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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


長尾街道4(當麻寺_忍海)4

受福寺という地図に載っていないお寺を探していたら、北方向にお寺らしき建物を発見したので向かってみる。


クルマ一台がやっと通れる細い道を歩く。
お寺は左側の白壁。



「臨済宗 受福寺」の表札が掛かっている。


「普陀落山(ふだらくさん) 受福寺」

二上山・葛城山を西にま近く仰ぐ当麻(たいま)の里に、小じんまりと清らかな尼寺“受福寺”がある。
近鉄の当麻寺から三、四分のところにあるこの当麻寺を訪れた人は、生きた、本当の尼寺を見出し得た喜びを感じるであろう。
民家とまちがえるような門構えを入ると、庭も本堂も庫裏も実に掃除がゆきとどき、清浄な尼寺という感にうたれる。
“訪れる人を心から歓迎して隔てを作らぬ”庵主さんの態度もうれしいものである。
この寺の清らかなたたずまい、この尼僧のさっぱりした人柄も、この寺が臨済宗妙心寺派に属する禅宗の寺であるときけば、なるほどとうなづく人もあろう。
住職の中津祖薫さん、その弟子の祖祐さんは禅宗の尼僧としての修行を積んだ人であり、傍ら茶道(裏千家)と花道(山村御流)を嗜み、また教えている。
この受福寺は今から約百八十年前、寛政二年(一七九〇年)に創建された。
本尊は契(ちぎり)観音。
------和歌浦の漁師の網にて海中からあげられたが、その漁師の夢枕に、「この観音を一寺に安置すれば願いごとは必ずかなえられるであろう」とのお告げがあった。
そこで漁師や村人はこの観音を背負い、高野街道を通ってこの寺に安置したという。
以来、この“願いごとが必ずかなえられる”という霊験のあらたなる故に契観音と呼ばれている。
受福寺創建の際の導師は慈雲尊者(じうんそんじゃ)である。
当時尊者は七十三歳、葛城山中の高貴寺におられ、学徳兼備(がくとくけんび)の高僧で、朝廷をはじめ道俗(どうぞく)の尊信をあつめておられた。
高貴寺から平石峠を越えて来られたのであろう。
次に、当時第七世の祖栄尼は、幕末の勤皇歌人(きんのうかじん)であり、天誅組(てんちゅうぐみ)の志士でもあった伴林光平(ともばやしみつひら)に和歌を学んで、その歌集も遺(のこ)しているが、幕府の追求から光平を寺にかくまったこともある。
この関係から光平の筆蹟が当寺にかなり遺されている。



扉を開けて境内に足を入れると、横笛を演奏する音が聴こえた。
尼さんが奏でているのだろう。
静寂そのもので、皆でワイワイガヤガヤ境内に立ち入るのは、さすがに気が引けた。
ここで退散することに。



2月3日(日)18:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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