No.21木津川源流4(笠置から月ヶ瀬口へ) |
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| 神社の境内へは前方に見える急な石段を登る。
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| 自然石の石碑。 「千年祭記念 天満宮 村内安全」と刻まれていた。
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| 常夜灯が一列に並んでいる。 元は別の場所に設けられたものが、何らかの事情でこの場所に集約されたのでは。
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| 古びた石碑が立っている。 とても読めたものではない。
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| すると、幸いにもその下に説明板があった。
「戀志谷神社口碑傳説 大字南大河原」 この碑にはこのように文字が彫られている。 「當社内二奉鎮座戀志谷姫神ハ人皇九六代後醍醐天皇ノ寵妃ニ座々セシト伝フ 天皇元弘元年笠置山ニ拠テ北条高時ヲ討チ給フ官軍利アラズ翌貳年参月隠岐ニ移リ給エリ時ニ姫神病アリテ伊勢海邊ニ御療養セラレ御平癒アリテ笠置行在所ニ御皈途當區今ノ古森迄テ御着キ給ヒシニ帝既ニ御出行ノ後ナリシ由ヲ聞シ給ヒ悲憤無極遂ニ御持病再發御自刃御崩御セラレシトカヤ 姫神御辞世ニ陛下ノ御身上ヲ愛慕セラレ亦身ノ病苦ヲ歎カセ給ヒ後世ノ人々ノ病苦厄難ヲ恵受セシムト宣工シト口碑ニ遺レリ以信者一同告ケ之ヲ千古ニ傳フ」
現代語訳すると、このようになる。 「当社に祀られている恋志谷姫神は、後醍醐天皇の側女であったといわれています。 後醍醐天皇は元弘元年(1331年)に笠置山で北条高時を討ち破りましたが、天皇の軍勢は旗色も悪く敗れてしまい、翌元弘2年3月に隠岐へ配流されました。 一方その時、姫は病気を治すため伊勢の海辺にいました。そして病気が治った後に後醍醐天皇がいた笠置へと向う途中で、ここ南大河原の古森に着きました。 姫は後醍醐天皇が既に笠置山を去った後であることを聞き、あまりの悲しみのため持病が再発し、自らの命を絶ったのでした。 姫が遺した辞世の句は後醍醐天皇を愛慕していること、また自分の病気を歎きながら後の世の人の病気や苦難をわが身に受けますとあったと言い伝えられています。そのためその言葉を人々に伝え、これを永遠に伝えます。」
南山城村教育委員会
つづく。
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11月29日(月)06:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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