山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2015年11月を表示

パンジー植付

ベゴニアは霜が降りてしまうと、溶けたように悲惨な状態になってしまう。
霜でなくて雪でも同じ。今年は早いうちに軒下に取り込んだ。
なにせベゴニアは南国の花。

変わって、パンジーを購入。今年は「わらく」という品種を買った。
花首が伸びにくいらしい。

イエロー&ブルー、ミッドナイト、クリアイエロー、アンティークブラウンをそれぞれ2つずつ。
計8株を小さめの壁掛けプランターに植えた。
冬は花が少ないからパンジー系が手頃に楽しめる♪

わらく ムラカミシードのサイト
http://www.murakami-seed.com/pot/pansy.html



11月29日(日)10:52 | トラックバック(0) | コメント(0) | 園芸 | 管理

牛鍋風鬼おろしバーグ うどん入り

びっくりドンキーの期間限定メニュー、「牛鍋風鬼おろしバーグ うどん入り」というのがあるらしい。税込921円。

なんかこの夏の丸亀製麺の期間限定メニュー『鬼おろし肉ぶっかけ』とよく似ている。

画像を見ると、鬼おろし大根とハンバーグ、牛肉、目玉焼き、うどん。それにゴボウと人参、ねぎが入っているようだ。

うどんが入っているからご飯なしで単品で食べるのかな。
機会があれば食べてみたい。

びっくりドンキーのサイト
http://www.bikkuri-donkey.com/



11月28日(土)10:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | グルメ | 管理

吉水神社8

祭神に楠正成公、吉水宗信法印公が合祀されている。


吉水神社、“一目千本”。


“一目千本”からの眺望。


吉水神社を後にする。尚、吉野山を訪れたのは2015年11月5日(木)。おしまい。


11月26日(木)18:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社7

「北闕門」(ほっけつもん)。吉水神社境内の北に位置する。

※吉水神社しおりより 吉水院(現吉水神社)は大峯山への入山許可書を発行する場所でした。古来よりここ「北闕門」で山伏達が無事平穏を祈り九字による邪気祓いを行ったと言われています。
■九字真法による邪気祓い
「九字真法」とは「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」(りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん)という九つの言葉を唱え、それに合わせて手を刀の型に見立てて陰陽道の「四縦五横」(たて4回よこ5回)に空を切る護身の為のお祓い法です。



説明文。この北闕門は、後醍醐天皇が南朝の皇居をかりそめの行殿とされ「露の身を、草の枕に置きながら、風にもよもと頼むはかなさ」いつの日か北闕(京都)に凱旋できる時を待たれていたが、悲しくも夢なかばにして南朝の皇居で崩御された。「玉骨は、たとえ南山(吉野山)の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕(京都)の天を望まんと思う」と悲痛な哀悼の御言葉を遺された。吉野一山挙げて、哀愁悲嘆の雲に掩われたが、後醍醐天皇の忠臣達がここで号泣したと伝えられる。


吉水神社境内から金峯山寺・蔵王堂を望む。


御神木。樹齢約四00年。ヤマザクラだろうか。


吉水神社は後醍醐天皇を主祭神とする。

※「吉」の正確な漢字表記は“「土」の下に「口」”。



11月26日(木)18:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社6

豊太閤愛用金屏風。「桜の図」 狩野永徳。


説明文。「桜の図」 桃山時代前期 狩野永徳筆。狩野派一門の代表的画人で天才の誇り高き永徳の晩年の作と云われるもので、咲きほこる桜花の優美さと風情にあふれる重厚な構図であり、有名な桃山百双の作品です。吉水神社秘蔵品。

※狩野永徳 サルヴァスタイル美術館のサイトより

日本絵画史上、最大の画派≪狩野派≫一族の中でも、随一の天才と謳われた大絵師。安土桃山時代に活躍し、素材(画面)から飛び出さんばかりの対象(巨木)の描写と力強い表現様式、いわゆる大画様式(大画方式)の確立。その勇壮でスケール感に溢れる力動的な表現は戦国時代の諸大名、特に織田信長や豊臣秀吉らから高い評価・信頼を得て、時代の寵児となったほか、巨匠・長谷川等伯や海北友松、雲谷等顔、曾我直庵ら同時代の名だたる絵師らにも多大な影響を与えた。



「竹の図」 狩野山雪。


説明文。「竹の図」 桃山時代後期 狩野山雪。山楽の高弟で理知的な画人として活躍した山雪の若年の作と云われるもので、新進気鋭らしい溌らつとして明快に画いた竹の構図であり、「桜の図」とは対照的な作品です。吉水神社秘蔵品。


11月25日(水)20:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社5

右から、柄香炉(えごうろ) 役小角(えんのおづぬ)所持、錫杖 役小角所持、※能作所寶珠、古瓦硯。
※能作生寶珠の誤り?



右、豊臣秀頼公寄進湯釜。


豊太閤愛用金屏風。


説明文。豊太閤愛用金屏風。文禄三年(1594)豊太閤が北政所(ねね) 関白秀次・徳川家康・前田利家等の諸侯と共にこの吉水神社を本陣として五日間宿泊し豪華な花見を催した時、この書院内にて盛大なる歌の会・茶の会・能の会を開いて豪遊した時に使用したもので豊太閤の愛用された有名な金屏風です。この度一般の皆様に特別公開している秘宝であります。


11月25日(水)20:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社4

右、後醍醐天皇御製色紙。「あふことの むなしきそらの うき雲は ゆくえもしらぬ ながめをぞする」。
中、村上義光所持の鐵鍔(てつつば)。護良親王の忠臣。重要文化財。
左、茄子形茶入、後醍醐天皇御物。金輪寺茶入、後醍醐天皇御勅作。



室町時代、桃山時代の能面の数々。


後醍醐天皇御物の石硯と竹文台硯箱。


役行者。


獅子頭。豊太閤寄附。桃山時代。


11月24日(火)21:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社3

弁慶の武装槍。弁慶七つ道具の一つ。


源義経所用の鎧「色々威腹巻」(いろいろおどしはらまき)。重要文化財。


源義経家来、佐藤忠信所持「兜」。


源義経所用の鐙(あぶみ)。


源義経所用の鞍(くら)。


11月24日(火)19:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

龍福(廃)寺丁石道と八ツ岩

2015年11月22日(日)は、天理市滝本町にある龍福(廃)寺の丁石道と、同市長滝町にある八ツ岩の探索にHa氏とN氏、私の3人で出かけた。

龍福(廃)寺の丁石道は、二ヶ所で崩落しており、廃道となっていた。
この丁石は磨崖碑式のもので、露出した岩壁に直接刻まれ、上部の月輪内に種子「キャ」とその下に各々丁数を刻むという他に類例のない特殊性の強い丁石となっている。

一方、八ツ岩は天理市観光協会のサイトにアップされており訪れる人も多いようだ。
※八つ岩(やついわ)|めぐる天理 - 天理市観光協会
http://kanko-tenri.jp/meguru_tenri/05_yatuiwa.html

【コース概略】
■龍福(廃)寺丁石道
駐車地1_石上神社_下滝本バス停前_<龍福(廃)寺丁石道>_滝本墓地_大親寺_奥ノ院_桃尾の滝_駐車地1
■八ツ岩
駐車地2_八ツ岩_駐車地2

画像はこの日歩いたGPSログを表示している。



11月22日(日)21:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

吉水神社2

左は豊臣秀吉寄贈の「青磁の壷」。


蝉丸所持の「琵琶」。右は豊臣秀吉寄贈の「銅鐸」。

※蝉丸 Wikipediaより
蝉丸(せみまる、生没年不詳)は、平安時代前期の歌人、音楽家。古くは「せみまろ」とも読む。
管弦の名人であった源博雅が逢坂の関に住む蝉丸が琵琶の名人であることを聞き、蝉丸の演奏を何としても聴きたいと思い、逢坂に3年間通いつづけ、遂に8月15日夜に琵琶の秘曲『流泉』『啄木』を伝授されたという(『今昔物語集』巻第24 第23話)。



後醍醐天皇御物の「羊皮太鼓」。


神武天皇から昭和天皇まで「日本國歴代天皇御眞影」。


武蔵坊弁慶所持の「籠手」(こて)。


11月20日(金)21:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社1

「吉野を見ずして桜を語るなかれ」というそうだが、私は「吉水神社を見ずして吉野を語るなかれ」と云いたい。
吉水神社(よしみずじんじゃ)は、神社なのに拝観料が徴収される。400円也。
他に神社で拝観料を徴収されると云えば思いつくのは多武峰の談山神社くらい。但し、この神社は明治時代の神仏分離(廃仏毀釈)以前は寺院であり、多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)といった。
そして、この吉水神社もまたしかりで、明治時代以前は金峰山寺(きんぷせんじ)の僧坊吉水院(きっすいいん)だった。後醍醐天皇を仏式で供養することが問題視され神社への改組となった。

※吉野神宮の歴史 Wikipediaより
南朝の後村上天皇は、父の後醍醐天皇が延元4年(1339年)に崩御した後、その像を吉水院に安置した。以降、仏教式の供養が行われていたが、明治時代に入って神仏分離により明治6年(1873年)に吉水院を後醍醐天皇社という神社に改めた。2年後に吉水神社と改称して後醍醐天皇を祭神とする神社となった。このとき太政官政府は官費(国費)で別の神社を創建する考えを表明したが、そのまま棚上げになって時が経った。
明治22年(1889年)6月22日に、後醍醐天皇を祀る官幣中社吉野宮の創建が、明治天皇の意向で決定した。明治25年(1892年)に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。明治34年(1901年)に官幣大社に昇格し、大正7年(1918年)に吉野神宮に改称した。


画像は襖絵「群鶴」狩野山雪作。

※狩野山雪 サルヴァスタイル美術館のサイトより
狩野山雪は、17世紀の京都で活躍した京狩野派を代表する絵師。奇矯・奇怪とも評される垂直・水平を強調した幾何学性の強い理知的な装飾と、古画への深い造詣に基づきながら伝統的な画題を独自の視点で再解釈する斬新な画面構成で数多くの作品を制作。独自性が際立つ山雪の諸作品は近年、高い支持を集めており、再評価が進んでいる。



源義経・潜居の間。

※説明板より
文治元年十二月雪の降る中、源義経が兄の頼朝に追われてこの吉水院を頼り、静御前・弁慶等と共に約五日この部屋に身を潜め再起を計りました。しかし、すでに鎌倉から吉水院に義経追悼状が送られていて、義経はやむをえず山伏の姿に身を変え、大峰山へめざして弁慶等と共に吉野落をしました。
大峰山は女人禁制のため、静御前とはこの場所で悲しい別れをしました。愛する人を一人残して去らなければならなかった義経の苦しい胸中と、再会を信じ一途に恋慕った静御前の物語は、美しい悲恋物語として永く後世に伝えられました。
「吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」という静御前の歌が残され、歌舞伎や浄瑠璃で有名な「義経千本桜」の本舞台となりました。また、右手一畳敷の控えの間は「弁慶思案の間」と言い、弁慶がここで見張りをしながら一世一代の秘策を思案していたといわれています。



先の説明文にある「弁慶思案の間」。


後醍醐天皇玉座。

※「桃山式書院(帳台構)桃山時代」説明板より
この部屋は上段の間五畳と下段十畳敷で構成され、桃山期特有の帳台構に模様替えを施した書院で、当時の完成された豪華な書院造の様式と風格が示された典型的桃山書院です。この書院は御所造で、皇室特有の気品の高い飾り気の少ない清潔な要素が残されています。

※「後醍醐天皇玉座」説明板より
この部屋は延元々年、後醍醐天皇が京の花山院より秘かに吉野に行幸された時、この吉水院の宗信法印が三百名の僧兵を従え、天皇をここに御迎えし、天皇もこの御部屋を南朝の皇居と定められて吉野朝歴史の第一頁が始まりました。
天皇は建武の新政の大偉業のため日夜涙ぐましい御努力をなされ、血涙の御生活をされましたが、遂に王政復古の夢を果たせず延元四年にこの地で病により倒れられ、悲憤の最後を遂げられました。
「花にねて よしや吉野の吉水の 枕のもとに 石走る音」という有名な御製は、ここで御寝(おしずまり)の際に歌われたものです。

※「豊太閤 花見の居間」説明板より
文禄三年に秀吉が南朝を偲んで吉水院を本陣として盛大なる花見の宴を催し、この御部屋に約五日間滞在され、歌の会、茶の会、御能の会などを開いて豪遊され、一世の英雄がその権勢を天下に示しました。この部屋は秀吉の寄贈により修繕されたものです。
「年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」



11月19日(木)21:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

「清修庵」でランチ

ワイフの所用で「イオンモール高の原」に出かけ、丁度、お昼時になったので、レストラン街を見て歩いた。

手造り豆腐と麺料理の店「清修庵」のウィンドーメニューを見てこの店に入った。



これがこの店に入るきっかけとなったメニュー。税別998円でこれだけボリュームがあるのはリーズナブル。


実物。ウィンドーメニューの写真とほとんど変わらない。湯豆腐のたれが、たまり醤油で、日頃食べている醤油とは大違い。とても辛く感じた。甘味はまったくない。自宅では食べれない味。
その他、かき揚げに使っている天ぷら油は上質みたい。
先付は手抜きがない。香の物やデザートも美味しく頂けた。
以上、税別998円はとてもお得。また利用したい。
そうそう、私は利用しなかったが、ご飯のおかわりもOK。



11月17日(火)14:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | グルメ | 管理

紀路3(橋本_笠田)

2015年11月15日(日)は、古道紀行おおばこの会、「古代の道 紀路(大和街道)パートⅢ-橋本から笠田まで-」に参加した。
雨模様の鬱陶しい天気にもかかわらず、参加者は21名と、予想以上に多かったと思う。なにせ、自宅から最寄り駅に向うまで、小雨がぱらついていたくらいなので。
また私自身、紀路を歩くのはこれが初めてで、どんな道でも初めて歩く道はワクワクドキドキするものだ。なので小雨程度なら決行と決めていた。
残念ながら、その気持ちが失せると詰まらないと思う。老いが近い。「好奇心は力なり」である。

コース概略
南海高野線橋本駅_応其(おうご)_名古曽(なごそ)_中飯降(なかいぶり)_妙寺_笠田(かせだ)駅

反省会は9人で浪速区難波中2丁目の「にっぱち居酒屋 どやどや 難波店」。一人当たり1,730円とリーズナブル。また是非利用したい。
実はその前に「餃子の王将」難波南海通り店と、難波西店に行ったが、9人座れる場所が確保出来なかった。結果的にこれが幸いした。

画像はこの日歩いたGPSログを表示している。



11月15日(日)21:10 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

マンホール展3

御所市。ツツジはともかく、ロープウェーは電鉄会社のCMになっていないか。


五條市。市花がキキョウ。私にはキキョウに見えない。“五”の文字を金剛山に見立てているというが、金剛山の山頂付近は御所市。金剛山=五條市というイメージはない。


大和郡山市。やはり“金魚”が知られている。カラーと云っても、黒の他に白と赤だけだが、目立っている。


大和高田市。市木がサザンカとのことだが、あまり特徴がないように思える。


最後は奈良市。日頃見慣れている。説明文には八重桜とあるが、単なる八重桜ではなく“奈良八重桜”という品種のサクラと聞く。


11月12日(木)21:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

マンホール展2

王寺町。和の鐘と云われても、なんのこっちゃ。


広陵町。私の場合、広陵町と云えば、かぐや姫のような夢物語ではなく、現実的には靴下を強くイメージする。


大淀町。梨の栽培が盛んなので梨の花が使われているが、大淀町薬水、大阿太高原の梨は私の口には合わない。千葉産の梨は美味しいと思う。


香芝市。カシの木とスミレ。これといった特徴がないと思う。


生駒市。学研都市をイメージしているらしいが、学研都市でイメージするのは、生駒市でも奈良市でもなく、京都府精華町光台。


11月12日(木)21:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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