山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年4月を表示

上町台地から天王寺七坂めぐり32

真言坂を登り詰めると三叉路となり道標がある。
東面に「右 亰 道」。
※“亰”は「京」の俗字。



西面に「左 御堂 并 さんくう道」。
※“并”は「並びに」という程度の意味。



北面に「天保十五年冬十月建立」の銘。


真言坂を登り詰めた突き当たりが生国魂神社の北門。
ここからは参拝せずに表門へまわる。

真言坂は短い坂だが、昔は高津宮の参道まで続く長い坂だった。千日前通が開通して坂が分断された。
※千日前通は明治45年1月16日におきた南区大火の後に建設。

大阪歴史博物館:常設展:展示更新情報:南の大火と千日前



珍しく公衆トイレがあった。
ここまで歩いてきた中で、社寺仏閣や公園以外では初めてだったと思う。



4月10日(日)20:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり31

千日前通は横断歩道橋を渡る。


歩道橋から東方向の眺め。右上の高架は阪神高速。


歩道橋を降りて千日前通を東へ歩く。
フライパンを使ってお店のPR―笑。



右折(南)すると、美しい石畳と「真言坂」の表示が現れる。

※天王寺七坂①真言坂(しんごんざか)・・・天王寺七坂のひとつ。長さ70m、高低差8m、平均斜度7度。坂下に「真言坂」と刻まれた石標と、案内板がある。七坂の中でただ一つ北へ下る坂である。生国魂神社の北側には、医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼荼羅院の六坊があった。すべて真言宗であったのでこの坂は真言坂とよばれた。



真言坂の説明板。

生国魂神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏毀釈まで神社周辺で栄えていた。うち、神社の北側には医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼荼羅院の六坊があった。すべて真言宗であったのでこの坂は真言坂とよばれた。



4月9日(土)21:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり30

参道に屋台が並んでいたが、この日は何か催しがあったのかもしれない。


付近は高津公園となっている。もう少しでサクラが咲くが、その頃は大層賑わうだろう。


欄干に「梅の橋」と彫られている。

説明板によると、現在の石橋は一七六八年に天満九丁目の長浜屋五兵衛が奉納した。かつて高津宮一帯は梅の名所であり橋名の由来となった。橋の下には梅川が流れていて「摂陽奇観」(江戸時代後期)では、東から西に流れる梅川を掘り広げたのが道頓堀とする「梅川道頓堀上流説」を紹介している。



高津宮、表参道を振り返る。
一対の石柱に文字が彫られていた。

右は「風敷宇宙」(じんのかぜうちゅうをしく)
・・・思いやりのある風が 宇宙に満ち溢れるとき

左が「化洽乾坤」。(とくかけんこんす)
・・・人を思う慈しみは行動となって 天と地に広がる

高津宮は、浪速の地を皇都(高津宮)と定められ、大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を王神と仰ぐ神社で、この頭二文字で「仁徳」となるそうだ。



高津宮を後にし、松屋町(まっちゃまち)筋に出て左折。(南)
千日前通と交差する下寺町の交差点に出た。



4月9日(土)21:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり29

高津の富亭。(参集殿)

高津宮 - Wikipedia によると、 高津宮(こうづぐう)は、大阪市中央区にある神社。旧社格は府社で、戦後神社本庁の別表神社となった。難波高津宮に遷都した仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。貞観8年(866年)、勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を当社の地主神として摂社とした。明治5年に府社に列格した。昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲によって神輿庫を残して社殿が全て焼失し、昭和36年(1961年)10月に再建された。古典落語「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心として賑わっていた。
境内の参集殿は「高津の富亭」と名づけられており、落語の寄席や文楽などが行われている。高津の富亭での寄席には五代目桂文枝一門がかかわっており、文枝最後の口演「高津の富」が演じられたのも「高津の富亭」で開かれた「くろもん寄席」である。文枝が亡くなった翌年の平成18年(2006年)3月、境内に桂文枝の石碑が建立された。



高津の富亭、寄席の予定表。会費、当日:1800円。前売:1500円。


富亭、玄関に入ってみた。


表参道の急な階段を降りる。


常夜灯。「安永四乙未年 夏五月吉日」の銘あり。


4月8日(金)20:27 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり28

モモの花かと思ったがどうも違う。ウメやサクラには見えない。
正解はアーモンド。



境内では桜まつりのスタンバイOK!というところ。


古木があったので立ち寄る。
2万年前の神代杉という。これを動力にして時空を進む“とこしえ(永遠)にむかう舟”を高津宮の
とこしえ秋祭に建造するとのこと。芸術家 伊原セイチ

このイベントは既に終わっているかもしれない。

神様の船 完成 25日「高津宮とこしえ秋祭り」-大阪日日新聞



屋外用のかまど。奉納されたようだ。
その右に立派な常夜燈が建つ。



「文化三年 丙寅十二月吉日 願主×× 」の銘あり。


4月8日(金)20:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり27

北坂を登って境内に入る。
何で大阪市歌の歌碑がと思ったら歌詞を見て納得。

【自治体歌】大阪市 市歌

市歌では、“こうづ”ではなく“たかつ”と詠んでいる。
また、「咲くやこの花さきがけて よもに香りを送るべき」の“この花”は桜ではなく梅。桜は香らない。



皆さん、左に見える「北坂」を登って来られる。
もし北坂の登り口にスタッフの人が立っていれば、間違うことはなかったと思う。
この日歩こうとした16の坂の中で、「相合坂」は唯一歩いていない。
画像の中央の建造物は神輿庫。
昭和20年の大阪大空襲では、この神輿庫のみ残して社殿が全て焼失。



「五代目 桂文枝之碑」。

説明板によると、桂文枝一周忌にあたる平成十八年三月に建立された。文枝師匠は平成十二年より平成十七年まで、高津の富亭に欠かさず出演し、平成十七年一月十日のとんど祭りが最後の高座となった。このような経緯により五代目桂文枝を顕彰する碑が建立された。石碑の題字は長年の盟友であった三代目桂春團治師匠の筆による。



絵馬堂。

高津宮・坂案内(板高津宮ホームページ) によると、江戸時代は今の絵馬堂の当たりが、展望の名所として全国にも知られており、ここで望遠鏡を貸して大阪のまちなみの説明をする商いが庶民の娯楽としてにぎわっていた。



サクラがチラホラと咲き始めていた。紅白のたすきは頭上注意ということだろう。


4月8日(金)20:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり26

もう一方の守護神、口を閉じた吽形像。怒りを内に秘めた表情を表している。


車道を渡ると寺院が現れる。
山門の右に「身延山分體 / 眼病御守護 / 日朝上人安置」と彫られた石碑。
日蓮宗の雲雷寺。(うんらいじ)

日蓮宗 大阪・雲雷寺/音と光の溢れるお寺



境内に入ってみる。中国の建物ように見える本堂。
戦災により本堂は焼失。昭和32年に現在の本堂が再建された。
尚、本堂の内部は一般公開されている。まるで教会のよう。

境内探訪|日蓮宗 大阪・雲雷寺



高津公園を左に見ながら交差点を左折。(南)
やがて高津宮(こうづぐう)の社標と石段が現れ、この石段を登る。
欄干の右に「瓦屋甼三箇丁」。左には「明治三十六年三月建立」と彫られている。
※甼は「町」の異体字。



この石段が相合坂だと思っていたところ、後でわかったが、この坂は「北坂」だった。

※⑧相合坂(あいおいざか)(縁むすびの坂)・・・南北から上り頂上で合体する形の石段坂で、男女が両方から同時に上り、頂点でピタリと出会うと相性が良いといわれているところから坂名になった。明治後期、氏子の土地奉納により今のような坂ができた。

高津宮・坂案内(板高津宮ホームページ)



4月7日(木)19:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり25

谷町8丁目の交差点で右折。(西)
緑色のベストを着たスタッフの人の後に、白い五本の線(定規筋)が入った築地塀が見える。
後で調べると、このお寺は浄土宗 願生寺。



「地蔵坂」の表示。

※⑦地蔵坂(じぞうざか)・・・坂名は専修院に祀られた頬焼地蔵尊(ほやけじぞうそん)に由来する。むかし、相模国の助太夫という男の家に下女がいた。女はお地蔵様を深く信仰し毎日昼食を田畑で働く人に運ぶ途中初穂を地蔵尊にお供えしていた。これを知った助太夫に女は折檻され頬に火箸を押し付けられ気を失った。気が付く火傷を負ったはずの傷は消え、お地蔵様の頬が焼けただれていた。以後お地蔵様を身代り頬焼け地蔵菩薩と呼んで多くの人達が参詣した。(「摂津名所図会」より要約) 専修院前に「旧蹟 地蔵坂」と刻まれた石標がある。

専修院はこの先10mくらいの左側にあったが、失念していたので、そのまま通り過ぎてしまった。
後で調べると、頬焼地蔵尊は戦災で焼失していた。



右手(北)に寺院が現れる。
金剛力士像が見えたので立ち寄る。
お寺は日蓮宗 真如山 法性寺。(ほっしょうじ)



金剛力士像(仁王さん)の説明文。

金剛力士は、仏教の守護神で、寺院に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表しています。一般には「仁王さん」の名前で親しまれています。
口を開けたのが阿形像、口を閉じたのが吽形となります。
これは「阿吽の呼吸」の語源でもあります。阿形像は怒りの表情をあらわし、吽形は怒りを内に秘めた表情を表しています。
また仁王さんはその姿から、「健康を守る神」「足を丈夫にする神」としての信仰を集めました。仁王門は平成17年に建立致しました。



こちらが口を開けた阿形像。怒りの表情を表している。
木製ではなく青銅製に見えた。
先ほどの説明で、仁王門はごく最近、建立されたことはわかったが、仁王様も新しいものに見えた。
しかし、法性寺のホームページで知ったが、これは修理されたもの。

◇◇日蓮宗 法性寺のホームページ◇◇ 仁王門 によると、法性寺の仁王さまは平成元年に庫裏・客殿建築に併せまして、お寺の吉方位であります南の位置に伽藍守護の神として勧請いたしました。当初は青銅製ですので、門の建築などさらさら考えていませんでしたが、近年の酸性雨や排気ガスなどによる公害で、その傷みが気になるところとなり、平成16年9月に地鎮祭、住職が荒行堂に入行中の12月末、高岡の工場で入念な修理をしていました仁王さんが見事に修理され帰山されました。そして1月12日実弟の能勢・安穏寺にお願いをして上棟式を行い、4月11日すべての工事が完了致しました。ご覧の通り、本当に見事な仁王門が完成いたしました。蟇股(かえるまた)の見事な彫刻。扉にはめ込まれた重厚な宝相華(ほうそうげ)の彫刻。以前にも増して眼光するどく力強く修理された仁王さん。どれをとっても見事の一語です。工事に携わっていただいた多くの方々に心からお礼を申し上げる所であります。



4月7日(木)19:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり24

「正覚寺」の山門前を通過。


その南隣が「妙光寺」。


更に「久本寺」と、このあたりはお寺が連続する。


この立派な築地塀のお寺は「妙法寺」。


付近の住宅地図。この地図には記載がないが、現在地(左上)から西方向へ歩く。


4月7日(木)19:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり23

谷町7の交差点で左折(南)。谷町筋を南へ歩くとすぐ左手に「国指定史跡 近松門左衛門墓」と記された立派なプレートと案内板が目に留まる。

国指定史跡 近松門左衛門墓

 近松門左衛門は、享保九年(一七二四)に七二歳で没した。近世で最も著名な劇作家の一人である。近松は竹本義太夫や二代目義太夫のために百作を超える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために三十数作の歌舞伎狂言を著している。
 「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は、今日に通じるところも多く、伝統芸能や演劇・映画などの中で再創造され、たくさんの人々に感動を与え続けている。
 近松門左衛門墓は、当初近くの法妙寺(現在大東市へ移転)境内にあったが、昭和五五年(一九八〇)財団法人住吉名勝保存会はじめ市民の方々の協力を得て、当地に移転し、整備が図られた。

 平成七年十月二十八日
  大阪市教育委員会



人一人がようやく通れる路地のような狭い道を進む。
それより左右に壁があって、今や死語となったが「コンクリートジャングル」の中にお墓があった。



「近松氏 / 施主 / 正七」と彫られているのは墓石の台石(台座)らしい。


「阿耨院穆矣月一具足居士 / 一珠院妙中日事信女」と彫られた墓石。
「阿耨院・・・」は門左衛門、「一珠院・・・」は妻の戒名。
墓石の裏面は確認せず。



谷町筋を南へ歩く。背丈の揃った街路樹が行儀よく並んでいる―笑。


4月6日(水)20:58 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり22

横断歩道を渡ると正面にこの看板。
悪縁つ寺 鎌八幡
このキャッチコピー、一度聞いたら忘れないくらいインパクトがある。



山門前に立つ石柱。史蹟 契沖舊庵「圓珠庵」竝墓。
(しせき けいちゅうきゅうあん「えんじゅあん」ならびにはか)

コトバンク によると、 江戸時代の国学研究の基礎をつくった契沖(1640~1701年)の足跡を顕彰する重要な場所として、1922年(大正11)に国の史跡に指定された。現在、上町(うえまち)台地の真田山の西にある円珠庵に引き継がれており、円珠庵は真言宗御室派に属し、契沖が初めて業を受けた妙法寺の末寺。旧庵は本堂の西に建てられた桁行5間、梁行3間半の茅葺きの建物で、戦前までは江戸時代の珍しい旧態を残していたが、空襲で全焼した。契沖は尼崎に生まれ、11歳のとき今里の妙法寺で出家、高野山で修行し各地を流浪した。代表的著作である『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』は水戸光圀(みとみつくに)の依頼で、師の下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)に代わって万葉集を注釈したもの。古典研究の底に流れる復古思想は、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)らに引き継がれ和学・国学の主流をなした。契沖の墓は本堂裏の墓地内にあり、親交のあった下河辺長流、医師華岡鹿城の墓もある。

円珠庵 - Wikipedia によると、 鎌八幡は、圓珠庵の境内にあって、元和の大坂冬の陣の時真田信繁(幸村)が、陣所内にて当時信仰を集めていた御神木に、「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、必勝を祈願したところ、大いに戦勝をあげたと伝承されている。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、現在の形の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集め、現在に至っている。

山門から境内に入ろうとしたら、「境内全域 撮影禁止」と表示されており、この画像一枚を撮影して早々に立ち去った



「三韓坂」の表示。

※⑥三韓坂(さんかんざか)・・・近くに平安時代に築かれた外賓接待のための館「鴻臚館(こうろかん)」があったとの説がある(鴻臚館の位置については諸説ある)。鴻臚館は三韓館、難波館ともいわれたことから三韓坂の名が伝わった。



左に高津中学校の校舎を見て歩く。住所表示は天王寺区空清町7。
やがて右手に公園が現れる。「空清町公園」。(からきよちょう)



上本町4の交差点を横断して暫く歩く。
谷町7の交差点の手前、道路の真ん中に、まるで川の中州のような舟形をしたところが現れる。
その中に鳥居とご神木のような樹木が見えた。
ここは「楠木大神」が祀られており、ネット検索すると幾つかヒットする。

危険!?これぞ道路のど真ん中に立つ御神木! 谷町7丁目「楠木大神

車道の真ん中になぜ巨木? 大阪中心部のミステリー

要約すると、この場所は元は本照寺というお寺の境内にあたる。大正10年、街路整備のために本照寺境内を市が買収。楠を切ろうとすると工事人に怪我・病気が続出。白蛇を見たという人まで現れ、工事人が集まらなかった。やむなく道の真ん中に残すことに。戦後大阪に来た進駐軍もこの木を残し、地元の人が祠や注連縄を張り、通りの名前も「楠木通り」と呼ばれるようになった。



4月6日(水)20:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり21

歩道脇に植栽されているクリスマスローズ。
環境が合っているのか大株になっている。



朱塗りの山門と鐘楼が現れる。寺標には「大阪高野山 準別格本山 六大院」。
境内が狭いようで、大勢で押しかけるのも気が引けたので、この日は拝観せずにそのまま通過した。

六大院 - Wikipedia によると、高野山真言宗・別格本山。高野山金剛講大阪市本部。本尊は不動明王と弘法大師。寺伝によれば、行基菩薩が創建したと伝えられるが詳しいことは分かっていない。年代は不明だが、真言宗大覚寺派に属していた時期があった。中興は、江戸時代末期の木食祐伝上人による。祐伝上人と、そのあとの代の祐範上人が四国に渡り、四国八十八箇所の霊場寺院の山主により開眼された、四国八十八箇所の石仏を背負い、10数余年の歳月をかけて六大院に奉祀した。小原孝澄が昭和3年(1928年)に晋山(しんざん)し、住職となり、荒廃していた六大院の復興に努めたが、昭和20年(1945年)3月の空襲により諸堂など、すべてが灰燼に帰した。昭和29年(1954年)に本堂の落慶法要を厳修した。また、小原孝澄は、戦中・戦後に荒廃し、中絶していた摂津国八十八箇所霊場を復興するために力を尽くした。昭和55年(1980年)1月に札所寺院の結集がなり、摂津国八十八箇所霊場が復興するに至った。



「四国八十八箇所霊場」と彫られた石碑。
後で調べると、先の説明文にある中興の木食祐伝上人が安政五年に建立したもの。



餌差町交差点の横断歩道を渡る。分岐に立つ緑のベストを着たスタッフの人。
スタッフの人は分岐のみならず、(この時の場合のように)直進の場所にも立っていた。



横断歩道を渡って六大院を振り返って撮影。
あまり広くない境内に鐘楼の存在感が大きい。



4月6日(水)20:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり20

中央に不動明王と左右に脇侍、
向かって右:矜羯羅童子(こんがらどうじ)。

矜羯羅童子 (こんがらどうじ)とは【ピクシブ百科事典】 によると、不動明王に仕える八大童子の7番目の尊格である。制多迦童子と共に不動明王の脇士を務める。その姿は15歳程の童子であるという。名はサンスクリッド語で「何をするべきかを問い、その命令の通りに動く」を意味する"Kiṃkara"に由来し、仏法に対する恭順を示す。

左:制吒迦童子(せいたかどうじ)

制吒迦童子(せいたかどうじ)とは - コトバンク によると、仏教の守護神。不動明王の脇侍(きょうじ)で矜羯羅(こんがら)童子と対になる。不動八大童子のひとり。性悪をあらわすものとされ,像はおこった紅蓮(ぐれん)の顔につくられる。制多迦童子ともかく。

興徳寺のパンフレット によると、世の中の煩悩を火で焼き尽くし平和をもたらそうと燃えていらっしゃるので「ありがとうございます」と言う気持ちで水向け供養してください。



「大阪第十一番 准提觀世音菩薩 興徳寺」と彫られた石柱が立つ。


准提觀世音菩薩像。

興徳寺のHP及びパンレットによると、准提仏母(じゅんていぶつも)七倶胝(しちくてい)仏母とも言い、無数の仏を生んだ母であることから、また古来インドで密教の女神であることから、仏母といわれています。我が国ではとくに子授けと安産の観音さまとしてお祀りされ、除災・延命・子授け・安産を祈願する祈祷法があり、これを「准提法」といいます。史実によれば真言宗の高僧、理源大師聖宝がこの准提仏母尊による求児法を修して朱雀村上二帝の誕生を得たことから、日本では六観音の一に加えて尊崇されてきました。その御手の数は二臂(ひ)より八十四臂まで各種説かれていますが、我が国では三目一八臂像が多く、それぞれの御手に持たれた仏具には種々の功徳があります。
高さが33尺(約10m)あり遠くからでもよくわかります。



境内の様子。早くも鯉のぼりが揚がっていた。
興徳寺を後にする。



南へ歩き交差点で右折(西)する。


4月5日(火)20:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり19

山門前に建つ石柱。右から「高野山 立里 三宝大荒神」。「攝州八十八箇所 第十二番 興徳寺」。「大坂 觀世音三十三所」。

摂津国八十八箇所 - Wikipedia によると、摂津国八十八箇所(せっつこくはちじゅうはちかしょ)とは、江戸時代中期(安永年間・1772年~1781年)に、四国八十八箇所霊場に擬して、真田山観智院(第16番札所・観音寺)の月海上人により開かれたとされる摂津国(大阪府北部と兵庫県の一部)にある八十八箇所の霊場。江戸時代には、熱心な大師信仰に支えられて殷賑を極めたと伝えられるが、明治の廃仏毀釈、大阪大空襲による被災などで多くの寺院が灰燼に帰すなど、不幸な戦中戦後の荒廃を経て、六大院(第14番札所)前住職・小原孝澄大僧正の積年の念願が実を結び、ようやく昭和55年1月、全札所寺院の結集がなり、霊場再興が成し遂げられた。(参考図書:「摂津国八十八所巡礼」摂津国八十八所霊場会編、朱鷺書房発行)

大坂三十三観音札所 によると、大坂三十三観音霊場は、近松門左衛門の「曾根崎心中」冒頭に登場する霊場です。1996年に、「大坂三十三所観音めぐりの復活を願う市民の会」により、再興されました。 残念ながら、移転・廃寺などの理由により、当時の所在地に現存しないお寺なども多いのですが、将来は各札所に共通の碑が建てられる予定です。
→ 先ほど見たご詠歌が記された石柱(碑)のことを指すのだろう。



山門を潜ると足元に「ふみ石」と彫られた敷石を踏むことになる。

興徳寺のパンフレット によると、四国88箇所霊場のお砂を納めています。この石を踏めばお遍路を回ったことと同じ功徳があるようです。

興徳寺



地蔵菩薩。
左の黄色い花はレンギョウ。大きく刈り込んである。



役行者像。しゃがんでいるように見える。


サクラの古木。ソメイヨシノかな。
2016年4月4日(月)に夜桜を観ながらJAZZを聴く催しが興徳寺で開催されたようだ。

お寺でJAZZ 第2弾! | ★夜桜と音楽と★ | お寺でJAZZ | 満開 | 興徳寺



4月5日(火)20:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり18

心眼寺を後にする。心眼寺の山門から階段を降りて、先ほど歩いて来た心眼寺坂を眺める。
左に見えるフェンスの向こうは大阪明星学園のグラウンド。



山門前の道路を隔てた歩道に「真田丸顕彰碑」が建立されていた。

【前半部分割愛】

 「真田丸」の場所については、元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に作製された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。

 平成二十八年一月 天王寺区役所
       協力 大阪明星学園
       題字 脇田龍峯


「真田丸はどこにあったか?」地元を調査して歩く



顕彰碑はごく最近設置されたもの。
この画像は2016年1月31日に撮影した。この時はまだ除幕前。



心眼寺の南隣、興徳寺の山門。このお寺も少しお邪魔することにした。


興徳寺は「大坂三十三所観音めぐり 第十一番札所」。
ご詠歌は「ぎやくえんも もらさですくふくわんなれば じゅんていだうは たのもしきかな」。



4月5日(火)20:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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