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2015年11月19日を表示

吉水神社1

「吉野を見ずして桜を語るなかれ」というそうだが、私は「吉水神社を見ずして吉野を語るなかれ」と云いたい。
吉水神社(よしみずじんじゃ)は、神社なのに拝観料が徴収される。400円也。
他に神社で拝観料を徴収されると云えば思いつくのは多武峰の談山神社くらい。但し、この神社は明治時代の神仏分離(廃仏毀釈)以前は寺院であり、多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)といった。
そして、この吉水神社もまたしかりで、明治時代以前は金峰山寺(きんぷせんじ)の僧坊吉水院(きっすいいん)だった。後醍醐天皇を仏式で供養することが問題視され神社への改組となった。

※吉野神宮の歴史 Wikipediaより
南朝の後村上天皇は、父の後醍醐天皇が延元4年(1339年)に崩御した後、その像を吉水院に安置した。以降、仏教式の供養が行われていたが、明治時代に入って神仏分離により明治6年(1873年)に吉水院を後醍醐天皇社という神社に改めた。2年後に吉水神社と改称して後醍醐天皇を祭神とする神社となった。このとき太政官政府は官費(国費)で別の神社を創建する考えを表明したが、そのまま棚上げになって時が経った。
明治22年(1889年)6月22日に、後醍醐天皇を祀る官幣中社吉野宮の創建が、明治天皇の意向で決定した。明治25年(1892年)に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。明治34年(1901年)に官幣大社に昇格し、大正7年(1918年)に吉野神宮に改称した。


画像は襖絵「群鶴」狩野山雪作。

※狩野山雪 サルヴァスタイル美術館のサイトより
狩野山雪は、17世紀の京都で活躍した京狩野派を代表する絵師。奇矯・奇怪とも評される垂直・水平を強調した幾何学性の強い理知的な装飾と、古画への深い造詣に基づきながら伝統的な画題を独自の視点で再解釈する斬新な画面構成で数多くの作品を制作。独自性が際立つ山雪の諸作品は近年、高い支持を集めており、再評価が進んでいる。



源義経・潜居の間。

※説明板より
文治元年十二月雪の降る中、源義経が兄の頼朝に追われてこの吉水院を頼り、静御前・弁慶等と共に約五日この部屋に身を潜め再起を計りました。しかし、すでに鎌倉から吉水院に義経追悼状が送られていて、義経はやむをえず山伏の姿に身を変え、大峰山へめざして弁慶等と共に吉野落をしました。
大峰山は女人禁制のため、静御前とはこの場所で悲しい別れをしました。愛する人を一人残して去らなければならなかった義経の苦しい胸中と、再会を信じ一途に恋慕った静御前の物語は、美しい悲恋物語として永く後世に伝えられました。
「吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」という静御前の歌が残され、歌舞伎や浄瑠璃で有名な「義経千本桜」の本舞台となりました。また、右手一畳敷の控えの間は「弁慶思案の間」と言い、弁慶がここで見張りをしながら一世一代の秘策を思案していたといわれています。



先の説明文にある「弁慶思案の間」。


後醍醐天皇玉座。

※「桃山式書院(帳台構)桃山時代」説明板より
この部屋は上段の間五畳と下段十畳敷で構成され、桃山期特有の帳台構に模様替えを施した書院で、当時の完成された豪華な書院造の様式と風格が示された典型的桃山書院です。この書院は御所造で、皇室特有の気品の高い飾り気の少ない清潔な要素が残されています。

※「後醍醐天皇玉座」説明板より
この部屋は延元々年、後醍醐天皇が京の花山院より秘かに吉野に行幸された時、この吉水院の宗信法印が三百名の僧兵を従え、天皇をここに御迎えし、天皇もこの御部屋を南朝の皇居と定められて吉野朝歴史の第一頁が始まりました。
天皇は建武の新政の大偉業のため日夜涙ぐましい御努力をなされ、血涙の御生活をされましたが、遂に王政復古の夢を果たせず延元四年にこの地で病により倒れられ、悲憤の最後を遂げられました。
「花にねて よしや吉野の吉水の 枕のもとに 石走る音」という有名な御製は、ここで御寝(おしずまり)の際に歌われたものです。

※「豊太閤 花見の居間」説明板より
文禄三年に秀吉が南朝を偲んで吉水院を本陣として盛大なる花見の宴を催し、この御部屋に約五日間滞在され、歌の会、茶の会、御能の会などを開いて豪遊され、一世の英雄がその権勢を天下に示しました。この部屋は秀吉の寄贈により修繕されたものです。
「年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」



11月19日(木)21:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理


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