山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


黒岩谷西尾根_蛇谷北山【補足】

ナマズ石
ナマズ石は阪神大震災で、荒地山の山頂付近(ナマズすべり)にあったものが、この場所まで転がり落ちたものとされる。地震で移動し た石では最大のものと説明されている。この、ナマズ石の名前の由来は・・地震を引き起こしたナマズが動かした石・・・からきている そーだ。また、石の表面の文字のようなものは弥生時代に書かれた中国古代文字(ロンサン文字)とされる。稲作の文化を大陸より伝え た古代人により書かれたものといわれる。この石には、壮大な歴史浪漫を感じる。

土樋割(どびわり)峠
土樋割は、山の水が集まり住吉川の大きな流れとなるところです。徳川の時代に住吉川の水を土の樋をつくり芦屋方面に流れるようにし たところ、住吉川の水が枯れてしまい、もともと住吉川の水で、酒造りをしていた灘の酒蔵さんたちが、この土の樋を割って以来ここを 土樋割峠というようになったそうです。

魚屋道(ととやみち)
魚屋道は江戸初期から灘地方と有馬を結ぶ東六甲最古の山越え交通路で、同時の絵地図では、森から山に上り、蛙岩、山の神、風吹岩、 東お多福山、本庄橋、一軒茶屋、射場山山腹、有馬のルートを通り、「六甲越え」と呼ばれていた。幕府が、灘から有馬への正規の街道 を西宮、宝塚、船坂、有馬の線に定めた後も、遠まわりを嫌った人々はこの道を利用した。そこで、街道沿いの西宮や生瀬などの宿場の 商人は、これを「抜け荷の道」と称して、通行禁止を大阪奉行所へ訴え、しばしば紛争が生じた。文化3年(1806)に、灘本庄と有馬の人 々がひそかに道の大修理をしている。深江浜の魚は大正時代まで、ここから有馬に運ばれていた。

岡本梅林
岡本梅林」は、1796年頃「摂津名所図会」に紹介さるほど、昔から有名な梅の名所でした。大正末期まで西摂津の梅の名所として、 「梅は岡本、桜は吉野、蜜柑紀の国(みかんきのくに)、栗丹波(くりたんば)」と謳われていました。 昭和13年の阪神大水害で大半を喪失し、昭和20年の神戸大空襲で焼失、その後の宅地化でほとんどの梅を失ってしまいました。 宮崎元神戸市長が、昭和46年に渦が森三角公園、昭和50年に保久良梅林、昭和57年に岡本梅林公園を開園、その後、梅まつり実 行委員会が阪神淡路大震災の復活を願って「梅まつり」を開催、梅一つ火会が東灘区の区の花「 梅」の普及活動を推進、岡本商店街が 「岡本の梅ブランディング事業」を、そして、区役所のリードで「梅いっぱいプロジェクト」を推進して現在に至っています。



3月21日(火)17:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

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