山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年3月を表示

京の古道⑥竹田街道_大和街道5

「宇賀神社参道」と彫られた道標。


宇賀神社参道(宇賀の辻子跡)

ここから東へ約百米の宇賀神社までが 昔から多くの参拝者に親しまれてきた参道で 山城名勝誌などに記された宇賀の辻子跡です 境内は史書に藤原鎌足公とのゆかりを記される宇賀塚の跡です 東九条唯一の産土(うぶすな)神社で ご祭神は伏見稲荷大社の本殿中央に祭祀されている宇賀之御魂神です
         宇賀神社敬神会



引き続き竹田街道を南へ歩く。十条通と交差。
竹田街道十条の交差点を横断すると、前方に阪神高速8号京都線の高架が現れる。
すぐ左(東)が鴨川西のインターになっていた。



高架下を潜り抜け久世橋通分岐を右に見送る。


鴨川に架かる勧進橋を渡る。


3月14日(月)19:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道4

「西山浄土宗 親近山 長増寺」の寺標が掛かっていた。
北向不動明王が祀られていた地蔵堂の西に位置しており、北向不動明王はこのお寺の境内にあるようだ。



九条通に出合って、これを横断。引き続き竹田街道を歩く。


ばったり床几のある町屋を発見。


柵で囲ってあり、今は使用されていない。


竹田街道札の辻(交差点)の北東の角に道標らしきものが見えたので立ち寄る。


3月13日(日)18:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道3

ラーメン屋の前の通りは高倉通で南へ歩くと陸橋が現れる。JR東海道線に架かる高倉跨線橋でこれを渡る。


橋の上から京都駅方向の眺め。


更に東海道新幹線の高架下を潜り八条通に出る。


暫く南へ歩くと「東寺通コミュニティ道路」の道標が現れこれを横断。


やがて右側(西)に「北向不動明王」と彫られた石標が現れる。


3月13日(日)18:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道2

この立派な地蔵堂の中に「輪形(わがた)地蔵」が祀られているようだが、柵があって境内に立ち入ることが出来ない。
元は柵などなかったと思われる。後の時代になってから設けられのだろう。
但し、柵の手前から格子越しに拝することは出来る。



山門に立ててあった駒札。

正行院(猿寺)

 正行院は、天文七年(一五三八)に円誉(えんよ)上人(一四九六~一五三八)が、開山した寺である。
 円誉上人は、京都北山の中川の里で念仏修行の時、庵に遊びに来る多くの猿たちの首に「南無阿弥陀仏」と書いた名号を結びつけて、お守りにせよと授けられた。お守りを首にかけた猿は、ある日猟師に命を狙われたが、そのお守りのご利益で、猿の命は救われた。
 猿の命を狙った猟師は、そうした奇縁から改心して正行院で出家して僧となり、今まで殺生してきた動物たちの供養をして生涯を終えた。
 その話が都に広まり、正行院は「猿寺」と呼ばれるようになった。寺には、八百頭の猿の人形が飾られており、その中には、お釈さまがお説きになった「八正道」を猿が体で表した、「見ざる、思わざる、言わざる、偽わざる、合掌ざる、持たざる、忘れざる、聞かざる」の八猿がある。
            京都市


駒札の下に注意書きがある。

「一般の方への参拝・内覧は受け付けておりません。正行院」



本堂。本尊は阿弥陀如来。


正行院を後にする。
長屋の一角に設けられていた祠。祠の中にはお地蔵さんらしき石仏が祀られていた。



京都では有名なラーメン屋の店の前に出てきた。
ずっと昔、この店へラーメンを食べに来たことがある。



3月13日(日)18:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道1

2016年3月10日(木)は、京の古道歩きシリーズ第6回として、竹田街道と大和街道を歩いた。
(京都駅から近鉄・大久保駅までの区間)
参加者は主催のN氏、T氏、M氏、K氏と私の5人。

日本最初の鉄道は、明治5年9月の新橋と横浜間だが、
日本最初の電車は、明治28年2月1日、京都電気鉄道(京電)の伏見線で、東洞院塩小路から伏見油掛町までを3銭で営業した。この電車の路線が、現在の竹田街道の道筋になっている。
また、今回歩いた大和街道は観月橋から近鉄大久保駅までだが、この区間には、
かつて巨椋(おぐら)池と呼ばれる大きな池があり、現在のように陸続きとなったのは、秀吉の大規模な築堤工事による。現在も地名として残っている、向島、填島、蛭子嶋、大八木島、上島などは、文字通り巨椋池に浮かぶ島(中州)だった。

増田 潔『京の古道を歩く』

巨椋池 - Wikipedia

よって、後半歩いた大和街道は歴史的遺物は少なく、堤沿いの干拓(かんたく)地には田んぼや畑が広がっていた。

コースタイム
9:20京都駅9:40_9:52東洞院通塩小路_9:54猿寺(正行寺)前_9:58新福菜館本店前_10:00東海道線に架かる高倉跨線橋を渡る_10:20宇賀神社参道(道標)_10:29鴨川に架かる勧進橋を渡る_10:32稲荷さんけい道(道標)_10:50東高瀬川に架かる上三ツ杭橋を渡る_10:59竹田出橋前_11:03車橋前・休憩11:10_11:18城南宮参詣道(道標)_11:23加賀屋敷児童公園・トイレ_11:31七瀬川に架かる蓮心橋を渡る_11:32車輪形石11:34_11:51濠川(ほりかわ)に架かる枡形橋を渡る_11:52伏見中学校前_11:583匹のねこ・昼食12:48_12:56竜馬通り_12:59宇治川派流に架かる蓬莱橋を渡る_13:08弁天浜(駒札)_13:08長建寺前_13:09京阪本線の踏切を横断_13:13近鉄京都線の高架下を潜る_13:15京阪宇治線の踏切を横断_13:19宇治川に架かる観月橋を渡る13:22_13:24明治天皇御駐輦所製工場址(石碑)_13:42近鉄京都線向島駅前_13:59巨椋の水路(案内板)・休憩14:16_14:31宇治市槇島三軒家集会所前_14:33府道69号線に架かる陸橋を渡る_14:36蛭子嶋神社お旅所14:38_14:44巨椋神社14:55_14:57製茶問屋街_15:04井川遊歩道を横断_15:08府道69号線小倉西山(交差点)_15:10小倉小学校前_15:17宇治市西消防署伊勢田消防分署前_15:28広野町東裏(交差点)・宇治屋の辻の道標_15:32JR奈良線・新田駅前_15:34皇大神宮社前_15:36JR奈良線の高架下を潜る_15:38広野公民館(宇治屋の辻の旧道標)15:42_15:54近鉄京都線大久保駅

画像はこの日歩いたGPSログを表示している。京都駅から近鉄大久保駅。



京都駅中央口(北側)を出て塩小路通(しおこうじどおり)を東へ。一つ目の南北に通じる道が東洞院通(ひがしのとういんどおり)。竹田街道の起点はこの辺りになる。
画像に写っている案内板「わがた地蔵 さる寺・正行院」へ向かう。
但し、N氏によると境内には入れないとのことだった。



通称・猿寺に到着。案内板では「山門からおはいりください」とある。しかし、結局、境内には入られなかった。事前の問い合わせや予約が必要のようだ。


左の石は、旧東海道を歩いた時に、車石広場(山科区日ノ岡)で見た車石と同じに思えた。
右の石柱には「地蔵」と彫られているが、その右上の文字は読めない。

※地蔵堂→地蔵に修正



輪形(わがた)地蔵

七条通東洞院から伏見に至る竹田街道を通る牛馬車の通行を楽にするために車の通る下に石を敷きその石を村人は輪形の石とよんでいました。ある夜の夢枕のお告げから村人がその輪形の石の1つを掘り起こしてみるとそれは立派なお地蔵様でした。村人はそのお地蔵様を輪形地蔵さまとよび、車馬の危難を救い交通の安全をお守りくださるご利益があると敬いおまつりしてきました。
        輪形地蔵尊護持会


旧東海道で見た車石を、ここでは輪形(わがた)の石と呼ぶらしい。



3月12日(土)20:42 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)64

桃陵市営住宅団地前に到着。

桃陵(とうりょう)団地の歴史

 伏見は平安時代には鳥羽と並ぶ貴族の別荘地帯であったが、都市として繁栄したのは、豊臣秀吉がこの地に伏見城を築き、城下町と伏見港を整備してからである。
 江戸時代には三代将軍徳川家光の時に豊臣ゆかりの伏見城を完全に壊し、寛永元年(1624)に富田信濃守の屋敷のあった場所に伏見奉行所を建設した。その場所は現在の桃陵団地の敷地で伏見城の跡地への入口と港を監視する位置にある。
 明治維新の時(1868)幕軍のたてこもる伏見奉行所は、官軍の攻撃により焼け落ちた。明治時代以降、陸軍の土地となり、工兵隊の基地になっていた。第二次世界大戦終了後、米軍に接収されていたが日本に返還された後、市営住宅が建設され、今日にいたっている。下の写真は奉行所の石垣と明治時代に陸軍が奉行所前の道路部分を西へ広げて建設した石垣である。また、この掲示板の上に使用されている笠石は陸軍時代の門に使用されていた石である。
  平成2年10月
                京都市



伏見奉行所跡の石碑。側面には昭和43年11月 京都市と彫られていた。
先の説明書きによると、明治維新の時、幕軍のたてこもる伏見奉行所は官軍の攻撃により焼け落ちた。



指月伏見城(しげつふしみじょう)をイメージしたデザインとなっている桃陵団地。


突き当たりの讃岐町の三叉路で左折。
近鉄京都線の高架下を歩く。



高架下に続く伏見桃山商店街。
この先50mほど歩いて桃山御陵前駅に到着。近鉄電車に乗って帰宅した。おしまい。



3月12日(土)20:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)63

「淀川維持區域標」。向かって右側面に「淀川 従是下至海」、左側面に「京都市伏見區豊後橋町」、裏面には「昭和六年四月一日 内務省」と彫ってある。
観月橋から三河川(桂川、宇治川、木津川)合流点付近までの間にこれらの河川が旧内務省の管轄であった名残りを示す標識らしい。



折り返し京阪の踏切を横断し、帰路となる近鉄京都線桃山御陵前駅へ向かう。


行きの京町通とは別の一本東側の道を歩く。
ここはかつて伏見城が築城された場所。伏見城は三度に渡って築城され、最初の築城地がこの近辺。
ここに築かれたものを指月伏見城(しげつふしみじょう)と呼ぶ。

伏見城

画像はその石垣と見られる。



「常盤就捕処」と彫られた石碑。


石碑の裏面。

「フィールドミュージアム京都」によると、常盤御前(生没年未詳)は,幼名牛若丸といわれた源義経(1159~89)の母。平治の乱(1159)で義朝(1123~60)が敗死したため,常盤は今若(のちの阿野全成)・乙若(のちの愛智円成,義円)・牛若の三人の子供を伴い逃げるが,母の捕縛を聞き六波羅に自首しようとしたところ平氏に捕らえられたという。幸若舞曲では,才色兼備の貴女として波乱の生涯を送ったとし,「伏見常盤」「なびき常盤」「常盤問答」「山中常盤」で常盤のイメージが形作られた。この石標は常盤御前の捕縛の伝承地を示すものであるが,この地の東に名水常盤井(現存せず)があったので,常盤御前と結びつけられたものであろう。なお,この地は陸軍第十六師団(明治38年創設)隷下の工兵第十六大隊の衛戍地であったため,大隊長が建碑者となったのであろう。



3月11日(金)19:58 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)62

京町通は宇治川派流に出合って平戸橋で行止りとなる。
三叉路を左折(東)し近鉄京都線の高架下を潜ると、大衆浴場が現れる。このあたりでは銭湯は普通に見られるようだ。「寿湯」の看板が掛かっていた。



町の餅屋さん。「大福餅 和田商店」。
さきほどの風呂屋といい、なんだか懐かしい気がしたので、思わず撮影した。



住所表示は伏見区豊後橋町。
豊後(ぶんご)橋は観月橋の旧称で、桃山時代に豊臣秀吉が豊後大友氏に命じ伏見から向島の間に長さ200メートルの橋を架ける。これにより豊後橋と呼ばれるようになる。その後、明治の架け替えのとき、観月橋に名前を変えた。

観月橋



やがて前方に京都外環状線の高架と、京阪・観月橋駅が見えてくる。
右折し京阪の踏切を渡って観月橋へ向かう。



「明治天皇御駐輦所観月橋」の石碑。

「フィールドミュージアム京都」によると、明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。2月7日神武天皇陵参拝のため奈良に向かう途中,この地観月橋(豊後橋)で休憩した。この石標は明治天皇が休憩した観月橋を示すものである。



3月11日(金)19:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)61

やや変則的な虫籠窓が見られる人家。
虫籠窓の白い枠がやけに目立つ。



犬矢来(いぬやらい)。犬の放尿除け。
しかし、これはかなりの高さがある。雨の跳ね返りなどからも守れるようだ。
また石も置いてあった。



この町屋(東儀画塾)は、左右に2台あるエアコンの室外機を格子で囲ってある。


虫籠窓。どれ一つとして同じものはない。眺めているだけで楽しい。


まだ最近リフォームされたようだ。
格子戸は防犯上も有用。



3月11日(金)19:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)60

入口の右に説明書きが見えたので立ち寄る。

京都伏見の料亭「魚三楼」



鳥羽伏見戦の弾痕

 右側、格子に数條ある痕跡は鳥羽伏見戦(1868年)の弾痕です。幕末の慶應4年1月3日、4日に此処伏見で薩長土連合の新政府軍と幕府軍とが大激戦をくりひろげました。世に言う鳥羽伏見の戦いです。(明治維新の最初の戦)
 幕府の大政奉還の奏上(そうじょう)、朝廷の“王制復古の令”の直後 朝廷側が決定した第15代将軍慶喜の辞官、納地(一切の官職と幕府領の返上)は、幕府を怒らせ、京へ攻め上って参りました。新政府軍は、これを鳥羽伏見で迎え撃ち、伏見では一大市街戦が展開され、幕府軍は敗れ、淀、大阪方面へ退却しました。
 この戦乱で伏見の街の南半分が戦災焼失、街は焼野原となりましたが、幸いにして、この建物は弾痕のみの被害で焼失を免れました。
           店主謹白



これが説明書きにあった弾痕。


祠に祀られていたお地蔵さん。


格子戸が見られる町屋が続く。左の家屋は二階が出窓風になっている。


3月10日(木)21:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)59

京都上下水道局疎水事務所伏見分所を左に見て京町通(府道35号線)を歩くと、R24に出合いこれを横断。
画像は東方向を撮影。R24は京阪本線を跨ぐ為、高架になっている。



住所表示は伏見区京町十丁目。


近鉄京都線の高架下を潜ると左手に「本浄寺」の寺標を見て歩く。
京町北八丁目あたりから町屋が見られるようになる。



格子の囲い。格子と一口に云ってもいろいろと種類があるようだ。

京町家の特徴 | 京ぐらし



京町通を南へ歩く。上板橋通、丹波橋通、下板橋通、毛利橋通、そして大手筋通と、東西に交差する道を横断。やがて京料理「魚三楼」(うおさぶろう)が現れる。


3月10日(木)21:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)58

手前の池は「小町姿見の池」と呼ばれる。


「通ふ深草百夜の情 小町恋しの涙の水が 今も湧きます欣浄寺」の立て札が立つ深草少将遺愛の井戸。

深草少将Wikipediaによると、深草少将(ふかくさのしょうしょう)は、室町時代に世阿弥ら能作者が創作した、小野小町にまつわる「百夜通い」の伝説に登場する人物。欣浄寺(京都市伏見区)に屋敷があったともされる。欣浄寺の池の横には「少将の通い道」とよばれるものがあり、訴訟を持っている者がここを通るとかなわないと言われる。その他、小野小町供養塔と並んで深草少将供養塔がある。また、随心院(京都市山科区)には、深草少将等が書いた手紙を埋めたとされる「文塚」等がある。小野小町を愛したといわれ、小町が私の元へ百日間通い続けたら結婚しようと言い、九十九夜通ったが、雪の降る日で、雪に埋まり凍死したとも言われている。



通称“伏見の大仏”さん。木造の仏像としては日本最大級の高さ約3.5m。


欣浄寺を後にする。
祠の中に祀られていたお地蔵さん。メイクアップされていた。
伏見近辺に見られる、石のお地蔵さんに絵の具で顔や体が描かれているのを「化粧地蔵さん」と呼ぶらしい。
地蔵盆にお化粧直し、つまり顔や体を描き直す町内もあって、毎年、ちょっとずつお顔が変わっていくお地蔵さんもあるという。

MBS 京都見聞録



伏見区鑓屋(やりや)町に入ると、右手に「撞木町廊(しゅもくちょうくるわ)入口」と彫られた石標が見えた。左は「志由もく町廓入口」だろう。その昔、この地は遊郭だった。

橦木町遊郭跡 (橦木町廓之碑) 観光 クチコミガイド【フォートラベル】



3月10日(木)21:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)57

日蓮上人像。「立正安國」と彫られている。墨染寺は日蓮宗。本尊は十界大曼荼羅。


案内板はなかったように見受けたが、これが墨染桜と見られる。


「墨染井」と彫られた手水鉢。明和五年(1768)に歌舞伎役者、二代目中村歌右衛門の寄進による。


墨染寺を後にし、すぐ近くにある欣浄寺を訪れる。裏口から入ってきたようだ―笑。


欣浄寺(ごんじょうじ)

 清涼山と号する曹洞宗の寺院である。
 寺伝によれば寛喜二年(一二三〇)から天福元年(一二三三)まで道元禅師がこの地で教化に努め、当寺を創建したといわれている。当初、真言宗であったが、応仁の乱(一四六七)後曹洞宗となり、天正・文禄(一五七三~九二)の頃、僧告厭(こくえん)が中興し浄土宗に改められ、さらに文化年間(一八〇四~一八)にもとの曹洞宗に改宗した。
 本堂には俗に「伏見の大仏」と呼ばれる丈六の毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)をはじめ、阿弥陀如来像、道元禅師石像などを安置している。
 また当地は昔深草少将の屋敷があったところと伝えられ、池の東の藪陰の道は「少将の通い道」と呼ばれ、訴訟のある者はこの道を通ると願いが叶わないといわれている。なお、池の畔には少将と小野小町の塚と「墨染井」(すみぞめい)と呼ばれる井戸がある。
                京都市



3月9日(水)19:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)56

墨染(すみぞめ)駅を右(北)に見て、京阪本線の踏切を横断。


鴨川運河(琵琶湖疎水)に架かる墨染橋(すみぞめばし)を渡ると、左手(南)に墨染寺(ぼくせんじ)の山門が現れる。


石柱の側面に「墨染櫻寺」(ぼくぜんおうじ)と彫られているのが見てとれた。


壽碑

惟(おもんみ)るに当寺は清和天皇の勅創たる貞観寺の旧跡なり
堀川左大臣藤原基経昭宣公 薨(こう)じて遺骨を此の地に殯(かりもがり)したもうや
上野峯雄哀傷(あいしょう)の情を和歌に託して曰く
「深草の 野辺の桜之 心有らば 今年ばかりは 墨染に咲け」と
此の地の墨染の称は(或いは此の地を墨染と称するは)蓋(がい)し此の歌詞に因(よ)るなり
後に大僧都日秀上人道譽頗る崇し
豊公(秀吉)深く之を信じ挙げて此の地を上人寄附して本宗(ほんしゅう)に属し
銘を墨染桜寺(ぼくぜんおうじ)と改む殿堂高閣にして輪煥(りんかん)の美備わる
爾来星霜数百年寺運振わず塚を破り碑を断ち累々として
四方(あたり)に狼藉する荒涼の状轉(じょうたた)感慨の情堪えざるなり
爰(ここ)に第三十七世学妙上人先に宇治直行寺(じきぎょうじ)に住し次いで
梅津本福寺に転ずるも夙(つと)に当山の廃類せるを慨(なげき)き意(こころ)に回復の事を期し
入りて此寺に主となるや乾乾赬尾寒暑(けんけんていびかんしょ)にして虚日(きょぢつ)なく
復興に是務む 依って聊(いささ)か師恩に酬(むく)いんがために寿碑を寺の側に建て
日常の微事(びじ)を勒(きざ)みて之を伝へて不朽ならしめんと欲し文を余に微す
余と上人とは同じく達門(だつもん)の流類(るるい)なり敢(かんし)て辞せず乃ち
上人の行跡を按じて其の梗概(きょうがい)の系(つなぎ)を叙(じょ)し以て銘じて曰く
   千歳跡遠く 廟影(ろうけい)空しく 傾く
   乾(ここ)に力を致して 忽ち法城を現す
   顕徳測がたし 誠の点睛を積むは
   維(こ)れ労維(ろうこ)れ績(いさを) 勒(きざ)んで永く 彰旌(あらわす)
          平成十六年十二月吉祥



鬼瓦だろう。


3月9日(水)19:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)55

社標の側面に「菖蒲の節句発祥の地」とあった。
この時は合点がいかなかったが後でわかった。



境内に入ると、このような通行区分が目に入る。
“馬”とは驚いたが、藤森神社は駈馬神事(かけうましんじ)がよく知られていた。

2014年の藤森祭 駈馬神事

藤森祭・駈馬神事【京都伏見】



境内で観られたクスノキの巨樹。
藤森神社の境内は南北に長く、一部、藤の森公園となっている。



銘は見なかったが、立派な常夜灯。


藤森神社で暫く休憩。神社を後にする。
“菖蒲”“勝負”に通じていた―笑。



3月9日(水)19:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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