和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡15 |
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| 「石上廣高宮伝称地」と刻まれた石碑。
現地の案内板によると、 平尾山案内記 平尾山稲荷神社の境内を中心として平尾山の大部分は旧地名を「宮の屋敷」といった。 日本書紀によると第24代仁賢天皇の石上広高宮や、その御父市辺押磐皇子の石上市辺宮は、この「宮の屋敷」の地にあったと考証されている。 更に東方には大塚、うわなり塚など5世紀頃の大きな前方後円墳や何十という古墳が残っている。 又明治16・17年には神社の東方100mの地より2個の銅鐸が出土して、この地域が古代の文化中心地帯であったことを立証した。 特に前記仁賢天皇の時代は大和朝廷の所在地として、わが国政治・文化の中心だったのである。 これは今から1500年も昔のことであるが、その後奈良時代から平安時代も平尾山の麓には民家が建ち並び、石上寺・在原寺・六坊寺・薬師堂などの寺院が営まれた。 「在原寺縁起」によると第51代平城天皇の皇子阿保親王は石上の在原の地に住まわれ、承和2年(835)に平尾山にあった補陀落山本光明寺を在原に移して在原寺を創建しその本尊十一面観音を迎えておまつりをしたということである。 また親王の子で六歌仙の一人とうたわれた在原業平朝臣は、この石上で産まれ平尾の神の氏子として幼名を平尾丸と名付けられた。 「宮の屋敷」というのは石上広高宮の屋敷という意味であったかもしれないが、後には宮址に祀られた平尾のお宮の屋敷と考えられてきた。 第61代醍醐天皇の時に編纂された延喜式に記されている石上市神社はこのお宮のことである。 この神社は江戸時代の中頃に石上村の鎮守として現在の石上の民家付近に移されたが、稲荷神社はこの旧地のお宮にお残りになった。 これが正一位平尾姫丸稲荷大明神で宇賀御魂の神を祀る。 この稲荷神社は昔から石上村に限らず遠近の人々から篤く信仰され、五穀豊穣、家内安全、商売繁昌を祈願する人々、平尾丸の在原業平のように賢い子供をという親心から信心する人々など跡を絶たず。 特に初午の早春のころ参詣者で一山を埋めるにぎわいを呈する。 【一部割愛】 昭和40年3月 撰文 仲川明
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| 平尾姫丸稲荷大明神を後にし西へ歩くと、稲荷大明神の鳥居が建つ。
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| 更に、参道から向かって、鳥居の前には立派な常夜燈が建っていた。
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| 参道を西に向かって下る。
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| すると、石上市神社に出合う。 扁額には「石上市神社」と記されている。 金網のようなもので、扁額を覆っているので字が見ずらい。
平尾姫丸稲荷大明神にあった「平尾山案内記」に記載されていた、 「江戸時代の中頃に石上村の鎮守として現在の石上の民家付近に移された」のがこの神社を指しているようだ。 【参考】 神奈備 石上市神社
つづく。
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4月17日(水)06:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡14 |
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| 石上銅鐸 (弥生時代後期) このあたりは、明治16~17(1883~1884)年に相次いで弥生時代の銅鐸が出土したとされる場所です。 地元住民が畑を耕していた際に偶然見つかったもので、出土した銅鐸2個は現在いずれも宮内庁が所蔵しています。 銅鐸研究史上著名な資料で、「 石上銅鐸 」として知られています。 大正12年(1923)におこなわれた発見者への聞き取り調査によると、明治16年(18863)3月頃に見つかった1号銅鐸は、現在地付近から北に「約二十六尺(約8m)」の場所に、地表から「一尺五六寸(約50cm)」の深さに埋められていたとされています。 また、およそ一年後の明治17年(1884)年4月6日に見つかった2号銅鐸は、1号銅鐸の見つかった場所から「北東北約五十尺(約15m)」の場所に、地表から「約二尺(約60cm)」の深さに埋められていたとのことです。 1号銅鐸・2号銅鐸ともに弥生時代後期初頭(約2000年前)に位置づけられており、銅鐸が打ち鳴らすものとしての機能を失い、次第に形骸化・大型化した祭祀具へと変化しつつある段階のものです。 いずれの銅鐸にも流水文が施されており、2号銅鐸びは特徴的な二人の人物表現もみられます。 銅鐸は弥生時代の青銅器文化を代表する遺物です。 全国で約500例ほどの出土例の多くは集落から離れた丘陵や山の斜面で見つかっており、石上同多雨もその一例として数えられています。 平成22(2010)年12月 天理市教育委員会
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| 暫く歩くと、右手に鳥居が幾つも並んでいた。
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| 社号標には「正一位 平尾姫丸稲荷大明神」と刻まれている。
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| まるで伏見稲荷の参道のようだ。
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| これは道標。 「左 正一位 平尾 姫丸 稲荷大明神」。 道標はこの場所へ移されたようだ。
つづく。
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4月17日(水)06:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡13 |
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| 道標が立つ分岐で「山の辺の道」から離れ直進。(西)
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| すぐに車道に出合いこれを横断。 この後に向かう「正一位 平尾姫丸稲荷大明神」の幟が見えた。
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| 西方向に伸びる道を歩く。 左側は農園。 右側は雑木林となっている。
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| 右側、竹林の入口付近に、案内板と石碑らしきが立っていた。(赤四角)
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| 「石上銅鐸出土地」と刻まれている。 よく見ると、石碑は真っ二つに割れ、セメントで修復しているようだ。
つづく。
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4月17日(水)06:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡12 |
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| 案内板に記されている“天理砂岩”だろう。(赤矢印)
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| 坂道を暫く登ると「石上大塚古墳」の案内板が立っていた。 この日は立ち寄ることなくスルーすることに。
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| この道標には「平尾山(左)」と記されている。 天理市石上町(いそのかみちょう)の東にある山が平尾山と呼ばれている。 尚、この後、平尾山にある「平尾姫丸稲荷神社」に立ち寄った。
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| 歩く方向が北から西方向に変わる。 竹が蔓延ったやや薄暗い山中を歩く。
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| 水道施設(石上低区配水池)の横を通り抜ける。
つづく。
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4月17日(水)06:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡11 |
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| 山の斜面に小屋が建っている。 人が出入りしている様子がないので閉めているのかもしれない。
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| 暫く歩くと画像のような石柱が埋められていた。 「越ノ国用地」と刻まれているようだ。 越ノ国とは、古代における呼称で、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域。 すぐには、合点がいかなかったが、この土地は天理教の越乃國大教会信者詰所の所有地ということだろう。
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| コースはこの先、左方向の登り道となる。 正面は牛小屋の跡地?で行止り。
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| 道標と電信柱にもハイキングコースの表示板がある。(赤四角) そして、道標の横に案内板が立っていた。(赤矢印)
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| 狂心渠(たぶれこころのみぞ)・つながりしは石上山から飛鳥の宮へ
斉明天皇は、飛鳥の地で宮地を転々と移された。 天皇は工事を好まれ、香久山の西から石上山(現天理市豊田山)まで水工に溝を掘らせ、運河を通した。 そして、舟二百隻に石上山の石(現天理砂岩)を積み、流れに従って下り、両槻宮の東の山に石を積み重ねて垣とした。 時の人々は謗って、「たぶれ心の溝工事。無駄な人夫を三万人余り。垣造りの無駄は七万人余り。宮材は腐り、山頂は潰れた」と言い、また、「石の山岡を造っても、造った端からこわれるだろう」と謗ったという。 (思うに、あるいはまだなかなかでき上らない時、この謗りをしたのだろうか。) 天理市・天理市観光協会
つづく。
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4月17日(水)06:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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