バッハ チェンバロ協奏曲第7番 BWV1058 イリーナ・ランコヴァ |
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| バッハ チェンバロ協奏曲第7番 BWV1058 イリーナ・ランコヴァを視聴してみよう。 チェンバロ協奏曲第7番 ト短調 BWV1058 Irina Lankova Irina Lankova (イリーナ・ランコヴァ)
Bach, Concerto pour piano n°7 - Irina Lankova, Vahan Mardirossian, ORCW - 4k 【Google翻訳】 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ ピアノ協奏曲第7番 ト短調 BWV 1058 イリーナ・ランコヴァ(ピアノ) / ヴァハン・マルディロッシアン(指揮) / ワロン王立室内管弦楽団 1.00:00 アレグロ 2.04:15 アンダンテ 3.10:33 アレグロエッセイ ................ 音像制作: Jarek Frankowski © 2023 Acoustic Recordings パートナーシップ: MARS (Mons Arts de la Scène) / ワロン王立室内管弦楽団
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4月19日(金)21:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡25 |
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| ここにも盃状穴が見られた。 盃状穴
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| アネモネ(白)と、ヤギルマギク(青)のようだ。
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| 前方に神社が見える。
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| 「式内村社 和爾座赤阪比古神社」と刻まれた社号標。
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| 社殿を斜めから撮影。
つづく。
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4月19日(金)06:22 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡24 |
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| 櫟本高塚公園を後にし、和爾町へと向かう。
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| 「→和珥坂下傳稱地?」と刻まれている。 “和珥”は“和爾”又は“和邇”を指しているようだ。 左側面には「紀元二千六百年」の銘あり。(=昭和15年 西暦1915年)
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| 「和爾町天奈会館」前を通過。 文化・観光・イベント等の関連施設らしい。
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| 地蔵堂に祀られていたお地蔵さん。 向かって左の光背が欠けている。
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| ライトアップすると、微笑んでおられるように見えた!! 不思議―笑。
つづく。
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4月19日(金)06:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡23 |
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| 覆屋があり、「鬼子母神社」と刻まれた社号標が立つ。
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| 肉眼で見たが、よく分からなかった。
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| ライトアップしてみると、鬼子母神像のようなものが刻まれていた。 尚、鬼子母神とは、仏教を守護する天部の一尊。“きしぼじん”と読むらしい。 【参考】 鬼子母神
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| 「←櫟本高塚公園 0.2km」の道標。
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| すぐ傍に自然石に「櫟本高塚公園」と刻まれていた。 現地の説明板によると、
ワニ氏の里 櫟本高塚遺跡 天理市の北部、櫟本町から和爾町は、古代豪族ワニ氏の本拠地が所在した地域です。 日本書紀や古事記には、この地域をワニ坂と呼び、大和朝廷に仕えたワニ氏の祖先が武力にすぐれた集団であったことを記載しています。 和爾町の地名はそうした古代豪族の名称が地名に名残を留めたものと思われます。 この櫟本高塚公園の一帯は、通称東大寺山と呼ばれています。 東大寺山の丘陵には東大寺山古墳、赤土山古墳、和爾下神社古墳など古墳時代に築かれた大型の前方後円墳があります。 考古学では、総称して東大寺山古墳群と呼んでいますが、ワニ氏の祖先にあたる有力人物の墓と考えられます。 櫟本高塚公園では、発掘調査を行ったところ、古墳時代の建物跡(柱穴の跡)が見つかりました。 掘立柱跡の形態や規模から特殊な扱いを受けた建物跡と思われ、盆地を見下ろすような丘陵上に造られた古代の祭祀場ではないかと思われます。 天理市
つづく。
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4月19日(金)06:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡22 |
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| 石棺の蓋を別のアングルから撮影。 ネット検索すると、下記サイトに、興味深いことがアップされていた。
【参考】 柿本人麻呂の歌塚・柿本寺跡・東大寺山古墳群
柿本寺跡地には、「古墳 石室の天井石 四・五世紀」という駒札が傍にたち、竜山石による石棺材と思われる板石が置かれています。 「古老の話によると、この石棺材は数十年以上前まで櫟本小学校の西方の石橋の一部として使用されていて、それをこの場所まで移動させた、というものであった。 この話が、本当だとすると、この石棺材は和爾下神社古墳との関係が難しくなる。」
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| 柿本寺跡を後にして、奈良方面へ向かう。(北)
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| ここに来て、初めて見るスタイルの道標が立っていた。 道標には「伝・山の辺の道」と表記されいた。
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| 道標を見て「櫟本高塚公園」へ向かう。
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| 山の裾野に沿って北へ歩く。
つづく。
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4月19日(金)06:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡21 |
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| 石段を登る。
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| 和邇下神社拝殿。
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| 和邇下神社(本殿重要文化財) 神護景雲三年(七六九)東大寺領のの櫟庄の水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真直ぐに作らせたので、この森を治道の森といい、宮を治道社といった。 和爾下神社古墳の上に祀られた神社で、櫟本の地方にいた豪族の氏神であったが、今は櫟本鎮守の神社である。 この治道社(春道社とも書く)の祭神は素盞鳴命の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。 明治初年に延喜式内の和爾下神社がこれに当たると考証されて社名を和爾下神社と定めた。 今の社殿は、三間社流れ造り、檜皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている。【一部割愛】 天理市教育委員会
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| 西側から続く別の石段を降りて右(北)に向かう。 「大和國柿本寺跡」と記された看板が落ちていた。
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| 下記、天理市観光協会のサイトによると、 撮影した画像は石棺の蓋。
【参考】 柿本寺跡
柿本氏の氏寺 柿本寺(しほんじ)は、名前の通り、柿本氏の氏寺です。 建武4(1337)年、北朝軍が天王社(和爾下神社)や柿本寺に陣取って南朝軍と戦ったとの記録や、その前後に描かれた柿本宮曼茶羅(まんだら・現在は奈良市学園前町の大和文華館が所蔵。重要文化財)が伝わっています。 寺は室町時代までに西へ約400m離れた、現在の櫟本小学校西側に移転しています。 江戸時代までは代々、学僧が出、和歌や茶の湯などが親しまれまれていましたが、明治初年に廃寺となりました。
つづく。
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4月19日(金)06:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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アンドレア・モティス ボックス・バルセロナ・ミュージック・セッション |
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| アンドレア・モティス ボックス・バルセロナ・ミュージック・セッションを視聴してみよう。 アンドレア・モティス Joan Chamorro Josep Traver
Andrea Motis - Box Barcelona Music Sessions (Especial RN4) 【Google翻訳】 アンドレア・モティスはまだ22歳ですが、彼女の音楽的成熟は彼女の年の予想をはるかに上回っています。 ベーシストのジョアン・チャモロとともに6枚の絶賛されたアルバムをリリース。 ・アンドレア・モティス (唄とトランペット) ・ジョアン・チャモロ(コントラバス) ・ジョセップ・トラヴァー(ギター)
【参考:アンドレア・モティス】 アンドレア・モティス&ジョアン・チャモロ・グループ(バルセロナ・コロシアム劇場 2011) http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc66kd656B1300/1/
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4月18日(木)21:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡20 |
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| この石造物は、これで一体ではなく、バラバラのパーツを組み合わせたように見えてしまう。
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| 参道から離れ、児童公園(和爾下街区公園)に入る。
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| 二体の石仏、左は不動明王。 右側の真っ二つに割れた石仏も不動明王なのかも知れない。
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| 和邇下神社 東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳である。 全長約120m、後円部直径約70m、高5m、前方部幅50mである。 前方部が短く、端部が両側へ撥形に開く特異な形態である。 当古墳と、東大寺山古墳、赤土山古墳、及びシヤープ総合開発センター内に所在する古墳などにより東大寺山古墳群を構成している。 当古墳から東北約800mには和爾の集落があるが、この周辺一帯は、古代大和政権の一翼をになった和爾氏の本拠地と推定され、東大寺山古墳群は和爾氏の奥津城と考えられる。 内部主体や副葬品は明らかではないが、墳丘西側には石棺材があり、また昭和59年の防災工事に伴う調査において一基の埴輪円筒棺が検出された。 これらの遺物により古墳の築造時期は、4世紀末から5世紀初頭と推定されている。 天理市教育委員会
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| 参道を歩く。
つづく。
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4月18日(木)06:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡19 |
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| R169に出合い左折。(北) すぐ右手に和邇下(わにした)神社の鳥居が見える。 鳥居は修復中だった。R169を横断。
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| 「左 なら道」。 現在なら、確かにこの辻を左に行けば、“なら道”だが、R169を歩くことになる。 この道標を建てた時代、ここに道があったのだろうか。疑わしい。 先程歩いていた上街道(上ツ道)沿いにあったものを、ここへ移動したと思われる。
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| 北側面に「是より半丁うち柿本寺 人丸神像 并 寶物あ里」と刻まれているようだ。 尚、柿本寺(しほんじ)跡は、この後に訪問することになる。
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| 参道の右手に「櫟本集会所」と「御仮殿社務所」の表札が掲げられていた。
つづく。
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4月18日(木)05:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡18 |
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| 在原神社の境内で昼食を済ませ、引き続き上ツ道を北に歩く。
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| 西名阪自動車道の高架下を潜り右折。(東) 左の民家の軒下に古い丸太が置かれている。(画像)
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| 「馬出」(うまだし) 上街道(上ツ道)と高瀬街道の交わったところで古くから市場が開かれ、商業の活発だったことから「市場」という小字名がついています。 上街道から東方へ高瀬街道に沿ってのびた部分を「馬出」と呼び、主に大和高原(福住方面)から薪炭を乗せて下り、この地で荷をおろし、帰りに食料品や日用品を買って帰る人馬で賑わったところです。 また、荷を運ぶ馬をつないだ「馬つなぎ」の遺構も残されており、昔は流通の中継地として栄えたところです。 天理市
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| 玄関の右手にも、やや短い「馬つなぎ」が見られた。
つづく。
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4月18日(木)05:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡17 |
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| 上ツ道(伊勢街道)を北に歩く。
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| やがて西名阪自動車道の高架が見えてきた。
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| 右折(東)して、前方に見える「鎮守の森」を目指す。
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| 寺号標には「在原寺」と刻まれていた。
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| 正確には在原神社(在原寺跡)。 お寺の面影はほとんどない。
つづく。
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4月18日(木)05:46 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡16 |
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| 「危険ですので 狛犬さんに 登らないで下さい」。 “狛犬さん”と表記しているのが、何ともリスペクトを感じる―笑。
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| 昼食場所の在原神社はここより北方向なので、北に位置する西名阪自動車道に向かって歩く。
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| この先で、南北に通じる上ツ道(伊勢街道)に出合う。 コースは右折、上ツ道を北に歩く。
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| 上ツ道との辻に石仏がまとめて祀られていた。 道路の拡張工事などで置き場がなくなった石仏をここに集められたようだ。 生花が手向けられている。
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| 何と、ここにも平尾姫丸稲荷大明神を指す道標が建っていた。 「正一位 平尾姫丸稲荷大明神」と刻まれている。 北側面には「従是東五町 施主 櫟本村 世話人」。 北側面は「安政七庚申年 正月吉日」。
つづく。
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4月18日(木)05:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡15 |
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| 「石上廣高宮伝称地」と刻まれた石碑。
現地の案内板によると、 平尾山案内記 平尾山稲荷神社の境内を中心として平尾山の大部分は旧地名を「宮の屋敷」といった。 日本書紀によると第24代仁賢天皇の石上広高宮や、その御父市辺押磐皇子の石上市辺宮は、この「宮の屋敷」の地にあったと考証されている。 更に東方には大塚、うわなり塚など5世紀頃の大きな前方後円墳や何十という古墳が残っている。 又明治16・17年には神社の東方100mの地より2個の銅鐸が出土して、この地域が古代の文化中心地帯であったことを立証した。 特に前記仁賢天皇の時代は大和朝廷の所在地として、わが国政治・文化の中心だったのである。 これは今から1500年も昔のことであるが、その後奈良時代から平安時代も平尾山の麓には民家が建ち並び、石上寺・在原寺・六坊寺・薬師堂などの寺院が営まれた。 「在原寺縁起」によると第51代平城天皇の皇子阿保親王は石上の在原の地に住まわれ、承和2年(835)に平尾山にあった補陀落山本光明寺を在原に移して在原寺を創建しその本尊十一面観音を迎えておまつりをしたということである。 また親王の子で六歌仙の一人とうたわれた在原業平朝臣は、この石上で産まれ平尾の神の氏子として幼名を平尾丸と名付けられた。 「宮の屋敷」というのは石上広高宮の屋敷という意味であったかもしれないが、後には宮址に祀られた平尾のお宮の屋敷と考えられてきた。 第61代醍醐天皇の時に編纂された延喜式に記されている石上市神社はこのお宮のことである。 この神社は江戸時代の中頃に石上村の鎮守として現在の石上の民家付近に移されたが、稲荷神社はこの旧地のお宮にお残りになった。 これが正一位平尾姫丸稲荷大明神で宇賀御魂の神を祀る。 この稲荷神社は昔から石上村に限らず遠近の人々から篤く信仰され、五穀豊穣、家内安全、商売繁昌を祈願する人々、平尾丸の在原業平のように賢い子供をという親心から信心する人々など跡を絶たず。 特に初午の早春のころ参詣者で一山を埋めるにぎわいを呈する。 【一部割愛】 昭和40年3月 撰文 仲川明
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| 平尾姫丸稲荷大明神を後にし西へ歩くと、稲荷大明神の鳥居が建つ。
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| 更に、参道から向かって、鳥居の前には立派な常夜燈が建っていた。
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| 参道を西に向かって下る。
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| すると、石上市神社に出合う。 扁額には「石上市神社」と記されている。 金網のようなもので、扁額を覆っているので字が見ずらい。
平尾姫丸稲荷大明神にあった「平尾山案内記」に記載されていた、 「江戸時代の中頃に石上村の鎮守として現在の石上の民家付近に移された」のがこの神社を指しているようだ。 【参考】 神奈備 石上市神社
つづく。
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4月17日(水)06:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡14 |
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| 石上銅鐸 (弥生時代後期) このあたりは、明治16~17(1883~1884)年に相次いで弥生時代の銅鐸が出土したとされる場所です。 地元住民が畑を耕していた際に偶然見つかったもので、出土した銅鐸2個は現在いずれも宮内庁が所蔵しています。 銅鐸研究史上著名な資料で、「 石上銅鐸 」として知られています。 大正12年(1923)におこなわれた発見者への聞き取り調査によると、明治16年(18863)3月頃に見つかった1号銅鐸は、現在地付近から北に「約二十六尺(約8m)」の場所に、地表から「一尺五六寸(約50cm)」の深さに埋められていたとされています。 また、およそ一年後の明治17年(1884)年4月6日に見つかった2号銅鐸は、1号銅鐸の見つかった場所から「北東北約五十尺(約15m)」の場所に、地表から「約二尺(約60cm)」の深さに埋められていたとのことです。 1号銅鐸・2号銅鐸ともに弥生時代後期初頭(約2000年前)に位置づけられており、銅鐸が打ち鳴らすものとしての機能を失い、次第に形骸化・大型化した祭祀具へと変化しつつある段階のものです。 いずれの銅鐸にも流水文が施されており、2号銅鐸びは特徴的な二人の人物表現もみられます。 銅鐸は弥生時代の青銅器文化を代表する遺物です。 全国で約500例ほどの出土例の多くは集落から離れた丘陵や山の斜面で見つかっており、石上同多雨もその一例として数えられています。 平成22(2010)年12月 天理市教育委員会
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| 暫く歩くと、右手に鳥居が幾つも並んでいた。
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| 社号標には「正一位 平尾姫丸稲荷大明神」と刻まれている。
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| まるで伏見稲荷の参道のようだ。
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| これは道標。 「左 正一位 平尾 姫丸 稲荷大明神」。 道標はこの場所へ移されたようだ。
つづく。
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4月17日(水)06:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡13 |
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| 道標が立つ分岐で「山の辺の道」から離れ直進。(西)
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| すぐに車道に出合いこれを横断。 この後に向かう「正一位 平尾姫丸稲荷大明神」の幟が見えた。
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| 西方向に伸びる道を歩く。 左側は農園。 右側は雑木林となっている。
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| 右側、竹林の入口付近に、案内板と石碑らしきが立っていた。(赤四角)
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| 「石上銅鐸出土地」と刻まれている。 よく見ると、石碑は真っ二つに割れ、セメントで修復しているようだ。
つづく。
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4月17日(水)06:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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