山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年4月を表示

上町台地から天王寺七坂めぐり17

「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」。
(じゅごいのげ さなださえもんのすけとよとみのぶしげのはか)
真田幸村の墓。このお墓を観ていくつかの疑問が出てくる。

その1
どこにも“幸村”の名前は見えないが。。。


真田信繁 - Wikipedia によると、「真田幸村」の名が広く知られているが、諱(いみな)は「信繁」が正しい。直筆の書状を始め、生前の確か史料で「幸村」の名が使われているものは無く、幸村と署名された古文書が二通現存しているものの、いずれも明らかな偽文書で、信繁が幸村と自称したことの証明にはならず、真田左衛門佐の諱は信繁であったと判断できるからである。「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣以後、60年近く経た、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記』がその初出であるとされる。『難波戦記』では大坂に入って幸村と改名したとするが、前述のようにこれを使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも実際には「信繁」を用いている。

その2
“豊臣”とあるが。。。


心眼寺に真田信繁(幸村)の墓~幸村は豊臣家大名だった~ によると、信繁は豊臣の家臣であり、豊臣姓を許された。豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟秀長や甥の秀次らの親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠らをはじめとする有力大名も多数、豊臣姓を下賜され名乗っている。

その3
大坂冬の陣は慶長十九年(1614年)で、400年も経った墓に見えないが。。。


大坂の陣講演会と特別展・ウォーキング によると、2015年は大坂夏の陣400年。400年目にして心眼寺に幸村のお墓が建立された。

【参考】
NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証の担当者、平山優さん「真田幸村の実像」に迫る。



京都見廻組の墓。左:渡邊吉太郎(吉三郎) 右:桂 早之助。


墓の横に設置されていた説明板の銘文。

     京都見廻組

    桂早之助・渡辺吉太郎・高橋安次郎

 桂早之助利義は、天保十二年(一八四一)四月、代々京都所司代組の同心を務める家に生まれた。京都在住の幕臣である。剣術は西岡是心流を修め、京都文武場の剣術世話心得を務めている。慶応三年(一八六七)二月、所司代組同心から京都見廻組に推挙され、七月には肝煎(小隊長クラス)に昇進した。見廻組の主な任務は、新撰組と同じく京都の治安を守ることにあるが、見廻組の方は、全て幕臣による組織である。
 渡辺(邊)吉太郎は、天保十四年(一八四三)に江戸で生まれた幕臣である。直心影流(じきしんかげりゅう)を学び、神奈川奉行支配組同心となった。その後、元治元年(一八六四)には見廻組に推挙され、京都に来た。慶応年間の見廻組肝煎を列記した名簿に名が掲載されている。
 高橋安次郎も、天保十三年(一八四三)に江戸で生まれた幕臣である。高橋の名は、元治元年の見廻組名簿に記され、伍長を務めていた。

 慶応三年十一月十五日、京都河原町の近江屋で坂本龍馬や中岡慎太郎らが殺害された。箱館戦争終結後、新政府に捕られた元見廻組肝煎 今井信郎の供述によると、見廻組与頭 佐々木只三郎を指揮者とする数名が、坂本龍馬らを襲撃した。その人員の中に、桂早之助と渡辺吉太郎、高橋安次郎の名がある。
 慶応四年一月三日に始まった 鳥羽伏見の戦いに見廻組も参戦し、最前線で戦った。桂は下鳥羽で左股に銃創を受け、四日に戦死している。遺体は戸板に乗せられて同僚らの手で大坂まで運ばれ、本寺に葬られた。享年二十八歳。戒名は「徳元院大誉忠愛義貫居士」である。
 渡辺は鳥羽から橋本にいたる戦いの中で負傷し、五日に戦死、本寺に葬られた。享年二十六歳。墓碑には吉三郎とあるが、同時代資料から「吉太郎」が正しい。
 高橋も五日に鳥羽淀橋において戦死し、本寺に葬られた。享年二十七歳。「宝樹院思誉巍山孝道居士」という戒名を刻んだ墓石が、桂の墓の隣に存在していたが、現在、墓石は残されていない。裏面には「慶応四年戊申夭正月五日」と刻まれていたと伝わる。

 <参考文献> 【割愛】

    平成二十五年四月 真田山 心眼寺



小さな鬼瓦。


境内に祀られていた石仏。


4月4日(月)20:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり16

「まんなおし地蔵尊」が祀られている地蔵堂。


「まんなおし地蔵尊」と記された台座は新しいが、お地蔵さん自体は長い年月の経過が感じられる。
ふくよかなお顔で親しみやすい。パンフレットによると創建年代は不明。
それにしても、右手にお持ちなのは錫杖には見えない。
剣のように見える。その剣が錆びているのか、汚れのように御身に伝っているのが痛々しい。



弘法大師像だろう。


手水舎。ウメと鶴をデザインしたものかな。
どちらも福を呼ぶという意味がある。



手水舎の側面には「天保十五甲辰十月吉日 雲里★ 音羽屋★右エ門」と彫られているようだ。★は不明。


4月4日(月)20:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり15

心眼寺山門前。
「まん直し 地蔵尊」と「京都見廻組 / 桂 早之助 / 渡辺吉太郎 / 墓所 当山」の石碑が目に入って来た。



心眼寺の境内に置いてあったパンフレット。
これによると、「まん直し 地蔵尊」の“まん”とは、関西地方の方言であると説明されている。
私の両親もこの言葉を日常使っていた記憶がある。最近はほとんど使わない。

関西弁で「まんがわるい」というのはどういった意味で使われることが... - Yahoo!知恵袋

「京都見廻組」は、その存在すら知らなかった。

京都見廻組 - Wikipedia



山門に掲げられていた「真田丸出城跡」の説明板。

大阪市顕彰史跡第204号

 真田丸出城跡
(天王寺区餌差町)

 慶長19(1614)年、大坂冬の陣に際し、豊臣方の真田信繁(幸村)が惣講の空堀南側に築いた曲輪で、三日月形をした形から偃月城(えんげつじょう)とも呼ばれた。冬の陣後の講和条件によって破却された。
    大阪市教育委員会



「大阪新四大願所 阿弥陀巡禮 第十一番 心眼寺」と記された寺標。


心眼寺の境内に置いてあったパンフレット。
先の心眼寺坂の説明と同じく、このお寺は真田幸村親子の冥福を祈って建立(再建立)された。



4月3日(日)19:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり14

境内に植えられていたサンシュユ。


善福寺はまた、歌舞伎「お弓 おつる」の舞台となったことでも知られている。


善福寺 (大阪市) - Wikipediaによると、平成19年(2007年)、どんどろ大師善福寺境内にある勝軍地蔵尊の建立100年と、2009年(平成21年)に、どんどろ大師善福寺中興當地開創百年を迎えることから、この2つの百年を記念して、平成21年(2009年)山門前に、歌舞伎「傾城阿波の鳴門 どんどろ大師門前の場」に登場する「お弓 おつる」母子像の銅像が建立された。

傾城阿波の鳴門 八段目「順礼歌の段」大阪の場面 by 鳴門座/Awa Ningyo Joruri



善福寺を後にする。
善福寺の山門を出たところ、電信柱に「心眼寺坂」の表示。

※⑤心眼寺坂(しんがんじざか)・・・坂途中の心眼寺に由来する坂名。心眼寺は真田幸村親子の冥福を祈って建立された寺。坂下にどんどろ大師で知られる善福寺があることから「どんどろ坂」と間違えやすい。標識が坂下・坂途中・坂上の3ヶ所に、歩道の防護柵に「心眼寺坂」のプレートが設置されている。



この坂も記憶に新しい。今年の1月31日、石仏の辻、「暗越奈良街道・玉造から額田駅」で歩いたばかり。


4月3日(日)19:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり13

石燈籠と手水舎。石燈籠は竿の部分に石仏が彫られている。


大坂城代土井氏の五輪塔。


弘法大師と見られる。青銅製。


勝軍地蔵尊と記されていた。こちらも青銅製。

善福寺 (大阪市) - Wikipediaによると、明治40年(1907年)5月21日に日露戦病死者記念仏として開眼された。

コトバンクによると、「勝軍地蔵」とは、地蔵菩薩の一。これに念ずれば、戦いに勝ち、宿業・飢饉(ききん)などを免れるといわれ、鎌倉時代以降に武家に信仰された。甲冑(かっちゅう)を身につけ、武器を持った姿で表す。



勝軍地蔵尊の香炉だろうか。


4月3日(日)19:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり12

やがて見覚えのある場所に出た。


「高野山 真言宗 善福寺」で「どんどろ大師」の石碑が目立つ。
ここは少し境内にお邪魔することにした。



境内に祀られていた石仏の一部。中央の石仏は面長で口を尖らせているように見える。


お不動さんだろう。


アカバナミツマタ。


4月2日(土)22:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり11

続いて大阪市立聾学校の校門が現れ、府営上町住宅前を通過すると、何やら看板が立っていた。
「八百屋マン・マーケット」となっている。清見オレンジ¥200が目に留まる。



実物の清見は数が多く格安に思えたが、これから歩くので今は買わずに通過。


やがて、どんどろ坂の表示がある。

※④どんどろ坂(どんどろざか)・・・空堀町のどんどろ大師(善福寺)への参道だった。どんどろは土井殿がなまったもの。大坂城代土井大炊頭利位(どい おおいのかみ としつら)の下屋敷に弘法大師が祀られていたことから土井殿大師が訛ってどんどろ大師となった。



「旧町名継承碑 空堀通一丁目」大阪市内にはこのような旧町名継承碑が設置されている。

(空堀の)町名は、豊臣時代の大坂城外濠の遺構で、大坂冬の陣のあとに東方によって埋められたため空堀となった窪地地帯であることに由来する。【一部抜粋】 



「浪花名物 粟おこし 島屋総本店」とあるが、今も営業しているのかどうか不明。


4月2日(土)22:06 | トラックバック(0) | コメント(10) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり10

大阪カテドラル聖マリア大聖堂を後にする。


入口に掲げられていた十字架に張り付けられたキリスト。


玉造2の交差点で右折(西)。道標によると左折(東)すると玉造稲荷神社。


「ほくちゃ坂」の表示。

※③ほくちゃ坂(ほくちゃざか)・・・昔、坂の近くに伊勢屋という火口(ほくち)商がいたことに由来する坂名。(「大阪市の旧街と坂道」より) 「ほくち(火口)」とは、火打石で火をおこすとき、最初に火を燃上がらせるために用いる燃えやすいもの。アサやモメンワタ・ガマノホなどを蒸し焼きにして作る。火花を落とすと簡単に火が移る。



上町交番を左(南)に見て西へ歩き、左折(南)。
広小路公園を右(西)に見て歩くとモモの花だろう。満開。



4月2日(土)22:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり9

ステンドグラスに見えたが、信者の姿をイメージしたものだろうか。
部屋の中から眺めるものなので、外からではわかりにくい。



大聖堂の中に入る。


神聖で厳粛な雰囲気が感じられた。
このような教会で「荘厳ミサ曲 / ミサ・ソレムニス」は合唱されるのだろう。



ステンドグラスの窓。
時間があればじっくりと見学したかったが、今日は“歩き”なので早々に立ち去る。



処刑される十字架を背負わされて、処刑場まで歩かされるキリスト。


4月1日(金)20:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり8

大阪カテドラル聖マリア大聖堂、正面入口。マリア像が掲げられている。
このようなキリスト教の教会の中に入るのは、何年振りだろうか。
当日の参加者の中には、私と同じように見学される人も何人かおられた。



大聖堂正面左に立つ高山右近の像。


そして右には細川ガラシャの像が建つ。


教会の中に入る前に、中庭(ピエタ前)に石造物が見えたので立ち寄る。
右の塔は細川ガラシャ記念碑で、細川家の家紋らしきものが彫られていた。
その左に宝珠が欠けた石燈籠。そしてその左にも小さな石造物が見えたので近くまで行ってみた。



どこかで見たことがあるが思い出せない。
イースター島のモアイ像に少し似ている。

★  ★

その後、これとよく似た石造物を、どこで見たのか思い出すのに時間がかかった。
何ヶ所かで見た気がする。
その中のひとつが、嵐山では知られている湯豆腐の店の前だった。

湯豆腐嵯峨野前

尚、この石造物は石人(せきじん)と呼ばれる。



4月1日(金)20:09 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり7

義の人 ユスト高山右近(1552-1615) 

大聖堂正面左に立つユスト高山右近の像は彫刻家・安部政義の作です。
高山右近は1552年、摂津の国高山で出世、父飛騨守は当時伝来間のないキリスト教に改宗、右近もともに受洗し、ユスト(義の人の意)の洗礼名を受けました。
 飛騨守父子は、高槻城主和田惟長を破り飛騨守が城主となり、その後、それを引き継いだ右近は織田信長や豊臣秀吉に仕えました。しかし、1587年突如、秀吉の伴天連追放令で大名の地位を失い、金沢の前田利家に客将として迎えられました。1614年に徳川家康の禁教令でマニラへ追放され、そこで病死しました。地位も名誉も祖国も失う中で、右近が歩み続けたのは、キリストに従う義の人の道でした。
         カトリック大阪大司教区



大阪カテドラル聖マリア大聖堂

 大阪聖マリア大聖堂は、カトリック大阪大司教区司教座聖堂です。司教座聖堂(カテドラル)とは、ローマ教皇が直接任命し教区を統合する司教が、公式行事の際に座る椅子(座)のある聖堂という意味です。
 1963年3月21日に献堂式が行われ、平和の元后である無原罪の聖マリアに奉献されました。そのときに撮られた航空写真では右奥に大阪城の天守閣が見えます。大聖堂に隣接して写っている高い鐘楼は、1995年の阪神淡路大震災のときに被災し、撤去されました。 
          カトリック大阪大司教区



教会の入口。クルマは通行出来ないが、歩いて中に入ることが出来た。
又とない機会なので、少し立ち寄ることにした。



大阪カテドラル聖マリア大聖堂

 大聖堂は、建築面積 2,480㎡、延床面積 3,700㎡。正面には日本画の泰斗(たいと)堂本印象画伯の筆になる。聖母子にユスト高山右近と細川ガラシャを配した大壁画を掲げ、東西の窓にはキリストの生涯の主要場面を写したステンドグラスがあります。設計は長谷部鋭吉氏。
 2階のグランドパイプオルガンはオランダのL.Verschueren社製で2,400本のパイプで美しい音色を奏でます。
          カトリック大阪大司教区



天主公教會の石碑と「ファチマの聖母と羊飼い」の説明板。

 ポルトガルのファチマ村にルチア(十歳)フランシスコ(九歳)ヤシンタ(七歳)と呼ばれる三人連れの羊飼いがいた。一九一七年五月から十月にかけて毎月十三日の正后に聖母マリアは彼らにご出現になり祈りと苦業をお勧めになった。ポルトガルの全国民は聖母マリアのこのメッセージに心をうたれて、宗教的生活の高揚に励み、世界中のカトリック信者もこれに和して神への道に精進している。
 ここに展示された場面は牧場のかなたの澄み切った青空を背にしてひいらぎの木の上に立たせ給うた聖母が羊飼いたちにメッセージをおおくりになるところを表している。
 なお、ここに配置された七つの像はイタリア、カラフ産の純白大理石を用いてアリギーニ氏が作成したものである。 
         大阪玉造聖マリア大聖堂



4月1日(金)20:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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