上町台地から天王寺七坂めぐり6 |
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| 越中公園にて。ソメイヨシノと見られるサクラが開花していた。
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| 中央区玉造2丁目付近を南へ歩く。左手に立派な建物が現れた。キリスト教の教会。
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| カテドラル聖マリア大聖堂カトリック玉造教会の敷地に立つ細川ガラシャの説明板。この他高山右近やいくつかの説明板が掲示されていた。
魂をかけた決断 細川ガラシャ(1563-1600)
1600年細川忠興が徳川家康の東北上杉氏討伐征伐に従った間に、石田三成は忠興を味方につけるために妻ガラシャを人質として大坂城に連れて行こうとしましたが、ガラシャは応じませんでした。忠興は、常々自分の留守中に妻の外出を禁じていました。三成側が大坂方の誘いを拒否したガラシャの屋敷に火を放つ中、キリシタンの教えでは自害が禁じられていたガラシャは家臣に胸を突かせ、37歳でこの世を去りました。 大聖堂北西の一隅は旧越中町に属し、ガラシャが壮烈な最期を遂げたゆかりの地です。そこに「越中井」が残っており、そばにガラシャ辞世の句碑が立っています。
ちりぬべき時しりてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ カトリック大阪大司教区
先の説明板と若干違うところがあるが大筋は同じ。
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| 細川ガラシャ(1563-1600)
大聖堂正面右に立つ細川ガラシャの像は彫刻家・安部政義氏の作です。ガラシャは1563年、越前国で明智光秀の三女として生まれ、玉子の名をうけました。1578年に織田信長の媒酌で細川藤高の長男、忠興と16歳で結婚しました。しかし、1582年に父明智光秀による本能寺の変により、細川家は、秀光の娘である玉子を離縁し丹後国土野に幽閉、謹慎の意を表しました。 1587年の豊臣秀吉による伴天連(ばてれん)追放令の直後、忠興から外出を禁じられていた玉子は自宅で侍女清原マリアから洗礼を受けてキリスト教徒になり、信仰に生きる人となりました。 ガラシャ(恩恵の意)は、その洗礼名です。 カトリック大阪大司教区
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| こちらは「慈しみの人 ユスト高山右近(1552-1615)」の説明板。
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3月31日(木)20:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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