山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


社寺仏閣

御出現!春日大社の神獣2

景雲殿の入口に置かれた案内板。
他の場所では、このような案内板は見かけなかったように思う。



左の画像は第一殿 狛犬。


第二殿の狛犬(左)と獅子(右)。


尚、館内の写真撮影は不可。
絵葉書を一枚100円だったか、販売していた。
あと、クリアケースなどのグッズも。
おしまい。



6月15日(水)18:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

御出現!春日大社の神獣1

奈良公園の春日大社境内、景雲殿(けいうんでん)で「御出現!春日大社の神獣」として、狛犬と獅子が特別公開されている。

サブタイトルは、-800年を経て御本殿獅子・狛犬初公開-。
拝観料:300円。
期間は6月1日から30日まで。(期間中無休)

パンフレットによると、
御造替にともない撤下された
獅子・狛犬4対8体は
その内6体が鎌倉時代の製作で、
800年もの間御本尊を鎮護してきたことが判明。
残る2体も他に類例を見ないユニークで愛らしい姿で
大変注目されます。
本展示は、初公開の8体の獅子・狛犬に加え、
春日権現験記(春日本)などの絵画や史料を展示。
獅子・神鹿、神鳥の絵図や彫刻など
神獣にスポットを当てるものです。


御出現!春日大社の神獣展 : 春日大社第六十次式年造替奉祝行事実行委員会



出品目録ほか。
ここでは、獅子と狛犬という表現をしているが、現在では両方併せて狛犬と呼んでいる。
尚、今回展示される8体はすべて木製。

狛犬 - Wikipedia によると、
狛犬(こまいぬ)とは、獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされる。像として神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多く、またその際には無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる。飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」と称すが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化している。



自宅から自転車で出かけた。
今、宝物殿が工事中で、景雲殿の場所が若干わかりにくい。
この案内に従って進もうとしたら、その先に「関係者以外立入禁止」の看板が立ってあったので引き返す。



一旦、本殿に向かい、西へ下ると社務所の手前に景雲殿があった。
画像は本殿を西側(景雲殿前)から撮影。



景雲殿の入口。
見学者は少ない。
境内は外国人で溢れていたが、この中は日本人のみ。



6月15日(水)18:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社8

祭神に楠正成公、吉水宗信法印公が合祀されている。


吉水神社、“一目千本”。


“一目千本”からの眺望。


吉水神社を後にする。尚、吉野山を訪れたのは2015年11月5日(木)。おしまい。


11月26日(木)18:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社7

「北闕門」(ほっけつもん)。吉水神社境内の北に位置する。

※吉水神社しおりより 吉水院(現吉水神社)は大峯山への入山許可書を発行する場所でした。古来よりここ「北闕門」で山伏達が無事平穏を祈り九字による邪気祓いを行ったと言われています。
■九字真法による邪気祓い
「九字真法」とは「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」(りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん)という九つの言葉を唱え、それに合わせて手を刀の型に見立てて陰陽道の「四縦五横」(たて4回よこ5回)に空を切る護身の為のお祓い法です。



説明文。この北闕門は、後醍醐天皇が南朝の皇居をかりそめの行殿とされ「露の身を、草の枕に置きながら、風にもよもと頼むはかなさ」いつの日か北闕(京都)に凱旋できる時を待たれていたが、悲しくも夢なかばにして南朝の皇居で崩御された。「玉骨は、たとえ南山(吉野山)の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕(京都)の天を望まんと思う」と悲痛な哀悼の御言葉を遺された。吉野一山挙げて、哀愁悲嘆の雲に掩われたが、後醍醐天皇の忠臣達がここで号泣したと伝えられる。


吉水神社境内から金峯山寺・蔵王堂を望む。


御神木。樹齢約四00年。ヤマザクラだろうか。


吉水神社は後醍醐天皇を主祭神とする。

※「吉」の正確な漢字表記は“「土」の下に「口」”。



11月26日(木)18:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社6

豊太閤愛用金屏風。「桜の図」 狩野永徳。


説明文。「桜の図」 桃山時代前期 狩野永徳筆。狩野派一門の代表的画人で天才の誇り高き永徳の晩年の作と云われるもので、咲きほこる桜花の優美さと風情にあふれる重厚な構図であり、有名な桃山百双の作品です。吉水神社秘蔵品。

※狩野永徳 サルヴァスタイル美術館のサイトより

日本絵画史上、最大の画派≪狩野派≫一族の中でも、随一の天才と謳われた大絵師。安土桃山時代に活躍し、素材(画面)から飛び出さんばかりの対象(巨木)の描写と力強い表現様式、いわゆる大画様式(大画方式)の確立。その勇壮でスケール感に溢れる力動的な表現は戦国時代の諸大名、特に織田信長や豊臣秀吉らから高い評価・信頼を得て、時代の寵児となったほか、巨匠・長谷川等伯や海北友松、雲谷等顔、曾我直庵ら同時代の名だたる絵師らにも多大な影響を与えた。



「竹の図」 狩野山雪。


説明文。「竹の図」 桃山時代後期 狩野山雪。山楽の高弟で理知的な画人として活躍した山雪の若年の作と云われるもので、新進気鋭らしい溌らつとして明快に画いた竹の構図であり、「桜の図」とは対照的な作品です。吉水神社秘蔵品。


11月25日(水)20:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社5

右から、柄香炉(えごうろ) 役小角(えんのおづぬ)所持、錫杖 役小角所持、※能作所寶珠、古瓦硯。
※能作生寶珠の誤り?



右、豊臣秀頼公寄進湯釜。


豊太閤愛用金屏風。


説明文。豊太閤愛用金屏風。文禄三年(1594)豊太閤が北政所(ねね) 関白秀次・徳川家康・前田利家等の諸侯と共にこの吉水神社を本陣として五日間宿泊し豪華な花見を催した時、この書院内にて盛大なる歌の会・茶の会・能の会を開いて豪遊した時に使用したもので豊太閤の愛用された有名な金屏風です。この度一般の皆様に特別公開している秘宝であります。


11月25日(水)20:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社4

右、後醍醐天皇御製色紙。「あふことの むなしきそらの うき雲は ゆくえもしらぬ ながめをぞする」。
中、村上義光所持の鐵鍔(てつつば)。護良親王の忠臣。重要文化財。
左、茄子形茶入、後醍醐天皇御物。金輪寺茶入、後醍醐天皇御勅作。



室町時代、桃山時代の能面の数々。


後醍醐天皇御物の石硯と竹文台硯箱。


役行者。


獅子頭。豊太閤寄附。桃山時代。


11月24日(火)21:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社3

弁慶の武装槍。弁慶七つ道具の一つ。


源義経所用の鎧「色々威腹巻」(いろいろおどしはらまき)。重要文化財。


源義経家来、佐藤忠信所持「兜」。


源義経所用の鐙(あぶみ)。


源義経所用の鞍(くら)。


11月24日(火)19:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社2

左は豊臣秀吉寄贈の「青磁の壷」。


蝉丸所持の「琵琶」。右は豊臣秀吉寄贈の「銅鐸」。

※蝉丸 Wikipediaより
蝉丸(せみまる、生没年不詳)は、平安時代前期の歌人、音楽家。古くは「せみまろ」とも読む。
管弦の名人であった源博雅が逢坂の関に住む蝉丸が琵琶の名人であることを聞き、蝉丸の演奏を何としても聴きたいと思い、逢坂に3年間通いつづけ、遂に8月15日夜に琵琶の秘曲『流泉』『啄木』を伝授されたという(『今昔物語集』巻第24 第23話)。



後醍醐天皇御物の「羊皮太鼓」。


神武天皇から昭和天皇まで「日本國歴代天皇御眞影」。


武蔵坊弁慶所持の「籠手」(こて)。


11月20日(金)21:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理

吉水神社1

「吉野を見ずして桜を語るなかれ」というそうだが、私は「吉水神社を見ずして吉野を語るなかれ」と云いたい。
吉水神社(よしみずじんじゃ)は、神社なのに拝観料が徴収される。400円也。
他に神社で拝観料を徴収されると云えば思いつくのは多武峰の談山神社くらい。但し、この神社は明治時代の神仏分離(廃仏毀釈)以前は寺院であり、多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)といった。
そして、この吉水神社もまたしかりで、明治時代以前は金峰山寺(きんぷせんじ)の僧坊吉水院(きっすいいん)だった。後醍醐天皇を仏式で供養することが問題視され神社への改組となった。

※吉野神宮の歴史 Wikipediaより
南朝の後村上天皇は、父の後醍醐天皇が延元4年(1339年)に崩御した後、その像を吉水院に安置した。以降、仏教式の供養が行われていたが、明治時代に入って神仏分離により明治6年(1873年)に吉水院を後醍醐天皇社という神社に改めた。2年後に吉水神社と改称して後醍醐天皇を祭神とする神社となった。このとき太政官政府は官費(国費)で別の神社を創建する考えを表明したが、そのまま棚上げになって時が経った。
明治22年(1889年)6月22日に、後醍醐天皇を祀る官幣中社吉野宮の創建が、明治天皇の意向で決定した。明治25年(1892年)に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。明治34年(1901年)に官幣大社に昇格し、大正7年(1918年)に吉野神宮に改称した。


画像は襖絵「群鶴」狩野山雪作。

※狩野山雪 サルヴァスタイル美術館のサイトより
狩野山雪は、17世紀の京都で活躍した京狩野派を代表する絵師。奇矯・奇怪とも評される垂直・水平を強調した幾何学性の強い理知的な装飾と、古画への深い造詣に基づきながら伝統的な画題を独自の視点で再解釈する斬新な画面構成で数多くの作品を制作。独自性が際立つ山雪の諸作品は近年、高い支持を集めており、再評価が進んでいる。



源義経・潜居の間。

※説明板より
文治元年十二月雪の降る中、源義経が兄の頼朝に追われてこの吉水院を頼り、静御前・弁慶等と共に約五日この部屋に身を潜め再起を計りました。しかし、すでに鎌倉から吉水院に義経追悼状が送られていて、義経はやむをえず山伏の姿に身を変え、大峰山へめざして弁慶等と共に吉野落をしました。
大峰山は女人禁制のため、静御前とはこの場所で悲しい別れをしました。愛する人を一人残して去らなければならなかった義経の苦しい胸中と、再会を信じ一途に恋慕った静御前の物語は、美しい悲恋物語として永く後世に伝えられました。
「吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」という静御前の歌が残され、歌舞伎や浄瑠璃で有名な「義経千本桜」の本舞台となりました。また、右手一畳敷の控えの間は「弁慶思案の間」と言い、弁慶がここで見張りをしながら一世一代の秘策を思案していたといわれています。



先の説明文にある「弁慶思案の間」。


後醍醐天皇玉座。

※「桃山式書院(帳台構)桃山時代」説明板より
この部屋は上段の間五畳と下段十畳敷で構成され、桃山期特有の帳台構に模様替えを施した書院で、当時の完成された豪華な書院造の様式と風格が示された典型的桃山書院です。この書院は御所造で、皇室特有の気品の高い飾り気の少ない清潔な要素が残されています。

※「後醍醐天皇玉座」説明板より
この部屋は延元々年、後醍醐天皇が京の花山院より秘かに吉野に行幸された時、この吉水院の宗信法印が三百名の僧兵を従え、天皇をここに御迎えし、天皇もこの御部屋を南朝の皇居と定められて吉野朝歴史の第一頁が始まりました。
天皇は建武の新政の大偉業のため日夜涙ぐましい御努力をなされ、血涙の御生活をされましたが、遂に王政復古の夢を果たせず延元四年にこの地で病により倒れられ、悲憤の最後を遂げられました。
「花にねて よしや吉野の吉水の 枕のもとに 石走る音」という有名な御製は、ここで御寝(おしずまり)の際に歌われたものです。

※「豊太閤 花見の居間」説明板より
文禄三年に秀吉が南朝を偲んで吉水院を本陣として盛大なる花見の宴を催し、この御部屋に約五日間滞在され、歌の会、茶の会、御能の会などを開いて豪遊され、一世の英雄がその権勢を天下に示しました。この部屋は秀吉の寄贈により修繕されたものです。
「年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」



11月19日(木)21:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理


(1/1ページ)


FX自動売買 | 禁断のケーキ | じゃらん♪ | さくらのVPS | パスキット
地震速報機 | 本のバーゲン | 恋活 | 家電バーゲン | 放射能測定器