山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺31

蘇我入鹿の首塚を角度を変えて撮影。

【参考:乙巳の変】
Search Labs | AI による概要
乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代の645年に発生した政権転覆(クーデタ)の事件です。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我氏を滅ぼしました。
発生の経緯
聖徳太子の死後、蘇我氏は権勢を強め、蘇我蝦夷と蘇我入鹿が強い権力を握りました。
蘇我氏による専横に不満を抱いた中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を暗殺しました。
蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷は自害に追い込まれました。
結果
中大兄皇子が実権を握り、天皇中心の国づくりの基礎がつくられました。
中大兄皇子は、中臣鎌足とともに政治改革「大化の改新」を実施しました。
「大化の改新」により、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わりました。
乙巳の変の古戦場は、奈良県高市郡明日香村の飛鳥宮跡です。



飛鳥寺西門跡
飛鳥寺は西暦588年につくり始められた日本最初のお寺。
塔を中心にその北と東西に三つの金堂がたっていた。
北の中金堂にあった鞍作鳥作といわれる飛鳥大仏は、いまもその位置を動いていない。
西門は礎石をおいて柱を建てた瓦葺きの門。
開口3間11.5m、奥行2間5.5mの規模だった。
門の西には塀があり、土管をつないだ上水道が埋まっていた。
寺の四方に開いた門のなかでは、この西門が最も大きい。
寺の西に、飛鳥寺の檜舞台、「槻(ケヤキの古名)の木の広場」があったからだ。
中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出合い、645年に大化改新をなしとげた。
この時、二人は飛鳥寺に陣をかまえ、西門から甘樫丘の蘇我入鹿・蝦夷の舘をにらんでいた。
672年の壬申乱の時には広場を軍隊がうめつくした。
その後は、外国使節や遠方の使者を歓迎する宴会の場となり、噴水がおかれ、歌や踊りが満ちあふれた。
西門はそんな飛鳥の歴史をみまもってきたのだった。



西門跡付近から飛鳥寺を眺める。


飛鳥寺略縁起
崇峻天皇元年(五八八)曽我馬子が創立した日本最初の本格的寺院であり、寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。
本尊飛鳥大仏(釈迦如来)は推古天皇十三年(六○五)天皇が詔して鞍作鳥仏師に造らせた日本最古の仏像である。
旧伽藍は仁和三年(八八七)と建久七年(一一九六)に焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永九年(一六三二)と文政九年(一八二六)に再建され今日に至っている。
現在は真言宗豊山派に属し、新西国第九番、聖徳太子第十一番の霊場でもある。



平成二十年(西暦二〇〇八年)
飛鳥大仏開眼一四〇〇年

推古天皇一三年(六〇五)日本最古の金銅丈六釈迦如来像の造立が発願され、同天皇一七年(六〇九)に開眼供養されてから一四〇〇年目にあたります。
中世の火災によって損傷されているものの、今以って元の位置に瑞座し給う日本の歴史的尊像であります。

つづく。



Feb.4(Tue)06:53 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

Write a comment
Title
Content
Author
URL
eMail
Attach Image
Option
Auto smile sign convert
Preview

Certification Code    
Input same text please.
You can reload if this is difficult to read.
         
There is no comment.


(1/1page)