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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年3月10日を表示

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)60

入口の右に説明書きが見えたので立ち寄る。

京都伏見の料亭「魚三楼」



鳥羽伏見戦の弾痕

 右側、格子に数條ある痕跡は鳥羽伏見戦(1868年)の弾痕です。幕末の慶應4年1月3日、4日に此処伏見で薩長土連合の新政府軍と幕府軍とが大激戦をくりひろげました。世に言う鳥羽伏見の戦いです。(明治維新の最初の戦)
 幕府の大政奉還の奏上(そうじょう)、朝廷の“王制復古の令”の直後 朝廷側が決定した第15代将軍慶喜の辞官、納地(一切の官職と幕府領の返上)は、幕府を怒らせ、京へ攻め上って参りました。新政府軍は、これを鳥羽伏見で迎え撃ち、伏見では一大市街戦が展開され、幕府軍は敗れ、淀、大阪方面へ退却しました。
 この戦乱で伏見の街の南半分が戦災焼失、街は焼野原となりましたが、幸いにして、この建物は弾痕のみの被害で焼失を免れました。
           店主謹白



これが説明書きにあった弾痕。


祠に祀られていたお地蔵さん。


格子戸が見られる町屋が続く。左の家屋は二階が出窓風になっている。


3月10日(木)21:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)59

京都上下水道局疎水事務所伏見分所を左に見て京町通(府道35号線)を歩くと、R24に出合いこれを横断。
画像は東方向を撮影。R24は京阪本線を跨ぐ為、高架になっている。



住所表示は伏見区京町十丁目。


近鉄京都線の高架下を潜ると左手に「本浄寺」の寺標を見て歩く。
京町北八丁目あたりから町屋が見られるようになる。



格子の囲い。格子と一口に云ってもいろいろと種類があるようだ。

京町家の特徴 | 京ぐらし



京町通を南へ歩く。上板橋通、丹波橋通、下板橋通、毛利橋通、そして大手筋通と、東西に交差する道を横断。やがて京料理「魚三楼」(うおさぶろう)が現れる。


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京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)58

手前の池は「小町姿見の池」と呼ばれる。


「通ふ深草百夜の情 小町恋しの涙の水が 今も湧きます欣浄寺」の立て札が立つ深草少将遺愛の井戸。

深草少将Wikipediaによると、深草少将(ふかくさのしょうしょう)は、室町時代に世阿弥ら能作者が創作した、小野小町にまつわる「百夜通い」の伝説に登場する人物。欣浄寺(京都市伏見区)に屋敷があったともされる。欣浄寺の池の横には「少将の通い道」とよばれるものがあり、訴訟を持っている者がここを通るとかなわないと言われる。その他、小野小町供養塔と並んで深草少将供養塔がある。また、随心院(京都市山科区)には、深草少将等が書いた手紙を埋めたとされる「文塚」等がある。小野小町を愛したといわれ、小町が私の元へ百日間通い続けたら結婚しようと言い、九十九夜通ったが、雪の降る日で、雪に埋まり凍死したとも言われている。



通称“伏見の大仏”さん。木造の仏像としては日本最大級の高さ約3.5m。


欣浄寺を後にする。
祠の中に祀られていたお地蔵さん。メイクアップされていた。
伏見近辺に見られる、石のお地蔵さんに絵の具で顔や体が描かれているのを「化粧地蔵さん」と呼ぶらしい。
地蔵盆にお化粧直し、つまり顔や体を描き直す町内もあって、毎年、ちょっとずつお顔が変わっていくお地蔵さんもあるという。

MBS 京都見聞録



伏見区鑓屋(やりや)町に入ると、右手に「撞木町廊(しゅもくちょうくるわ)入口」と彫られた石標が見えた。左は「志由もく町廓入口」だろう。その昔、この地は遊郭だった。

橦木町遊郭跡 (橦木町廓之碑) 観光 クチコミガイド【フォートラベル】



3月10日(木)21:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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