| 新祝園駅_来迎寺_稲植神社_けいはんな記念公園2 |
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| 釈迦の池と河井寛次郎 所在 精華町大字植田小字上山
釈迦の池
植田地区の中にある池で、付近には来迎寺や如来寺があり、「堂ヶ島」という小字名もありますので、なにか仏に関係した地域だったので、「釈迦の池」となったのかもしれません。 河井寛次郎が、戦争のため作陶活動が出来なくなった時期、足しげく通った精華町一帯の中でも、 この池一帯がお気に入りの場所であったことが日誌からうかがえます。蓮台寺にも足をのばし、彼の日誌に残された足跡をたどってください。 河井寛次郎(一八九〇~一九六六) 島根県安来市に大工の息子として生まれ、大正九年に京都五条坂に住居と窯を持った陶芸家で、大正末期より「民藝運動」の中心メンバーとして活躍。昭和十九年七月発表の機関紙「民藝」の中で、精華町植田にある釈迦の池の美しさを紹介。 また、著書の「火の誓い」では、菅井や新祝園駅まで歩いたことを書いている。そして「土と炎の詩人」とも呼ばれ、陶芸だけでなく多くの書や言葉を残す。 平成三十年八月 NPO法人 精華町ふるさと案内人の会
【AI による概要】 河井寛次郎(かわい かんじろう、1890年-1966年)は、大正から昭和にかけて京都を拠点に活躍した日本の代表的な陶芸家であり、民藝運動の中心的役割を担った人物です。
【参考】 河井寛次郎
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| 釈迦の池の堤に建てられている記念碑だが文字が読めない。 そこで、例によって AI に問い合わせたが、その回答で右から二つの漢字が納得できない。 一番右は“構”のように見えたりする。 とすると“構修”だが、“構造修復”の略字かもしれない。 仮にそうだとしても、“修”も納得できない。 なので、分からないが、“改修”と似た意味の文字だろう。こだわる必要なし。
【AI による概要】 画像の石碑に刻まれている文字は、篆書体(てんしょたい)という古い書体で、右から左に向かって「改修記念」と書かれています。 京都府相楽郡精華町植田にある釈迦の池(ため池)の土手に設置されているもので、詳細な歴史や背景は以下の通りです。
各文字の対応 ・改(一番右):己と攴(ぼくづくり)が組み合わさった古い字体です。 ・修(右から2番目):人が道具を持って形を整える様子を表した篆書体です。 ・記(左から2番目):言(ごんべん)に己が組み合わさっています。 ・念(一番左):今の下に心が配置された形です。
釈迦の池の「改修記念」の背景 ・歴史的背景: この石碑は、昭和27年(1952年)の吉野地震によって釈迦の池の堤防が決壊し、その後無事に復旧・改修されたことを記録した災害記念碑です。 ・石碑の特徴: 地震による堤防決壊の被害が二度と起きないよう願いを込めて、ため池の土手に建てられました。別の場所にあった神社の遥拝所(ようはいじょ)の石碑を再利用し、裏面を削って文字を刻んだものと言われています。
全国的にも「吉野地震」の災害復旧を伝える記念碑は非常に珍しく、地域の水害の歴史を今に伝える貴重な遺構となっています。
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| 【AI による概要】 画像は、京都府相楽郡精華町植田にあるため池 「釈迦の池(しゃかのいけ)」 に建立されている改修記念碑の裏面に刻まれた碑文です。
以下に、石碑に刻まれている文字の解読(翻刻)と、そこに記されている内容の現代語訳・歴史的背景を解説します。
1. 碑文の解読(翻刻)
一部判読が難しい箇所もありますが、概ね以下のように刻まれています。
昭和二十七年七月十八日崩潰せし為相楽耕地指導に依り区民一到協力的旧工事に邁進す時に昭和二十七年十二月十日竣工昭和二十八年三月十日工事中出役人員延一、八百余人総経費百五十余万円也永遠に不潰を祈る昭和三十年八月吉日 植田区建之
2. 現代語訳(記載内容のまとめ)
この碑文には、ため池が崩壊してから復旧するまでの経緯が克明に記録されています。 ・災害の発生:昭和27年(1952年)7月18日に、池の堤防が崩壊(崩潰)してしまいました。 ・復旧への団結:相楽地方の耕地指導を受けながら、植田区の住民(区民)が一致団結(一到)し、協力して復旧工事(旧工事)に邁進しました。 ・工事の期間: 1.昭和27年12月10日に(第一段階の)工事が竣工しました。 2.その後も作業が続き、昭和28年(1953年)3月10日に全体の工事が完了したとみられます。 ・多大な労力と費用:この工事のために集まった住民の労働力は、延べ1,800人余りにのぼり、総経費は当時としては大金である150万円余りに達しました。 ・建立の願い:この池が「永遠に崩れないこと(不潰)」を祈念し、昭和30年(1955年)8月吉日に植田区によってこの石碑が建てられました。
3. 歴史的背景 昭和27年(1952年)7月は、京都府南部から奈良県にかけてを集中豪雨(南山城水害の前年の大雨など)が襲い、各所でため池の決壊や河川の氾濫が相次いだ時期にあたります。
重機が普及していなかった当時、延べ1,800人もの区民が手作業で土を担ぎ、地域の農業に欠かせない命の水である「釈迦の池」を必死に守り抜いたという、地域の強い絆と復興の歴史を今に伝える貴重な記念碑です。
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| 釈迦の池を後にして来迎寺へ向かう。
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| 釈迦の池から北東の位置にありすぐに到着した。
つづく。
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9月14日(月)05:43 | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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