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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


長尾街道3(関屋_大坂山口神社_当麻寺)41

當麻寺

當麻の名を知らせる名刹で、二上山のこんもりとした樹影を背景に静かなたたずまいを見せています。
用明天皇の皇子麻呂子王が推古天皇二十年(612)に河内に建てた万宝蔵院に始まりその後天武天皇白鳳十一年(681)に麻呂子王の孫當麻国見が現在地に移してこの地方の豪族當麻氏の氏寺として整備したと伝えられています。
金堂、講堂が南北に一直線に並び金堂の南方両側に東西二つの三重塔が建ちさらに本堂、薬師堂、仁王門などが独特の伽藍配置で建ちならんでいます。
とくに古代に建立された東西両塔が完備している姿は全国でも當麻寺だけとして有名です。
宗旨としては初め三論宗を奉じていましたが弘法大師が参籠してから真言宗にかわり鎌倉時代には浄土宗の霊場ともなり以後現在まで真言浄土の二宗を併立し八ケ寺の塔頭(寺院)よりなる珍しいかたちになっています。
また金堂にある弥勒仏座像や日本最古の梵鐘をはじめ数多くの貴重な寺宝を今に伝えており国宝・重要文化財に指定されているものも少なくありません。
ボタンの名所としても有名で四月下旬より境内にはボタンの花が咲き誇り落ちついた雰囲気に色をそえています。
五月十四日には、中将姫ゆかりの”練り供養”が行われ全国から集まった参詣者たちで境内は大変なにぎわいとなります。
平成元年3月吉日 葛城市観光協会



中将姫

中将姫は、奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。しかし、継母から嫌われ、ひばり山に捨てられてしまいました。
その後、父と再会し一度は都に戻りましたが、姫の願いにより當麻寺へ入り、称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)の一千巻の写経を達成し、十七歳で中将法如(ちゅうじょうほうにょ)として仏門に入り曼荼羅(諸仏の悟りの境地を描いた絵図)を織ることを決意し、百駄(ひゃくだ)の蓮茎(ねんけい)を集めて蓮糸を繰(く)り、これを井戸にひたすと糸は五色に染まりました。
そしてその蓮糸を、一夜にして一丈五尺(約四メートル四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げました。
姫が二十九歳の春、雲間から一丈の光明とともに、阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、姫は、西方極楽浄土へ向かわれたと伝えられています。
「練供養」は、その伝統を再現したもので、毎年五月十四日に當麻寺において行われています。



仁王門の金剛力士像。阿形。(あぎょう)


吽形。(うんぎょう)


仁王門下の石段を降りる。


12月1日(土)18:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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