山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 
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ウォーキング・散策

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺25

こちらにも小堂があった。
昔ながらの佇まいだが、屋根瓦は新しく葺き替えられているようだ。



【AI による概要】
この画像は、蓮華座の上に結跏趺坐し、左手に宝珠を持ち、右手を開いて見せる印相を結んだ、前掛け(よだれかけ)を纏う木造の地蔵菩薩坐像を示しています。

・地蔵菩薩の特徴:
剃髪(僧形)で穏やかな表情をし、大地の恵みや苦悩する人々の救済を象徴する宝珠を左手に載せています。
・信仰と風習:庶民の信仰や地域のお堂で大切に守られてきたお地蔵様で、着飾られた前掛けや、蓮の花をかたった台座(蓮華座)が見られます。



中将姫の墓塔

中将姫の墓塔が、ここより少し奥の墓地の南にあります。
石造十三重塔花崗岩製、高さ約三メートル。
初重の四方仏は、軸部に縁をとった中に舟形を作って、そこに厚肉に彫り出し、屋根は軒反り強く、鎌倉時代末期の様式で、中将姫の墓塔と伝えられています。
中将姫は奈良時代の右大臣藤原豊成の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。
しかし、継母から嫌われ、山に捨てられてしまいましたが、父と再会しー度は都に戻りましたが、姫の願いにより當麻寺へ入り曼荼羅(諸仏の悟りの境地を描いた絵図)を織ることを決意し、百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸にひたすと五色に染まりました。
その蓮糸を一夜で一丈五尺(約四メートル四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げました。
姫が二十九歳の春、雲間から一条の光明とともに阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、姫は西方極楽浄土へ向かわれたと伝えられています。
「練供養」は、その伝承を再現したもので、毎年五月十四日に當麻寺において行われています。



中将姫の墓塔が建つ當麻北墓へ入ると、まずこの五輪塔が目に留まった。
大きくて存在感がある。
かなり古い時代の五輪塔のように見えた。
そして、遠目からでもよく見える力強く刻まれた梵字。



この五輪塔は墓地の一番高い場所に位置していた。

【AI による概要】
奈良県葛城市の當麻寺の北側に広がる「當麻北墓(たいまきたばか)」は、中世の惣墓(共同墓地)の面影を色濃く残す貴重な史跡です。

特徴: 平安時代後期に造られたもので、日本最古級の石造五輪塔として知られています。この地域の共同墓地(惣墓)に眠る人々や無縁仏の全体を供養する「惣供養塔」として建てられました。

つづく。



8月10日(月)06:10 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺24

「爲 俗名・・・・ 位」。
おそらくこの道標を寄進した人たちの名前が刻まれているのだろう。



「←當麻寺 400m」。


引き続き南方面へ向かう。


モダンな小堂があった。
常夜燈も斜めに立っていてあまり見ないタイプ。



厨子(ずし)に納められた、持物(じもつ)を手にする観音菩薩立像。

つづく。



8月10日(月)06:06 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺23

「北之門」と刻まれている。
残念ながら意味不明。



庚申塚。


暫く道なりに南へ歩くと、前方でTu氏が石柱の前でしゃがんでいた。
コースはこの交差点を右折(赤矢印)するが、立ち寄ってみる。



石柱は小さな道標で「右 たゑま」と刻まれていた。


右側面は、「左 多川多(たつた)、ほ不(ふ)里(り)うじ 道」。

つづく。



8月10日(月)06:02 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺22

入山料は400円とリーズナブル。
【参考】
石光寺



石光寺を後にして當麻寺へ向かう。
前方の辻に道標と石造物が見えた。



當麻寺は直進。(画像では左へ)


道標の横に石造りの道標。
「右 たるまじ / 多川多(たつた) / ほ不(ふ)りうじ / 道」。
“たるまじ”は達磨寺、“多川多”は龍田、“ほ不りうじ”は法隆寺をそれぞれ指している。



「左 たゑま / みち」。
“たゑま”は当麻(當麻)のこと。

つづく。



8月10日(月)05:59 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺21

盃状穴(はいじょうけつ)があった。
【参考】
盃状穴



「←石光寺」へ。


山門前に到着。
「日本最古 白鳳弥勒石仏の寺 浄土宗 慈雲山 石光寺」と刻まれた寺標号。
「ぼたん祭り」の幟旗が立っていた。



希望者は拝観した。
「想観の沙(そうかんのすな)」と呼ばれる盛り砂。(赤線枠)

【AI による概要】
手前の方形と奥の円形の2つの形で作られており、それぞれ浄土宗の仏教思想に基づいた深い意味が込められています。

2つの形の意味
・手前の方形(四角形):
私たちの姿・現実世界を表しています。相対的で、優劣の比較や執着にまみれ、崩れやすく角が欠けやすい人間の不完全な世界(此岸)を象徴しています。
・奥の円形(円錐台):
仏や覚り(さとり)の世界を表しています。角のない絶対的で壊れない、柔軟な智慧に満ちた理想の世界(彼岸)を象徴しています。

なぜ「砂」ではなく「沙」なのか

お釈迦様が沐浴されたガンジス河の沙(すな)に例えられているためです。阿弥陀経にある「ガンジス河の砂の数ほど多くの仏たちが人々を護る」という教えに由来しています。執着の世界から覚りの世界へと至る道を、静かに見つめ直すための祈りの空間となっています。



ぼたんは丁度見頃だった。

つづく。



8月9日(日)05:56 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺20

右は「明治二十七・・」だろうか。
比較的、年代は新しい。
野外にそのまま置かれていたので、風化のスピードが速いようだ。
覆屋で覆われていると、これ程、酷くはならないのでは。



北良池は養魚池との説明書きがあった。


前方の辻に、瓦葺の小堂が見える。(赤四角)


コースはこの辻を左折して石光寺へと向かうが、小堂に立ち寄ってみる。


この石仏様も、ベール?に囲われていて、全体像が分からないが地蔵菩薩だろう。

つづく。



8月9日(日)05:52 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺19

東屋で食事をしていると、軒下に複数のツバメが巣作りをしていた。
中には、巣から出て、飛び立とうとするツバメもいて、暫く様子見していた。(画像)



昼食を済ませ、再び歩き出す。
この葛城市観光マップは上が西を表示している。
少々見にくいが、現在地(二上山ふるさと公園)を赤矢印で、この後に訪問する石光寺、當麻寺、相撲館(けはや座)を赤線で表示した。



道の駅から南方向へ歩くと、右手に北良池があって三叉路に石造物が立っている。(赤四角印)


随分と風化しているが、地蔵菩薩だろう。


ライトアップにより左に「山本・・」らしき文字が刻まれていた。

つづく。



8月9日(日)05:48 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺18

R165大和高田バイパスを横断して右折。
更に左折。(西)



「道の駅 ふたかみパーク當麻」の駐車場を通り抜ける。


「二上山ふるさと公園」に入る。


キク科のノースポールだろう。


こちらの花壇には、パンジー、ビオラの類が植えられている。
ここで昼食となる。

つづく。



8月9日(日)05:45 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺17

この力士像は、決闘したどちらか一人の力士ではなく、相撲発祥の伝承を象徴する一般的な力士(相撲取り)のイメージとして建てられているようだ。


二上山をバックに、“決闘の地”を再現した土俵。
その中間に、景観にも環境にも悪影響を与えていると思われるソーラーパネル。(赤四角印)
(RIRILA JAPAN 第4太陽光発電所)



西に向かって歩くが、道路は高架となっている。
高架を上り下りせずに、近鉄南大阪線を横断する踏切はないかと辺りを見渡す。
すると、画像の小道とその先に踏切が見えたので歩いてみる。(赤矢印)



近鉄南大阪線の踏切を横断。


高架道路が随分と離れて見えた。
次の目当てである「道の駅當麻」はあの高架道路の正面に位置している。
なので、この後、道路まで戻らねばならない。
これだったら、素直に高架道路に付帯する歩道橋を上り下りした方が良かった-笑。

つづく。



8月9日(日)05:42 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺16

神社の境内だが、神仏習合の名残として一夢堂に安置された石造の「地蔵菩薩立像」。

【参考】

杵築神社(香芝市良福寺777)奈良の爺々



杵築神社を後にする。
南西方向に道なりに歩き、良福寺の交差点に出て右折。(西)



二上山をほぼ正面に眺めながら歩く。


右手に「相撲発祥 伝承之地 腰折田」と刻まれた新しい石碑が建っている。


腰折田伝承地 (こしおれだでんしょうち)
香芝市磯壁・良福寺付近
『日本書紀』垂仁天皇七年七月七日の条に、「當麻郷には當麻蹶速という勇敢剛力がいて、天下に敵なしと豪語していた。
天皇が群臣に力くらべ(角力/すまひ)をするものを求められた。
そこで、出雲の野見宿禰が召され、両人に力くらべをおさせになった。
たちどころに蹶速は腰の骨を折られて死んだ。
これにより、蹶速の領地が没収され宿禰に賜った。」とあります。
江戸時代に編纂された地誌『大和』には、「腰折田は良福寺にあり」 とみえ、両人の決闘の地として今に伝えられています。
この伝承は、奈良時代に宮中で始まる相撲節会(七月七日)の起源とされています。
なお、葛城市當麻には、伝當麻蹶速塚とされる五輪塔が祀られています。
また、野見宿禰については、同三二年七月条に、殉死の悪習にかえ陵墓に埴輪を立てることを進言し、日葉酢媛命墓に埴輪を立てたことから土師職に任じられ、天皇の喪葬を司ったとする伝承があります。
なお、出雲は現在の桜井市出雲が候補地の一つで、同地には、十二柱神社が鎮座し、野見宿禰墓とされる塚に建てられていた五輪塔が移転祭祀されています。
また、同市穴師座兵主神社の摂社で宿禰を祀る相撲神社の境内には、宿禰と蹶速が相撲をとった「カタヤケシ」と呼ばれる場所があり、この地における宿禰伝承や相撲との深い関わりが注目されます。
  平成二十七年三月 香芝市 絵・京田信太良

つづく。



8月8日(土)05:52 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺15

阿形。
右後にも狛犬が見えるが稲荷神社が合祀されていた。(赤丸印)



拝殿に奉納された絵馬が置かれている。
令和七年の銘もあり、近年でも盛んに奉納されているようだ。



頭上にもびっしりと飾られていた。


社号標。


一夢堂。(いちむどう)

つづく。



8月8日(土)05:47 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺14

阿日寺を後にして、引き続き南へ向かう。
進行方向右前方(西)に、二上山が望めた。



【AI による概要】
このバラの品種は「スパニッシュ・ビューティー」に似ており、淡いピンク色で優しい雰囲気を持っています。
【参考】
スパニッシュ・ビューティー



【AI による概要】
この画像に写っているのは、深みのある赤い葉と垂れ下がる枝が特徴的なイロハモミジ(レッドドラゴンや紅枝垂れなどの園芸品種)です。
【参考】
レッドドラゴン モミジ



程なく、杵築神社に到着。(香芝市良福寺)
尚、先程、訪れた同名の杵築神社の所在地は香芝市狐井。

杵築神社(きづきじんじゃ)について
主に奈良県内(大和国)に数多く鎮座する神社。
もともと「牛頭天王(ごずてんのう)」を祀っていた神社が、明治の神仏分離の際に出雲大社の古名である「杵築大社」から名前を取って改称したケースが多いため、県内のあちこちに同じ名前の神社が存在する。

【AI による概要】
香芝市良福寺の杵築神社(きづきじんじゃ)は、二上山(にじょうざん)の東側麓に広がる古い集落内にひっそりと鎮座する、地域に深く根ざした神社です。

近年、境内の観音堂から貴重な江戸時代の太鼓が発見されたことで、歴史ファンや地域の方々の間で大きな話題となりました。

・御祭神:
素盞嗚命(すさのおのみこと)、宇迦能魂命(うかのみたまのみこと)
・由緒:
創建の正確な年代や由緒に関する詳細な資料は残されておらず不明ですが、古い歴史を持つ良福寺集落の一段高い場所に祀られています。周辺は「二上山が最も美しく見える地」として、かつて多くの寺院が建てられた歴史ある土地です。
・話題の「江戸時代の大太鼓」:
境内の観音堂から、約220年前(江戸時代後期)に作られたケヤキのくりぬき大太鼓(口径約73cm)が発見されました。
良福寺地区は相撲の起源説話(野見宿禰と当麻蹴速の戦い)にゆかりがあり、かつて神社の境内にも土俵があって相撲が行われていたため、その際に打ち鳴らされた太鼓と考えられています。



本殿前の狛犬。(これとは別に拝殿前にも一対の狛犬)
小振りだが、きりっと引き締まった表情。
目が大きい。

つづく。



8月8日(土)05:43 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺13

阿日寺、本堂。
この日は本堂の中には入らず。
【参考】
恵心僧都誕生院 阿日寺



燈籠だろう。


祝聖文(意訳〉

仏さまの教えが広まった社会は
平和になって 太陽も月も清く輝き」
風や雨も適切な時に程よく降り
災害や疫病は起こらず」
国は豊かで 民は安らかであり
兵器を用いることなく」
人々は互いに徳をあがめて 仁を尊び
礼儀や謙譲の道を守る。」
(仏説無量寿経より)



ボタンの花が見頃となっていた。(牡丹)


「百花の王」とも呼ばれ、大輪で美しい花を咲かせる。

つづく。



8月8日(土)05:34 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺12

この建物は阿日寺の旧参道側の東門(通用門)。
先程、通って来た新しい山門(階段と手すりがある大きな門)とは別に、住宅地に面した古い旧道・参道側に位置している。



観音堂に安置されている石像如意輪観音菩薩坐像。


境内の様子。
手入れが行き届いている。
この日も庭師の方が、庭木の手入れをされていた。



イロハモミジ。
【AI による概要】
この植物はカツラ(桂)と呼ばれる品種のイロハモミジ(Acer palmatum 'Katsura')である可能性が高いです。
黄緑色の葉と、その間に見える赤い小さな物体は、モミジの種である「翼果(よくか)」です。



イロハモミジ(品種:桂)の葉をズーム撮影。

つづく。



8月8日(土)05:29 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

下田駅_鹿島神社_杵築神社_阿日寺_当麻寺11

「恵心僧都誕生霊地」と刻まれている。
(えしんそうずたんじょうれいち)



参道の石段を登る。


真新しい山門と板塀。
最近、再建されたようだ。



恵心僧都(えしんそうず)誕生院 阿日寺(あにちじ) 由緒

今から約千年前に恵心僧都(九四二年~一〇一七年)がお生まれになったお寺で、誕生院 阿日寺(あにちじ)と申します。
恵心僧都(えしんそうず)は、源信和尚(げんしんかしょう)とも呼ばれ、七高僧のお一人で、念仏の始祖と仰がれています。
僧都は、天慶五年(九四二年) 九月十五日のお生まれで、父は占部正親卿、母は清原氏、幼名を千菊丸といいました。
九歳の時、比叡山延暦寺に登り出家得度、良源大僧正に師事して名を源信と改め、十五歳の時、村上天皇のお召しにより、宮中で法華経の御前講義をなされた程です。
僧都は多くの書物を著わされ、その中でも一番著名なのが「往生要集」です。
その要旨は、「阿弥陀仏の大願業力によって極楽に生まれるためには、念仏の功徳にあずかる事が一番大切である。」ということで、この思想は鎌倉時代に入ると、法然上人によって浄土宗が開かれ、親鸞聖人によって真宗が生まれる基盤ともなりました。
また恵心僧都は仏画・仏像彫刻もすぐれ、多くの文化財を残しておられます。
寬和元年(九八五年)九月十七日、ご生母の臨終にあたり、僧都は手づから母に浄衣(けがれがない清らかな着物)を着せ、除魔の法を修し、母と共に念仏されて、翌十八日未明、慈母は無苦正念に七十二歳をもって「安楽往生」なされました。
僧都は母の忌中に阿弥陀仏を刻み、母の身代わり仏として朝夕お仕えになりました。
この霊仏は無病息災に長寿を守護し、一切の苦厄を払いのけ、下の世話をかけずに安楽往生が出来る功徳があって、その霊験はすこぶるあらたかで、阿日寺の御本尊として代々受け継がれて来ました。
この修法が今日に伝えられ、毎年七月十日の恵心忌大法要には、参詣の人々のために「健康・長寿・安楽往生」のご祈願が古くから執り行われてきました。
阿日寺は、恵心僧都が母のために刻まれた阿弥陀仏と、父のために刻まれた大日如来の二文字をお借りして阿日寺と申します。
かつて忌中の丘とも忌中堂とも称され、戦国時代は岡周防守の菩提寺でもありました。 合掌



阿日寺

阿日寺には平安時代の高僧恵心僧都源信(九四二~一〇一七)の生誕地伝承があります。
源信は地獄と極楽を体系づけ、 『往生要集』を撰述しました。
日本の浄土思想を確立し、その後の法然や親鸞にも多大な影響を与えました。
そのような源信ゆかりの貴重な文化財が伝えられています。
 重要文化財 木造大日如来坐像
       平安時代中期・像高九四cm
本堂に祀られている大日如来坐像は、樟材を用いた一木造で、 引き締まった端正な顔立ちからは穏やかな印象を受ける反面、人を引き付ける力強さも秘めています。
また、細身で両腕を外に張る姿が印象的ですが、頭部を頂点とした三角形を形成することで絶妙なバランスを保っています。
 重要文化財 絹本著色 阿弥陀聖衆来迎図
       鎌倉時代中期・縦九五㎝ 横五三・八cm
聖衆来迎図は、人の臨終に際して阿弥陀仏が二十五菩薩を従え、お迎えに来られる様子を描いたもので、浄土思想の隆盛により、平安時代後期ごろから盛んに描かれました。
本図は、観音・勢至菩薩を筆頭に、奏楽する菩薩衆を従えた阿弥陀仏の一行が画面の向かって右下に来迎しています。
なお、現在は奈良国立博物館に寄託されています。
令和三年一月 香芝市教育委員会

つづく。



8月7日(金)06:01 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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