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京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)19

鐘楼の天井画。天女のように見える。


方広寺・本堂。この日は拝観せず。


東方向へ歩き、方広寺大仏殿跡へ向かう。

方広寺大仏殿跡

 天正13年(1585)年、関白に就任した豊臣秀吉は翌14年、奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍でその工事を始めます。ほどなくこの工事は中止されますが、六波羅のこの地に寺地を変更して再開、文禄4年(1595年)に大仏殿がほぼ完成すると、高さ18mの木製金漆塗の大仏坐像が安置されました。ところが、翌年の大地震で大仏が大破し、慶長3年(1598年)には秀吉もこの世を去ってしまいます。その後、子である秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、慶長17年(1612年)に大仏を事実上完成させました。しかしその後鋳造された梵鐘の銘文<国家安康 君臣豊楽>が、徳川家を呪詛するものであるとして徳川家康が異議を唱えたために、大坂の陣が起こり、豊臣家が滅亡してしまったことは歴史上大変有名です。その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10年(1798年)の落雷で炎上するまで、「京の大仏つぁん」として都の人々に親しまれました。
 巨大な石塁(国史跡)で囲まれた伽藍は西向きに作られ、規模は南北約260m、東西約210mと推定されます。大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が開いていました。仁王門跡から西へのびる道が正面通と呼ばれることも方広寺に由来しています。なお、 「方広寺」の名称は、東大寺の重要な法会(ほうえ)である方広会(ほごえ)にちなむといわれています。



付近は大仏殿跡緑地となっている。


2000年に遺構の状態を確認するための部分的な発掘調査が実施され、発見された遺構は地下に埋め戻して保管し、その上に小舗石を置いて地表に明示している。


2月23日(火)20:53 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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