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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


薬師禅寺_天皇の杜古墳_福成寺_洛西竹林公園47

由緒ありげな石橋が見える。
駒札が立っている。



一見すると新しい橋のように見えたが。


百々橋(どどばし)の由来

宝鏡寺門前の東西の通りを百々(どど)の辻と呼ぶのは平安時代からであるが、小川にかかるこの小橋が、いちやく有名となったのは、戦国時代この橋をはさんで合戦が行われてからである。
応仁元年(一四六七年)五月、応仁の乱最初の大合戦にさいし、この橋には、細川勝元配下の三宅、吹田、茨木、芥川氏など攝津の武将が布陣し、山名方の平賀氏と激しく戦った。
ここから、南の方一条戻り橋付近までが、その時の主戦場となり、付近一帯が戦火で焼失した。
それから四十年後、細川勝元の子、政元の跡嗣をめぐって、養子の澄元と澄之が対立、永正四年(一五〇七)六月二十三日澄之が、香西元長(嵐山城主)、薬師寺長忠らと謀って養父政元を殺し翌二十四日澄元を攻めて、この橋で激しく戦った。
澄元は近江へ敗走したが、八月一日には京都へ還り、澄之、元長、長忠を攻め亡した。
この小さな橋には、かくて戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれている。
なお、明治四十年(一九〇七)に改築したもので小川が昭和三十八年(一九六三)に埋められ、石橋の貴重な遺構として現地に礎石を遺しここに移築したものである。
  京都市

京都市洛西竹林公園 のサイトによると、竹の資料館から生態園の遊歩道に出てまもなく、池の上に「百々橋」(どどばし)が架けられています。
この橋は、かつて京都市百々町と宝鏡院東町との境の寺之内通に架けられていたもので、応仁の乱(1467-1477)のとき、 細川家(東軍)と山名家(西軍)が11年にわたって戦ったその発端となった橋です。
もともと板橋でしたが、後に石橋に改築されたもので、昭和38年に解体され、室町小学校に保管されていたものをこの洛西竹林公園へ移築されたもので、京都でなくては見られない遺跡の一つです。



ミヤコザサ。

低山でよく見かけるササ。



案内板「石仏→」の方向へ進む。


1月10日(木)18:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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