山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2024年4月24日を表示

鷺池_南都鏡神社_上の禰宜道_二月堂5

天神社の鳥居を潜ると梅の花が満開。
青空に映えて素晴らしい。



天神社略縁起
当神社の境内地を含むこの丘陵一帯は、平城京がわが国の首都であった八世紀、平城(なら)の飛鳥(あすか)とよばれた聖地でありました。
ここにまず祀られたのが国つ神の中心の一柱である少彦名命で、手間天神とよばれ医薬や学問の神としてあがめられました。
平安時代になって、奈良の菅原の地を出自とする菅原道真の名声が高まり、道真の霊を祀る天満宮が各地に奉祭されるのにともなって、ここの神域にも相殿が建てられて御霊信仰の主神であり、学問勉学の神でもある菅原道真公の霊(天満天神)が併せ祀られることになりました。
社伝によると平安時代の白河天皇の時であるということです。
その後、元興寺禅定院あるいは興福寺大乗院の鎮守となり、近世には奈良奉行や近郷の信仰を集めて現在に到りました。
   天神社社務所



天神社から西へ下ると、右手に急な石段のある瑜伽(ゆうが)神社に至る。


瑜伽神社のこと

【御祭神】 宇迦御魂大神様(うがのみたまのおおかみ)
【御事歴】 別名を豊受大神と申しあげ、伊勢の神宮・外宮に鎮り坐す大神様と御同神であらせられます。
      即ち一粒の種から万倍の豊穣をもたらすように、無から有を生み、小を大に導いてくださる広大無辺の御神徳をおもちの大神様であらせられます。
      それ故縁結び、子孫繁栄、商売繁昌等福徳を招来して、人間生活の幸福をお守護くださる神と崇め奉っています。
【沿革】  上古、飛鳥神奈備に飛鳥京の鎮守として斎き祀っていた社を平城遷都と共にこの地に遷し奉って現在に至っております。
      そのことからこの山を「平城の飛鳥山」とも云い、現在は全域が歴史的風土特別保存地区(春日山特別保存地区)に指定されています。
      もとは元興寺禅定院の鬼門鎮守の社で、神社名は飛鳥古京の本宮に対して「今宮」と称していました。
      平安期になって藤原氏の権勢盛んになるにつれ、その氏寺である興福寺の大乗院がこの山麓に移されるに及び、さらにその鎮守社として幣物を奉って篤く崇敬され、社の名もその宗論の「瑜伽」となったのであります。



「瑜伽の玉乃井」と刻まれた手水鉢。

つづく。



4月24日(水)06:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鷺池_南都鏡神社_上の禰宜道_二月堂4

柄杓で水をすくって、網のところ(赤四角)に水を落すと、暫くして音色が楽しめた。


ふと、横を見たら、ちゃんと説明書きがあった―笑。


鷺池を後にして、南に向かう。
丘陵地となっており、住所は“高畑山ノ上町”。
画像は付近の案内図。
現在地を赤四角でマーキングしたが、地図が古く文字は読みにくい。



Tリーダーによると、冒頭で話した作家、川端彰彦氏が、昔このアパートに住んでいた。
現在は廃屋となっている。



「営業時間、お好み焼き、甘党」などと書いてあるので、ここは喫茶食堂の入口だったようだ。

つづく。



4月24日(水)06:36 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鷺池_南都鏡神社_上の禰宜道_二月堂3

「ケヤキ」と記されていた。


こちらの巨樹は「エノキ」。


荒池園地の樹木。


鷺池の浮見堂。
画像の左端に新婚さんの姿。(赤四角)



洞水門(どうすいもん)
洞水門は、地中に伏瓶を埋めるなど空洞を作り、そこにしたたり落ちる水が反響して琴の音色に聞こえるようにした仕組みです。
別名、水琴窟(すいきんくつ)とも呼ばれています。
水が奏でる音色をお楽しみください。
水琴窟

つづく。



4月24日(水)06:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鷺池_南都鏡神社_上の禰宜道_二月堂2

菊水楼旧本館の入口。
菊水楼|創業130年、賓客を迎え続けた奈良の老舗料亭



浅茅ヶ原園地に立つ石碑。
「阿さぢが原」と刻まれているようだ。



料理旅館 江戸三。


荒池園地にて鹿さんとご対面。


私は鹿に食べ物を持っていないポーズをした。

つづく。



4月24日(水)06:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鷺池_南都鏡神社_上の禰宜道_二月堂1

2024年3月10日(日)は、ササユリの会に参加した。
題して「作家川端彰彦の風景を歩く~奈良公園から高畑東大寺へ~」。

【コース】
近鉄奈良駅_鷺池浮御堂_瑜伽(ゆうが)神社_頭塔(ずとう)_新薬師寺前_南都鏡神社・昼食_白毫寺前_滝坂の道入口_上の禰宜道(ねぎみち)_二月堂_戒壇堂前_漢國(かんごう)神社・林(りん)神社_霊巌院(れいがんいん)_近鉄奈良駅
漢國神社・林神社及び霊巌院はTu氏より誘いがありYo氏と共に訪問した。

標題の作家川端彰彦氏について、ネット検索したがヒットしなかった。
尚、過去にTリーダーは彼と共著で単行本を発刊されている。

画像は当日歩いたGPSログを表示。
近鉄奈良駅から昼食場所の南都鏡神社まで南側のルートを歩き、昼食後、北側のルートを歩いた。



近鉄奈良駅から東向商店街を通り、途中、左折。(東)
画像は「西金堂跡」(興福寺)と刻まれている。



立派な常夜燈と、右奥の建物は南円堂。(なんえんどう)


植櫻楓之碑。


記念碑の右横に立つ説明板。

植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)
幕末の弘化三年(1846)から嘉永四年(1851)までの五年間奈良奉行を勤めた川路聖謨(かわじとしあきら)はその識見と善政によって住民から深く敬愛された。
この碑はその一端 彼の呼びかけで桜と楓の苗木数千株を東大・興福両寺を中心に南は白毫寺西は佐保川堤まで植樹した時の記念碑である。
多くの苗木を寄附した奈良の住民たちの自然景観への愛着と配慮、また後世の人に補植を呼びかけたその先見の鋭さは奈良公園愛護の教訓として敬服のほかない。
なお彼は大坂町奉行 外国奉行等幕閣に重きをなし慶応四年三月十五日(1868 明治元年)江戸落城の報に自尽して幕政に殉じた。

つづく。



4月24日(水)06:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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