山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年3月を表示

上町台地から天王寺七坂めぐり6

越中公園にて。ソメイヨシノと見られるサクラが開花していた。


中央区玉造2丁目付近を南へ歩く。左手に立派な建物が現れた。キリスト教の教会。


カテドラル聖マリア大聖堂カトリック玉造教会の敷地に立つ細川ガラシャの説明板。この他高山右近やいくつかの説明板が掲示されていた。

魂をかけた決断 細川ガラシャ(1563-1600)

 1600年細川忠興が徳川家康の東北上杉氏討伐征伐に従った間に、石田三成は忠興を味方につけるために妻ガラシャを人質として大坂城に連れて行こうとしましたが、ガラシャは応じませんでした。忠興は、常々自分の留守中に妻の外出を禁じていました。三成側が大坂方の誘いを拒否したガラシャの屋敷に火を放つ中、キリシタンの教えでは自害が禁じられていたガラシャは家臣に胸を突かせ、37歳でこの世を去りました。
 大聖堂北西の一隅は旧越中町に属し、ガラシャが壮烈な最期を遂げたゆかりの地です。そこに「越中井」が残っており、そばにガラシャ辞世の句碑が立っています。

 ちりぬべき時しりてこそ世の中の
 花も花なれ 人も人なれ
           カトリック大阪大司教区


先の説明板と若干違うところがあるが大筋は同じ。



細川ガラシャ(1563-1600) 

大聖堂正面右に立つ細川ガラシャの像は彫刻家・安部政義氏の作です。ガラシャは1563年、越前国で明智光秀の三女として生まれ、玉子の名をうけました。1578年に織田信長の媒酌で細川藤高の長男、忠興と16歳で結婚しました。しかし、1582年に父明智光秀による本能寺の変により、細川家は、秀光の娘である玉子を離縁し丹後国土野に幽閉、謹慎の意を表しました。
 1587年の豊臣秀吉による伴天連(ばてれん)追放令の直後、忠興から外出を禁じられていた玉子は自宅で侍女清原マリアから洗礼を受けてキリスト教徒になり、信仰に生きる人となりました。
 ガラシャ(恩恵の意)は、その洗礼名です。
           カトリック大阪大司教区



こちらは「慈しみの人 ユスト高山右近(1552-1615)」の説明板。


3月31日(木)20:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり5

石碑の正面。「越中井 / 細川忠興夫人秀林院 / 殉節之遺址」と彫られていた。


史蹟 越中井由来

ガラシャ夫人の名だけ聞いてもどんな人なのか知らない人が多いのではないでしょうか
ガラシャは細川越中守忠興公の夫人で熱心なキリシタン信者でありました 慶長五年(一六〇〇年) 忠興公が徳川家康に従って会津上杉を征伐に出陣した留守中 反家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城中に人質にしようとしたがガラシャ夫人は聞き入れず石田三成に取囲まれぜひもなく 家来に首を打たせ家屋敷に火を放ちいさぎよく火中に果てました 
この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝えられています 昭和九年(一九三四年) 当時地元の越中町内会の人々相寄りガラシャ夫人の徳をしのび顕彰碑を建立したものです 
碑の正面表題の文字は徳富蘇峯先生の筆で側面(左側)の由来説明は京都帝大文学部長新村出先生の文です 
改めてそれを読みながらガラシャ夫人の壮烈な最後を想い起こしてください
  牧村史陽識
  越中町会
     細川ガラシャ夫人顕彰
            頌徳会


細川ガラシャ



先の説明板にあった越中井。

大阪市イベント・観光 52.越中井(えっちゅうい)大阪府史跡
によると、かつて、この付近は細川越中守忠興の邸跡で、画像の井戸(越中井)はその邸内にあったものといわれている。



「越中井」を後にする。画像はコブシだろう。


石碑が見えたので立ち寄る。

青刻昆布発祥の地 

昆布加工品の原点である青刻昆布の主産地大阪における創始は一七二一年(享保六年)頃と伝えられる。文化年間に清国(中国)に試売し、一八二〇年頃から販路を拡張、専ら大阪上町台地において製造していた。一九〇〇年(明治三十三年)には、大阪の刻昆布が国の重要物産品に指定されている。
今日大阪の昆布加工品は、なにわ名物として広く認められ、大阪の食文化に大きく寄与しており、一九九八年(平成十年)には大阪特産物品として国により認証された。
大阪昆布商工同業会(起源は明治三十四年認可の大阪刻昆布製造同業組合)は、平成十三年に百周年を向かえたのを記念してこの碑を建之する。

  平成十三年三月建立 
  大阪昆布商工同業会



3月31日(木)20:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり4

「かぎや坂」を歩き、分岐を右折(西)すると、その先に樹木と石碑が見えたので立ち寄る。


中央に「越中井」と彫られた石碑。その前に井戸のような石造物。石碑の左、説明板を見入る熟年カップル。更には右に祠が見えた。


祠には「出世地蔵尊」と記されている。


観音扉を開くと地蔵さんが祀られていたが、日光の具合で上手く撮影出来ず。


花も花なれ人も人なれ - 紀行歴史遊学
によると、この石碑の側面には、「散利奴遍喜 時知り手古曽 世の中乃 花毛花奈連 人茂人奈禮」と彫られているようだ。
(散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ)



3月31日(木)20:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

金剛山(ツツジオ谷)

2016年3月29日(火)は、金剛山にツツジオ谷(筒城谷とも呼ぶ)からY氏と二人で登った。

ツツジオ谷は登山地図に記載が無く、タカハタ道の途中、腰折滝の上の分岐で橋を渡る。
橋を渡らずに直進すればタカハタ道。

タカハタ道は遠い昔、下山に歩いたことがあるが、今となれば、記憶がおぼつかない。

今回歩いたツツジオ谷(旧道)は、頂上付近まで谷に沿って歩き、源流部では、谷の中を歩くイメージで、沢の遡上という感じ。

源流部には杉の巨樹があって、ここまで辿るのが旧道と呼ばれているようだ。
途中、右岸に踏み跡があったが、最近はこの急坂をよじ登って頂上に向かうようだ。

新道分岐の前に、トラロープが何箇所にも設置され、危険度はカトラ谷より高い。
カトラ谷同様、下山に歩くのは避けたい。

ここはまた、氷瀑も楽しめると聞いた。
中ほどに10~20mの滝が二本かかり、これらの滝で氷瀑が観られるのだろう。
但し、簡易アイゼンや軽アイゼンでは無理。
8本か10本爪の本格アイゼンが必要。

それにしても、金剛山にこんなルートがあったとは知らなかった。
季節を変えて、また是非、歩いてみたい。

尚、下山は久留野峠を経由した。

この日は、Y氏に教えてもらったお得な「金剛山ハイキングきっぷ」を利用した。
南海電車とバスがセットになっており、通常価格より、20%程度OFFとなる。

なんば発着の料金。
通常 2090円 ハイキングきっぷ 1690円。 400円のお得。

金剛山ハイキングきっぷ|南海電鉄

当日は平日だったので、バスの本数が少なく、行き帰りとも待ち時間が長かった。
今後は注意したい。

コース概略
南海高野線・河内長野駅_<バス>_金剛登山口バス停_まつまさ前_黒栂谷道分岐_腰折滝_タカハタ道分岐_堰堤(四基)_一ノ滝_二ノ滝_墓地_六地蔵_国見城跡・昼食_転法輪寺_一ノ鳥居_展望台前_ちはや園地・ログハウス_伏見峠_地蔵祠_久留野峠_ロープウェイ前_百ヶ辻_ロープウェイ前バス停_<バス>_河内長野駅

画像は当日歩いたGPSログを表示している。金剛登山口バス停からロープウェイ前バス停まで。



3月30日(水)20:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり3

ここにも立派なビルが建っている。
西日本電信電話(株)の本社ビル。



ご丁寧にも「法円坂」の表示があった。
以後、本日歩く坂道には、このような表示が貼り付けてあった。

※①法円坂(ほうえんざか)・・・坂名の由来には、諸説ある。
ア、慶長以前にこの地にあった法案寺(生国魂神社の神宮寺)が法円寺に転訛した坂名。
イ、浄土宗西本願寺派浄照坊の開祖、法円がこの地に寺を設けたことに因む坂名。


以後、※の付した坂名の由来や解説は、当日配布の資料による。



「KKR HOTEL OSAKA」の前を通過すると、正面に阪神高速・森之宮出入口が現れるが、ここで右折(南)する。


暫く歩いて左折(東)。「かぎや坂」の表示を見て右折(南)する。
分岐地点にはスタッフの人が立っているが、すべての分岐地点で、スタッフの人が立っていたと思う。

※②かぎや坂(かぎやざか)・・・坂名の由来は不明。
江戸時代からの古い道で古地図にも「カギヤ坂」の名が載る。



ここも緩やかな下り坂になっている。


3月29日(火)22:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり2

スタート地点の難波宮跡公園に9時20分過ぎに到着。
予想以上に参加者が多いのにビックリ。
スタート時間は9時30分から10時だったが、この時点で既に時間を早めてスタートを開始していた。



受付で地図と缶バッチを頂く。


法円坂の交差点を北へ横断し上町筋を歩く。
市バス馬場町のバス停前を通過。
このモダンな建物は大阪府警察本部。後で知った。



馬場町の交差点で右折。本町通を東へ歩くが、ここが法円坂だった。
緩やかな坂道になっている。



地図の方にピントを合わせて撮影。


3月29日(火)22:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり1

2016年3月26日(土)は、大阪市交通局が主催するウォーキングイベントに単独で参加した。

題して「大阪まち・再発見ぶらりウォーク 第8回 上町台地から天王寺七坂めぐり」で地下鉄中央線谷町四丁目駅から上町台地の坂道と、「天王寺七坂」を巡る合計16の坂道を歩いた。ゴールは地下鉄堺筋線恵美須町駅。

平地歩きとはいえ、坂道の連続で、特に石畳の階段や急坂の下りはきつく感じた。
歩行距離約8.4km。

出発時間は9時30分で、このコース・距離だと、普通に歩いて正午から13時頃にゴールに到着すると思われる。
しかし、ゴールの受付時間が16時までとなっており、寄り道や道草をしたい私には、時間に追われることなく、ゆっくりと楽しめる。

尚、コースには特に昼食適地の案内はなかったが、私は弁当を持参した。
弁当持参者は少なかったように思う。
近くの飲食店に入って済ましている人が多かった。

時間に追われることなく、ゆっくりと楽しめるということから、次回以降の参加も考えたい。当日の参加者は960人。

大阪市交通局 2015年度 ウォーキング企画 PDF

平成28年度 大阪まち・再発見ぶらりウォーク

コース・タイム
9:19地下鉄・谷町四丁目駅_9:24難波宮跡公園(スタート)9:32_9:42法円坂_9:46かぎや坂_9:48出世地蔵尊・史跡越中井9:50_9:51青刻昆布発祥の地(石碑)_9:53大阪カテドラル聖マリア大聖堂9:56_9:57ほくちゃ坂_10:05どんどろ坂_10:09善福寺10:12_10:12心眼寺坂_10:15心眼寺10:18_10:20真田丸顕彰碑_10:20興徳寺10:22_10:27三韓坂(さんかんざか)_10:32空清町(からきよちょう)公園前_10:36楠木大神_10:38近松門左衛門の墓_10:44地蔵坂_10:48北坂・高津宮10:57_10:57高津公園_11:06真言坂_11:10生国魂神社11:12_11:14生玉公園・昼食11:40_11:42源聖寺坂(げんしょうじざか)_11:43齢延寺11:47_11:56光伝寺_11:59学園坂_12:07口縄坂(くちなわざか)_12:15愛染坂_12:18大江神社_12:20愛染堂12:24_12:29清水坂_12:35天神坂_12:42安居神社12:49_12:49逢坂(おうさか)_12:57地下鉄・恵美須町駅(ゴール) ・・・近鉄難波線・日本橋駅

画像はこの日歩いたGPSログを表示している。
地下鉄中央線谷町四丁目駅から堺筋線恵美須町駅までの区間。



朝の蛙股池。花見に備えて菖蒲池神社の境内に提灯が取り付けられていた。


地下鉄中央線・谷町四丁目駅、東改札口にて。スタート地点の難波宮跡公園は10番出口。


地上に出る。中央大通が東西に通っている。


「史跡 難波宮跡」は目の前。


3月29日(火)22:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道41

敷地の外へ出て正面から撮影。
蓮華を持つ十一面観世音菩薩。



等身大の道標。
「右 うぢミち」。



もう一方の道標。「すく 具起゛ぬき地蔵道」。具起゛は変体仮名。具起゛=くぎ。
それにしても、“くぎぬき地蔵”とは一体どういう地蔵様なのか、ネット検索したら、これが“苦抜地蔵”だった―笑。
“苦しみを抜く”が長い年月や人伝いによって、いつの間にか“くぎぬき”となったのだろう。

華台寺 | 京都の観光スポット | 京都観光情報



広野公民館を後にし、近鉄京都線大久保駅へ向かう。JR奈良線新田駅と大久保駅は比較的近い位置にある。


大久保駅より近鉄電車に乗って帰宅した。おしまい。


3月28日(月)20:24 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道40

広野公民館。門は開いていた。
建物の右奥に道標らしきものが見えたので、直接、そちらへ向かう。



古い道標は敷地内に、フェンスの外(右の道)からでも見えるようにして保管されていた。
しかも、フェンスはこの道標がある部分のみ透明の板になっている。
これは外から眺めたりカメラで撮影する人のことを考慮したのだろう。
「左 京 道」。



こちらは東方向から見た位置で、「左 なら道」。
そして、右にも道標らしきものが見えた。



「寛政四壬子 / 志方家内安全 / 施主何某」。
“ 志方”という漢字だが“四方”は忌み数で縁起が悪いのかもしれない。
尚、道標の正面は肉眼では見えたが、カメラでは撮影出来なかった。
この後、敷地の外へ出て正面から撮影した。



    宇治屋の辻の道標 

 京道と宇治道が分岐する宇治屋の辻は、東北角と西北角に近年まで二本の道標が建っていた。東北角の等身大の道標は、蓮華を持つ十一面観世音菩薩が浮彫りにされており、「 左 なら道(東面) 右 うぢミち(南面) 左 京道(西面) 」と刻まれている。碑は、中書島の人によって建立されている。
 一方、西北角の道標は、南面に「すく くぎぬき地蔵道」と刻まれている。すくとは真っ直ぐに行くという意味で、くぎぬき地蔵とは、久御山町大字中島にある華台寺の釘抜地蔵尊のことである。建立は、江戸時代の寛政四年(一七九二)に伏見の人によって久御山町に建てられたが、何かの事情でこちらに移された。
 宇治屋の辻は、昔も今も多くの人々が行き交い、特に近年の自動車の交通量が特に多くなり、その為に交通事故によって道標が被害を被る事が多くなり、文化財を保存する立場からこの位置に移転し、保存することになった。 

   平成十年三月     宇治市教育委員会



3月28日(月)20:23 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道39

「宇治屋の辻」の新しい道標を後にして、昔の道標を見る為に、広野公民館へ向かう。
この民家は最近、リニューアルされた。このような町屋を京都ではよく見かける。



JR奈良線新田駅前へ到着。
しかし、ここから目当ての広野公民館(線路の東側)に行くことは出来ない。



一旦、車道に引き返し南へ歩くと、左側(東)に皇大神宮社の社標と参道が現れる。
この日は立ち入らずそのまま通過。



JR奈良線の高架下に新しい道路を建設中。
トンネルが三つ見えるが、左が河川、中が歩道、そして今歩いているところが車道になっている。
左の樹木は皇大神宮社の鎮守の森。



高架下のトンネルを潜って、“く”の字のように引き返す感じで広野公民館へ向かう。
案内板があった。



3月28日(月)20:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道38

進行方向右(西)に近鉄京都線伊勢田駅の駅舎を見て、駅前の交差点を過ぎると、左に旧道への分岐となり旧道を歩く。


祠の中に祀られていた石仏。
メイクアップの方法も色々とあるものだと感心する―笑。



広野町東裏の交差点に出る。新しい道標が見えた。
この交差点は「宇治屋の辻」とも呼ばれている。
「左 京 道」。



「右 うぢミち」。蓮華をもつ十一面観音が彫られている。
そして右には何故か花が供されていた。



右側面には「左 なら道」。
この道標は破損して新しいものに取り替えられていた。
昔のものがこの近くの広野公民館に保管されいると知り、ダメ元で立ち寄ることにした。
ダメ元というのは、もしかして建物の中に保管されていて、公民館が無人なら、観ることが出来ないだろうと思ったから。



3月27日(日)21:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道37

やがて分岐となる。直進はJR小倉駅。ここは道なりに右へ歩くが、角に祠が見えたので立ち寄る。


お化粧された石仏。二尊板碑に見えた。


府道69号線、小倉西山の交差点に出る。ここは府道に沿って南へ歩く。


左に小倉小学校、右に宇治市西消防署伊勢田消防分署の建物を見て歩く。
「二日やいと」の看板が掛かっていた。“やいと”とは懐かしい言葉。

灸 - Wikipediaやいとは、もぐさを皮膚の上に乗せて火を点け、つぼと呼ばれる部位に温熱刺激を与えることにより、治癒すると考えられている民間療法。



付近の住宅地図。現在地は地図の主要地方道城陽宇治線、(有)澤田製作所の前。


3月27日(日)21:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道36

虫籠窓だろうか、左のは少し様子が違う。
撮影時、よく観ていなかったが飾り板かもしれない。



こちらは元々虫籠窓ではなく、二階建ての家屋で、窓として建築されたのだろう。


お茶の香ばしい匂いが漂っていたが、製茶問屋が現れる。


碾茶製造工場の看板が掛かっていたが、“碾茶”の漢字は読めなかった。
後で調べると“てんちゃ”と読む。

碾茶 - Wikipediaによると、碾茶(てんちゃ)は、蒸し製緑茶の一種。抹茶の原料。茶を摘採まで少なくとも20日以上被覆してその生葉を蒸して揉まずに乾燥せしめたものである。玉露と同様、収穫前に被覆した茶葉を蒸し、碾茶炉で乾燥して製造する。煎茶のように茶葉を揉む工程が無いため、形状は青海苔に似ている。その香気は玉露同様独特のかぶせ香があり、適度に香ばしい。



井川に架かる橋を渡る。井川沿いに「井川遊歩道」が整備されていた。(画像右)


3月27日(日)21:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道35

先ほどの常夜燈と同じく、正面に「巨椋神社」、側面には「春日社」。


宇治市名木百選「えのきむくのき」(社叢)の案内板。境内にはエノキ、ムクノキの巨樹が沢山見られた。


猿の顔に見えてしまう―笑。


巨椋神社を後にする。
祠があったので立ち寄る。



観音扉を開けてビックリ

メイクアップされたお地蔵さんたち。



3月25日(金)20:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑥竹田街道_大和街道34

寶暦二壬申年十一月の銘のある常夜燈。寶暦二年は西暦1752年。264年前。


常夜燈には「巨椋神社」と彫られているが、側面には「春日神社」と彫られていた。

巨椋池のほとりを拠点としていた巨椋氏一族がその祖神を祀ったのが創祀だが、後に当地域は藤原氏の支配下になり、祭神も変わっていった。

巨椋神社

江戸時代までは春日神社と呼ばれていたが、明治10年(1877)に式内・巨椋神社と認定され、以後、巨椋神社と称している。

山城の式内社/巨椋神社(宇治市)



「神水」と彫られた手水鉢。


大正十三年十二月建立の銘あり。


こちらの常夜燈には天明五乙巳年九月建立の銘。天明五年は1785年。


3月25日(金)20:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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