和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡11 |
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| 山の斜面に小屋が建っている。 人が出入りしている様子がないので閉めているのかもしれない。
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| 暫く歩くと画像のような石柱が埋められていた。 「越ノ国用地」と刻まれているようだ。 越ノ国とは、古代における呼称で、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域。 すぐには、合点がいかなかったが、この土地は天理教の越乃國大教会信者詰所の所有地ということだろう。
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| コースはこの先、左方向の登り道となる。 正面は牛小屋の跡地?で行止り。
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| 道標と電信柱にもハイキングコースの表示板がある。(赤四角) そして、道標の横に案内板が立っていた。(赤矢印)
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| 狂心渠(たぶれこころのみぞ)・つながりしは石上山から飛鳥の宮へ
斉明天皇は、飛鳥の地で宮地を転々と移された。 天皇は工事を好まれ、香久山の西から石上山(現天理市豊田山)まで水工に溝を掘らせ、運河を通した。 そして、舟二百隻に石上山の石(現天理砂岩)を積み、流れに従って下り、両槻宮の東の山に石を積み重ねて垣とした。 時の人々は謗って、「たぶれ心の溝工事。無駄な人夫を三万人余り。垣造りの無駄は七万人余り。宮材は腐り、山頂は潰れた」と言い、また、「石の山岡を造っても、造った端からこわれるだろう」と謗ったという。 (思うに、あるいはまだなかなかでき上らない時、この謗りをしたのだろうか。) 天理市・天理市観光協会
つづく。
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4月17日(水)06:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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