山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


慈眼寺_飯盛山_絵日傘コース_御机神社

2018年8月30日(木)はササユリの会に参加した。
山域は生駒山地。
タイトルは「野崎観音から飯盛山城へ」

<概要>
JR学研都市線野崎駅からスタート。
駅前を南北に流れる谷田(たにだ)川に架かる野崎橋を渡って、野崎参りの道を東へ歩く。
東高野街道を横断して“野崎観音”こと慈眼寺(じげんじ)へ。

境内から飯盛山ハイキング道を歩いて山頂を目指す。
谷田川のせせらぎを経て、分岐で竹林コースを左に見送り絵日傘コース(七曲りコース)を歩く。
辻の新池、尻池、南池を経て谷田川の源となる桜池に到着。

キャンピィだいとう(大東市立野外活動センター)分岐を右に見送り、FM電波塔を経て飯盛山頂へ。
直下の展望所で昼食。
下山は鎖が設置された急坂を下って御机(みつくえ)神社へ。

権現川に架かる橋を渡って、四條畷神社参道を歩き近鉄バス四條畷神社前バス停へゴールした。
私以外は四条畷駅へゴールした模様。

参加者、総勢9名。
Tu氏のお知り合いMo氏が初参加された。
また、久しぶりにKoさんが参加されたので、Kiさんと合わせ紅二点となった。

<コース>
JR学研都市線野崎駅10:15_野崎参りの道出合・道標(→野崎観音・飯盛ハイキング道入口700m・野崎まいり公園550m)_モニュメント(飯盛山麓 野崎参りの道)_R170野崎交差点を横断_東高野街道を横断・道標(↑野崎観音200m・←野崎まいり公園50m)_寺標(観世音菩薩・野崎観音慈眼禅寺)_福寿山魚捨(旅館)前_南條神社・野崎観音(慈眼寺)_西国三十三所観音堂_のざき観音会館(休憩所)_十六羅漢像_道標(飯盛山ハイキングコース→)_慈母観音像_石造九重層塔(永仁二年)_道標(吊り橋 97mを右に見送り 大東市立野外活動センター1801mへ直進)_展望所・東屋_休憩コーナー_休憩広場(標高100m)_展望休憩所(標高111m)_石柱(野崎城址)・説明板(野崎城)・案内板(飯盛ハイキング道 眺望サイン)・案内板(飯盛ハイキング道)_道標(観音峠 ←飯盛山)_道標(絵日傘コース→)_<絵日傘コース>_谷田川「せせらぎ」_分岐(←飯盛山)・寺標(妙成寺 教会)_道標(飯盛山→徒歩65分 七曲りコース)_水場・廃屋_妙成寺 教会(廃屋)_分岐(竹林コースを左に見送り 右折して七曲りコースを歩く)・道標(ここは七曲り口・竹林口 飯盛山へ↑七曲り道60分 ←竹林道55分)_道標(七曲り 急坂は約10分 標高140m)_休憩コーナー・石碑(御嶽教々祖神 他三基)_道標(←飯盛山)_石祠_道標(ここは辻の新池下 ←野崎観音30分 飯盛山36分)・道標(大東市野外活動センター→)_道標(辻ノ新池 標高215m)_道標(←大東市立野外活動センター192m →野崎観音1322m)_分岐・道標(ここは尻池の東屋から25m ←飯盛山13分 →キャンピィだいとうへ右折)_尻池・東屋_南池_案内板(大東市ため池マップ・浮島って何だろう?)_桜池_分岐(→キャンピィだいとう(大東市立野外活動センター)・トイレ)・休憩・分岐を左折_車道から左折して山道に取り付く_案内板(虎口(こぐち))_ベンチ・飯盛桜苑_気温計(32.5℃)_道標(ここは「FMラジオ放送所・送信所」 ←野崎観音45分 飯盛山5分)_NHK FMOSAKA FM802飯盛山送信所・電波塔_道標(ここは「飯盛山・FM側上り口」←飯盛山・四條畷神社)_フィックスロープ_河内飯盛山山頂314m・石柱(飯盛城址)・楠木正行(まさつら)像ほか二体像_案内板(飯盛城址案内マップ)_12:38展望所・昼食・気温計(31℃)・鳥瞰図(2F)13:32_センニンソウ_分岐(旧道を左に見送り右の新道へ)_分岐(楠公寺を右に見送り 四條畷神社・御机神社方面へ直進)_石垣跡_記念碑(登山参百回記念)_石垣跡_休憩所_駒札(郷土史カルタ・飯盛城 拠りて長慶 覇をきそう)_大東市二級基準点(点名:2-1)_急坂(鎖)_分岐(四條畷神社方面通行止めを左に見送り 御机神社方面へ右折)_御机(みつくえ)神社・水神社・トイレ・説明板(御机神社 由緒)_権現川に架かる橋を渡る_龍尾寺参道石段前_住吉平田神社鳥居前_茶屋宿 伊勢屋前・四條畷神社参道_ハイキングコース案内板・道標(←四条畷駅 1.0km)_R170四條畷神社前交差点を左折_15:10四條畷神社前バス停15:19_<近鉄バス>_15:42近鉄けいはんな線新石切駅15:52

登山道「絵日傘コース」の名前について
野崎小唄の一節「粋な日傘にゃ~蝶々もとまる~♪」をイメージしたものらしい。
野崎小唄 東海林太郎

<その他>
・参加者総勢9名。
・コース歩行距離約6km。
・実歩行距離約11km。(自宅~最寄り駅往復約2.7km等を含む)
・歩数1万6千歩。

画像はこの日歩いたJR学研都市線野崎駅から近鉄バス四條畷神社前バス停までのGPSログを表示。



大東市のマンホール。
日本マンホール蓋学会によると、
屋形舟で行く野崎観音(慈眼寺)への参詣は、江戸時代の庶民にとってかっこうの娯楽でした。
本デザインはその一場面を切り取ったもので、舟で行く人と道を歩く人が言い合っている様子です。
これは落語「野崎詣り」にも登場する「ふり売り喧嘩」で、当時はこの言い合いに勝つと縁起が良いとされていました。
現代の「野崎まいり」は毎年5月1日から8日まで行われ、期間中は参道に露店が並び、場内でイベントが開かれるなど大変な賑わいを見せます。
ちなみに野崎観音は、昭和初期に東海林太郎さんが歌って大ヒットした「野崎小唄」や「お染久松」の舞台となっているお寺です。(大東市上下水道局)



西国三十三所観音像。
野崎観音(慈眼寺)境内にて。



野崎城跡案内マップと野崎城についての説明板。

野崎城
野崎城は、飯盛山南西の尾根、標高約111mの地点に築かれていた中世の山城で、城域は南北約200m、東西約180mと推定されています。当時の山城は、尾根上に防御のための「堀切(空濠)ほりきり(からぼり)」と「郭(くるわ)」と呼ぶ平坦地を設け、そこに簡易な建物を建てるのが通例で、野崎城も南東側に堀切を持つ本郭(ほんぐるわ:現在地)と、その西側の尾根斜面に三段に設けられた四つの郭から構成されています。
当時は深野池が山麓まで迫り、飯盛山からの尾根が最も突き出している当地は、眼下の東高野街道の交通を掌握することができる、地勢的に要衝の地でした。
「太平記」によると、四條畷合戦(1348)において、北朝軍の懸下野守(あがたしもつけのかみ)がこの地に陣を置き、南朝軍の楠木正行(くすのきまさつら)と対峙した記述があり、この頃から、戦略上重要な地点であったことが推定されます。
応仁の乱(1467)以降の戦国期には、この地域でも頻繁に合戦が行われていたことが、当時の日記である「尋尊大僧正記(じんそんだいそうじょうき)」や「後法興院記(ごほうこういんき)」などに記され、その中に「野崎城」の文字を見ることができることから、この城が15世紀中頃には築かれていたことが推定されます。
このように、軍事上重要な役割を担った野崎城は、北東の山上に飯盛城が築かれた16世紀中頃以降は、その出城(でじろ)としての機能も有していたと考えられています。
平成23年11月 大東市教育委員会

野崎城址にて。



ヤブミョウガの花。
谷田川「せせらぎ」にて。



9月1日(土)18:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

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