山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2015年6月を表示

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)26

記憶通り林道のような広い道に出た。ここから先は今まで以上に歩き良い道が暫く続く。


軽トラだって走れそうに見える。


右下は急な崖になっていて、左上に尾根筋があるのだろう。斜面をトラバースしているが、道があまりにも広いので、トラバースしているというイメージではない。


やがて、てんこ山分岐に到着。当初は、てんこ山へ立ち寄ろうと思っていたが、パスしょうというYさんの意見に同意することにした。山頂からの展望はなく、登る山ではなく、眺める山だということは事前に知っていた。展望がないことを確認するのも詰まらない話で、どうしても山頂に立ちたいという気持は失せた。


また、この分岐からてんこ山はピストンとなることも面白くなかった。画像は分岐からてんこ山方向を撮影。それにしても、Yさんはあまり道草がお好きではないようだ。


6月30日(火)21:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)25

ここまで京都トレイルを歩いてきたが、予想に反して登山者は少ないという印象。


大きく開けた場所に出る。木に何か取り付けてあるので確認する。


「一乗寺 天子(てんこ)」と書かれている。このあたりの“字”だろう。すなわち左京区一乗寺天子。


分岐に立つ京都トレイル65の道標。ここも左は曼殊院・一乗寺・修学院方向への下山道。直進は水飲対陣碑・比叡山と表示されていた。


見覚えのある場所に到着。水路の溝は、山道をここまで歩いてきて初めて見たので記憶に鮮明に残っている。この先、林道のような広い道となる。


6月30日(火)20:48 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)24

左に下る舗装道路を見送り直進する。ここでは2人の登山者が昼食中。先ほど瓜生山の山頂で出会っていた。私たちが瓜生山を出発すると同時に頂上に登ってこられた。先を越されたのは、私たちが“見はらし台”に立ち寄ったからだろう。


分岐に立つ京都トレイル64の道標。左は曼殊院・一乗寺・修学院方向への下山道。直進は水飲対陣碑・比叡山。


登山道は急登がなく穏やかに続く。


尾根に沿って歩く道。


時々、左方向に展望が開ける。真下に見える小高い山は宝が池公園の東山だろう。


6月30日(火)20:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)23

尾根筋を快適に歩く。


虫こぶだろう。樹木はヤブツバキと見られる。


やがて分岐となる。


京都トレイル63の道標。比叡アルプス・一本杉・地蔵谷不動尊分岐を右に見送る。


この先又も分岐となる。


6月30日(火)20:46 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)22

「北白川城出丸 (北城) 白鳥山頂」の説明板。
※説明文より要旨を抜粋。「瓜生山に置かれていた本丸の東400mに白鳥山(331.3m)がある。この地は本丸より標高が高く、西側以外の眺望が効いた。このため、北白川城出丸(北城)が築かれていた。出丸には、本丸の物見の砦が建てられていた。」



事前情報の通り“見はらし台”とは名ばかりで、潅木が生い茂り展望はまったくなかった。


白鳥山頂を後にし、京都トレイルに戻る。画像は合流地点。


尾根筋歩きが続く。


ようやく左方向、京都盆地の展望が開けた。中央のグリーンベルトは宝が池公園だろうか。


6月30日(火)20:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)21

すぐに分岐となる。京都トレイルは直進だが、案内板にある“見はらし台”に立ち寄ることにした。但し、事前の情報では、“見はらし台”とは名ばかりで、潅木が生い茂り、展望はないらしい。


地図の破線の部分を歩く。


ここを訪れる登山者が多いのか、踏み跡は明確。よく歩かれている。


やがて平坦になったピークに到着。


「見はらし台 北白川城 北城出丸 高さ311m」。


6月28日(日)21:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)20

分岐を振り返って撮影。直進は(今歩いて来た)瓜生山経由北白川、左折は瓜生山を経由しない旧コース。


この先、左方向に展望が開けそうだったが、潅木に覆われ展望なし。


分岐となるが、ここは左折。


絵図では直進が地蔵谷不動院を示しているが、実際に歩いて来たイメージでは直進ではなく左折。


間違って直進する登山者が多いようだ。左折すると京都トレイルを示す黄色いテープが張られていた。


6月28日(日)21:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)19

すぐに分岐となる。左は狸谷不動巡礼道へ下る。ここは右へ。


少し下ると更に分岐。左は曼殊院を経て叡山電車修学院駅。ここも右へ。


サルノコシカケ。Sさんによると、色々と種類があるらしい。


尾根筋を快適に歩く。風が通っており、涼しくて歩きよい。


やがて分岐に到着。京都トレイル60-1の道標がある。画像の右手前方向は、比叡山旧コース。この分岐は瓜生山を経由しない旧コースとの出合い。


6月27日(土)21:06 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)18

お堂の後に元将軍地蔵の石室だけが残る。


石室の中には新しいお地蔵さんが安置されていた。


蛇の抜け殻を発見。これを財布に入れておくと、お金が溜まると、子供の頃聞いた。


私製の山名板。東山36峰の第8峰が瓜生山となっている。ここでは標高310mと表示。


京都トレイル59-3の道標。ここから北方向へ一旦下る。


6月27日(土)20:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)17

ここは少しばかり急な登り。瓜生山頂まで幾つかの童子像を見る。


画像は最後の童子。第三十六番 烏婆計(うばけい)童子像。この次は奥の院山頂となる。


見覚えのある瓜生山頂に到着。先客は居らず。


瓜生山頂 標高301米(仕伏町から標高差200米) 北白川城本丸跡 元勝軍地蔵
※日本列島がまだ現在の形に固まらない遥かな昔、この瓜生山の下へマグマ(高熱の岩奨)が貫入してきて比叡山より高い山が出来た。両隣の大文字山北側や比叡山の南側では、高熱のため古生層が変質して特殊な変成岩(ホルンフェルス)になった。四明岳頂上に露頭する将門岩はその珍しい好例である。一方、貫入したマグマは冷却して花崗岩となった。上に冠った古生層が流れ去り露出した花崗岩もまた太陽熱と雨水に浸食されて、長い年月の間に表面から徐々に崩壊して白川砂となって谷間を流下し、西南麓に緩斜面の広い砂質扇状地を形成した。この北白川扇状地は、今から一万年も前、縄文時代の原始人にとっての好適な生活の根拠地となった。この山が埋蔵する花崗岩(白川石)はきわめて良質だったから、その後平安時代以降、宮殿や寺院建築礎材に、また石仏や石燈籠など工業的に利用され、千年の都ひとの生活を豊かにし、白川砂は枯山水庭園に重要な役割をもつことになった。更に、この瓜生山山頂には、室町時代になると再々城郭が築かれ、南の如意ヶ岳城と共に足利将軍家、細川管領、三好長慶、松永久秀らが攻防を繰り返した。近江の戦国大名六角定頼がここへ安置したという勝軍地蔵は、江戸時代に入っても痘瘡無難の守りとして庶民の信仰深く、北白川門跡寺照高院二品忠誉法親王は山路険岨を案じて、宝暦十二年(1762)九月現在の勝軍地蔵山に石像を移された。これは今のバプテスト病院の西山である。そしてこの山頂にはお地蔵を安置した当時の石室だけが、奥の院と呼ばれる朱色のお堂の後方に移されている。北白川愛郷会



奥の院と呼ばれる小さなお堂。


6月27日(土)20:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)16

登山道右手に祠が現れる。


妙空蔵童子と彫られた童子像。先ほどの分岐から瓜生山頂まで狸谷不動・奥の院への巡拝路となっており、不動明王眷属三十六童子が祀られている。不動明王の脇侍として、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)の二童子はよく知られているが、さらに六童子を加えて八大童子を従える場合や、経典によっては四十八使者を従えると説くもの、そして狸谷不動のように三十六童子を従えるものがある。画像はその中の第三十二番 妙空蔵童子像。


尾根筋を快適に登る。気がつけば、登山開始の北白川仕伏町の取り付きから、この登山道は植林が一切なく、自然林の中を歩いていた。


第三十三番 普香王童子(ふこうおうどうじ)像。


逆光なので、フラッシュ撮影してみた。


6月26日(金)20:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)15

京都トレイルの道標。ここから尾根筋を歩く。分岐になっているが、左は行き止まり。


北白川愛郷会が設置した案内図。瓜生山は右へ。


再び分岐となる。


京都トレイル59-2の道標。


左は狸谷不動への下山道。ここは直進し頂上へ。


6月26日(金)20:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)14

ここが石切場。崖のようになっている。残念ながら画像では現地の臨場感はなかなか伝わらない。


キノコ。


あちこちにこのような砂の山が見られる。地下から砂が吹き出ているように見える。人為的なものには見えない。


登山道脇で見た「火の始末注意」。


登山道は切り通しとなり、左に小さくカーブする。この先、これまでの谷筋に変わって尾根筋歩きとなる。


6月26日(金)19:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)13

この分岐地点は、今年(2015)2月7日に、「えいでんハイク No.328 瓜生山_雲母坂梅谷道」で歩いていた。その時は左方向(西)から歩いてこの分岐に到着し、北へ向かった。瓜生山に登る幾つかあるルートの一つで、詩仙堂の南にある波切不動から石川丈山の墓を経て瓜生山に至る。今日は北白川(南)からこの分岐を経て北方向へ歩く。従ってこの分岐から先、水飲対陣跡碑の区間は一度歩いていた。この分かりにくい絵図を見て想い出した―笑。というのも、その時、白幽子巌居之跡に立ち寄ろうとしたが、この絵図では、その場所が何処なのかわからなかったので記憶に残っている。


京都トレイル58-3の道標。この道標の白幽子旧跡の位置がおかしい。この地図では白幽子旧跡はどうみても点線上に沿ってあると読めるが、実際は(今歩いて来た)実線上に沿ってある。前回歩いてここへ来た時は、通り過ぎてしまったと思った。


暫く歩くと案内板がある。


案内板は「清沢口石切場(白川の採取場跡)」となっていて、前回は素通りしたので、今日は是非立ち寄ることにした。


「清沢口石切場」の説明板。
※7千万年という遥かな昔のはなし、この瓜生山のあたりに地下のマグマが噴き昇ってきて地層の隙き間に貫入した。つまり噴火しないで溶岩が地表を押し上げて夥しくたまってしまったのである。その範囲は比叡山の南半から大文字山北半と言われる。しかも高さは比叡山を眼下に見下ろす程であった。この溶岩は徐々に冷却して巨大な一塊の花崗岩の山となった。押し上げられた表面の古生層の土や岩は陶磁器のように焼き入れられて、大部分は崩壊流失し、一部は変成岩(ホルンフェルス)となって残った。四明岳山頂の「将門磐」がその動かぬ証拠である。この山の花崗岩は化学組成とその比率や冷却期間の長かったせいなど相俟って、特に結晶粒子が大きく美しい「白川石」となったのである。しかも風光明媚な京都は平安京以前より貴神の住む土地なので、大建築に必要な石材の需要が永く途絶えなかった。白川は最適の供給場所であり、礎石や敷石から始まって燈籠、庭石、さては石仏、石鳥居に墓石にと最も細工に適した石材が無尽蔵であった。そして風化のため粉砕された「白川砂」さえも枯山水庭園に欠くことのできない化粧材料となった。白川の人々は先祖代々石工になった。山全体が花崗岩だといっても、場所によって多少の違いはある。石材を執る技術の幼稚な昔のこと、風化した表面や地下の石は採れないので、街道沿いや谷間が採取場となり、ここ「清沢口」や「石部谷」「蓬谷」一乗寺の「雲母坂」が知られている。江戸時代の名所だった白糸の滝、船石などもそれ故に消滅してしまった。土地の人々が採石よりも細工に優れていたことや、風致保護の土地柄から現在は採石されていない。大体噴出した溶岩は玄武岩や安山岩となるが、花崗岩は地中で徐々に冷却されてできる。このため石英と長石が十分結晶して大粒となり、これに黒雲母や角閃石が色どりを添えた美しい石となるもので、白川石は稀有元素を含む褐廉石も混っている。火成岩は冷却の過程で規則的な独特の割れ目ができるが、緻密な花崗岩にも専門家にしかわからない節理があり、これに沿って矢(くさび)を打ち込むと巨岩も思うように割れる。ここで採出した石は、狭い道は台車で、それより牛に曳かせて運んでいた。この清沢口では、途中である程度細工を施してから平坦地へ運ぶことも多かった。北白川愛郷会



6月26日(金)19:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)12

北白川愛郷会が設置した「白幽子巌居之跡」説明板。
※ここは白川の隠士松風窟白幽子が巌居した跡である。白幽子の名は慈俊、石川丈山の弟子となり、兄の克と共に丈山に使え丈山の死に水を取り、晩年ここに隠棲した。またここは白幽子が内観の法を白隠に伝授した所謂「夜船閑話」発祥の地でもある。「夜船閑話」は、後に臨済禅中興の祖と尊崇される白隠禅師が白幽子によって肺病を治癒した体験の名著である。この著書で白幽子の名と内観の秘法とは日本中に広まった。白隠は二十六才ごろ打ち続く侵食を忘れる猛修行で心身の調和が破れ、肺金焦枯の病を患った。今の肺病である。旅で美濃に在った白隠は人口から、京都比叡山麓白川に白幽子と名乗る一仙人があって稀代の医方により肺金を救うと聞き、直ちに白川に来て山中を尋ねこの巌窟に至った。巌窟の奥深く白髪は長く膝にたれ、柔らかい草のしとねに坐る白幽子に相見を許された。一見して白隠の偉相を観た白幽子は初めて白隠に内観気海丹田の法・・・人身長寿の秘訣を余すことなく伝授した。時に宝永七年(一七一〇年)正月半ばのことである。白隠はこの秘法によって起死回生して明和五年(千七百六十八年)八十四才まで長生した。明治の南画家富岡鉄斎百錬居士は夙に禅を学び、白幽白隠両祖対面の霊地保存を発起して、明治三十九年十月自ら建碑して、表に「白幽子巌居の跡」と書し、裏にその事績を記した。そしてこの巌居と白幽子が日常飲んだ清泉の不朽を計った。今も巌居の前に建つ碑がそれである。残念なことに戦後心無き者がこの碑を傷けた。然し禍を転じて福となすことなって、これを機にこの霊跡の保存と顕彰が京都円町の臨済宗妙心寺派法輪寺の前住職伊山和尚によって進められた。今の臨済禅の発展は白隠禅師を外して語ることは出来ない。その白隠禅師蘇生の大恩人が白幽子である。ひしひしとこの霊跡の重みを感じる。北白川愛郷会



大きな岩の上に登ってみる。


岩の上から撮影。


白幽子巌居之跡を後にし、落葉が積もる登山道を歩く。


やがて見覚えのある分岐に到着した。


6月25日(木)19:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理


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