店街_反省会:THE CALENDAR_15:10JR湖西線大津駅
<メモ> ・参加者総勢: 10名。 ・コース歩行 (大津京駅~大津駅までの所要時間と距離) 歩行距離: 約9.7km。 所要時間: 4時間9分。 ・当日歩行 (自宅~自宅までの正味歩いた時間と推測距離) 推測距離: 約15.3km。(0.67m×22,819歩=15,288m) 歩行時間: 3時間46分。 歩数: 2万3千歩。 ・反省会: THE CALENDAR (大津市春日町1-3 大津駅ビル2F)
画像はこの日歩いたJR湖西線大津京駅から同線大津駅までのGPSログを表示。
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| 「史跡 近江大津宮錦織遺跡」の説明板を見る参加者の人たち。 京阪バス錦織町バス停付近にて。 大津宮跡(近江大津宮/近江大津宮錦織(にしこうり)遺跡) ・近江大津宮は飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。 ・天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。 ・天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。 ・1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。
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| 画像の中央に立つ警備員の後に二基の道標が見えた。 右は「←むし八まん宮 / 大正元年十月」。 左は「宇佐八幡宮まで七〇〇米 徒歩十五分 / 昭和四十五年四月三日」。 “むし八まん宮”は“宇佐八幡宮”を指しているようだ。 近江神宮の南東、柳川に架かる柳川橋の手前にて。
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| 外拝殿とその奥に内拝殿。 近江神宮にて。 近江神宮は、天智天皇6年(667年)に同天皇が当地に近江大津宮を営み、飛鳥から遷都した由緒に因み、紀元2600年の佳節にあたる1940年(昭和15年)の11月7日、同天皇を祭神として創祀。
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| 道標。 「左 ふと× / 右 さ可な×」だろうか。 大津市山上町4にて。
つづく。
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4月4日(木)18:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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