山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年1月を表示

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)56

JR亀岡駅に到着。駅前広場にある平和の鐘


16時44分発の京都行普通電車に乗車。待ち時間はほとんどなし。


反省会は恒例、塩小路カフェにて。京都駅構内でリーズナブルに利用出来る穴場的存在。食事、喫茶、アルコールすべてOK。


反省会でN氏から教えて貰った「大人の休日倶楽部パス」
JR東日本フリーエリア4日間乗り放題で15,000円
。但し会員限定。おしまい。



1月6日(水)19:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)55

府立亀岡高校東校舎前に立つ「丹波亀山城雷門跡」の案内板。

亀山城下の内外は、内堀外堀惣堀の御城と御土居で仕切られ城内から各方面に五つの城門が配置された。この付近には東西への出入口としての城門「雷門」があった。

※亀岡と亀山の名称についてWikipediaによると
亀岡市(かめおかし)は、京都府の中西部に位置する市で京都府第三の都市である。旧名は亀山。旧丹波国の最南端に位置し、山城国・摂津国の境目となる。旧丹波国の中では人口は最多であり、旧丹波国内の中心都市であった。戦国時代末期に明智光秀が丹波亀山城と城下町を築いたことが近代亀岡の礎となった。しかし、現在では京都・大阪の衛星都市の側面を持つようになった。



JR亀岡駅へ向う。ここより760m。


南郷公園前に到着。


「内堀」(南郷公園のお堀)の説明板。

亀山城内外は、内堀外堀惣堀の三重のお城と、御土居で仕切られていた。現在では一級河川「雑水川」(ぞうずがわ)となり南郷公園の一角として市民の憩の場所となっている。



公園の入口に設置されている亀山城の復元鯱瓦。


1月6日(水)19:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)54

亀岡市三宅町野々神に建つ愛宕山石灯籠。


こちらは亀岡市三宅町住民センター前に建つ自然石の愛宕山石灯籠。文久三年(1863)の銘。


この四つ角で山陰道(府道402号線)と別れ、右折してクニッテルフェルト通りを歩いて亀岡駅へと向う。

※クニッテルフェルト通り
歴史と自然のまち「亀岡」によると、クニッテルフェルト市はオーストリア共和国シュタイアーマルク州にある都市で、亀岡市とは1964年4月14日に姉妹都市提携を結んでいる。クニッテルフェルト市に因む通りの名称。



西日を浴びる牛松山。


光忠寺前を通過。


1月5日(火)18:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)53

西川に架かる西川橋を渡ると篠町柏原(しのちょうかせばら)。ここから亀山城下となる。
駐車場の隅に愛宕山石灯籠が建っていた。この後、いくつも愛宕山石灯籠が現れる。



この家では水路から庭の池に水を引いているのだろう。石灯籠の左は取水口に見える。その取水口の上に何本かの糸が張られており、鯉などの魚を鳥から守る為のものだろう。


先ほどと同じような様式の愛宕山石灯籠。笠の一部が欠けている。


やがて年谷川に架かる年谷橋(としたにばし)を渡る。画像は年谷橋から牛松山方向の眺め。


千本松(野橋立)跡。

案内板によると、亀山城下町の南東を流れる年谷川。かつてこの両岸の堤防止にみごとな松並木が続いていた。その風景は千本松と呼ばれるほどであった。一説には亀山城の防御線として明智光秀が植えたともいう。



1月5日(火)18:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)52

農産物の無人販売。いたるところで見かけた。


聖護院かぶらは江戸時代、洛北・聖護院で生まれたのでその名がつく。その後、宅地化の波によって生産地が変わり、現在では亀岡市が京都市内に京漬物・千枚漬けの原材料として供給する産地となっているようだ。


確認はしていないが、愛宕山常夜燈だろう。笠の部分が他の部分に比べ黒ずんでいる。


紅殻格子(べんがらごうし)の町屋の玄関先に置かれた樽。今は商売をしていないようだが、この樽は醤油か酒か、何を作る為のものかわからない。


この先、道路幅が広くなり、直進するとJR馬堀駅。ここは左折して亀岡市街へ向う。この瓦はツバキをイメージしたものだろう。


1月5日(火)18:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)51

境内北方にある「旗立楊」の説明板。

※Wikipediaによると
挙兵した高氏が味方武将に所在を知らせるため、元弘3年4月27日から5月7日までの間「二引両」の家紋入りの旗を掲げたという楊(やなぎ。柳とは樹種が異なる)が立っている。この楊は『梅松論』にも記載がある。現在の木は昭和初期に挿し木したもので、高氏の時代より6・7代を経て引き継がれてきたものになる。(境内の説明板)



「尊氏公旗立柳」の石碑が立つ。高氏の時代より6・7代を経て引き継がれてきたもの。


旗立楊。説明文にあるように、柳とは樹種が異なる。


旗立楊より北方向の展望。唐櫃(からと)越えの稜線。最高地点が、みすぎ山430m。


篠(村)八幡宮を後にする。この後、馬堀駅へ向うか、亀岡駅まで足を伸ばすか迷ったが、この街道を再び歩くことは、もうないだろうとの意見が出て、亀岡駅へ向った。時間は4時少し前。一方、馬堀駅へ向う道は「異人街道」※と呼ばれている。この日はこの道を歩かず。

保津川下りのサイトによると「異人街道」とは、
保津川下りは多くの人々に知られたことはいうまでもないが、中でも大正時代から昭和の初期にかけて、外人客に歓迎され京の町から二人力の人力車にゆられて老の坂を越え、舟下りを楽しむ青い目のお客が多かったことは、今も物語として伝えられ、山本浜の乗船場に通じる道に異人街道という異名がついたほどであった。



1月4日(月)18:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)50

参道を直進すると左側に境内があって、右側には篠村幼稚園があった。
画像の左奥、正面が拝殿でその奥が本殿。参道の右側は手水舎。



篠八幡宮 (篠町篠) 【一部割愛】

創建は不明であるが鎌倉初期をあまり降らない頃と思われる。社伝によると延久三年(一〇七一)後三条天皇の勅命により河内の誉田から神霊を遷したといい、室町時代は将軍足利家の庇護をうけ醍醐三宝院門跡をして当社の別当職を管掌せしめ社領を寄進され大いに栄えた。元弘三年(一三三三)足利尊氏は当社に願文を奉ると共に上差の鏑矢一筋を添えて奉納して京都六波羅北条仲時を討ち建武中興の先がけをなした。この時、尊氏の旗印「源氏の白旗」を掲げた楊の大木の二代目が「旗立の楊」として現存している。本殿は明智光秀の丹波攻めの兵火で焼かれたが、後亀山城主松平氏により再建された。【以下割愛】



本殿と拝所、右に「足利高氏旗あげの地」の石碑。
足利尊氏は“高氏”から後に“尊氏”に改名。



本殿の右に祀られている「乾疫神社」。

※Wikipediaによると
乾疫神社(いぬいやくじんじゃ) 祭神:建速須佐之男神、大己貴神、少彦名神 例祭:1月19日 奈良時代以来の御霊信仰に基づき、「乾(= 北西)」の方角の丹波国・山城国の国境に勅願で創建された疫神社とされる。当地に八幡神が勧請される以前からの神社という。(境内の説明板より)



境内の配置図。この地図を見ると、ここまで歩いて来た道は、山陰道ではなかった。
旧山陰街道(古大道)は境内の北東にあることを知った。
尚、このあたりの住所表示は、「亀岡市篠町篠古大道」。



1月4日(月)18:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)49

愛宕山常夜燈。民家の敷地内に建てられていた。


茅葺屋根に銅板を被せた家屋。


こちらの蔵は後から窓を設けたようだ。


やがて立派な常夜燈が現れ、篠村八幡宮に到着。
常夜燈の側面に「丹波國弓射家中」と彫られている。比較的新しい時代の常夜燈だろう。下の土台石はそれより古い時代のものに見える。



住所表示は「亀岡市篠町」となっているが神社の名称は篠町ではなく篠村八幡宮で“篠村”が固有名称になっている。


1月4日(月)18:48 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)48

王子神社を後にする。舗装された山陰道(府道402号線)を歩く。道路幅が狭く通行速度は30km以下に制限されていた。
このあたりは一面に大根畑(かぶら?)が広がっていた。時間は3時半を過ぎており西日を浴びている。



北西方向の展望。左奥に見える山は牛松山だろうか。


左右に立派な屋敷を見ながら歩く。車道と歩道の区分がされており比較的歩きやすい。


とれたて野菜の無人販売が見えたので立ち寄る。オール100円。


聖護院かぶら100円は激安では。しかし“重量級”なので買わず。


1月2日(土)18:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)47

お店の隣が「王子神社」。珍しいことではないと思うが扁額に笠(屋根)がある。


王子神社(篠町王子) 【一部割愛】

祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉冊尊(いざなみみこと)
王子神社の創建由緒は詳らかでないが、鎌倉時代熊野信仰によって当地に熊野若一王寺を勧請し、この辺りを「王子」と呼ぶようになったという。社は「正一位王子大権現」や「位有宮(位のある宮)」と呼ばれ、また、かつて広い境内に巨樹が生い茂り境内が暗かったことから「闇宮(くらがりのみや)」とも言われた。本殿は、木階の高欄の擬宝珠銘などから安永八年(一七七九)に造営された大型の一間社流造、柿葺で、ゆったりとした落ち着いた印象を受ける建物である。当社は、山陰道沿いに立地していたため街道を往来する旅人等が旅の安全を祈願した。境内社天満宮は、宝暦元年(一七五一)に造営され、今も五穀豊穣・家内安全・学問の神として信仰を集め、「王子天満宮」と呼ばれている。【以下割愛】



愛宕山と彫られている。常夜燈の一部“竿”と呼ばれる部分に見える。側面には「寛政××年」と彫られていた。


本殿(左)と拝所(右)。


境内の巨樹。ツブラジイ。亀岡の名木となっている。駒札に記されているが、スタジイとよく似ている。


1月2日(土)18:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)46

鵜ノ川は保津川(桂川)の支流。昔はここまで小船が入ってこれたのだろう。


長閑な田園風景が広がる。春に歩けば気持ちよさそう。


鵜の川遊歩道。時間の都合で散策せず。


この先少し登りとなる。


府道402号線に出合う。
三叉路の角地に製造直売「京つけもの もり」のお店がある。



1月2日(土)18:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

Happy new year

謹賀新年


いつも訪問くださりありがとうございます。
昨年一年間を振り返ってみますと、京都トレイルの踏破や、京の古道歩き、紀路歩きなどが印象に残っています。
やはり初めて歩くところは新鮮で印象深いものです。


新年も引き続き、京の古道歩き、六甲縦走など、単発ではなく、例えば一つの山域やトレイルコースを歩くなど、系統的に歩いてみたいです。
本年も宜しくお願い致します。

画像の「初日の出」は大渕池公園(東地区)で7時17分撮影。


2016年(平成28年)1月1日

oka-nara



昨年は近隣地域で行われているラジオ体操に参加しており新年も引き続き参加したい。


1月1日(金)07:52 | トラックバック(0) | コメント(2) | 日常 | 管理


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