京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)35 |
|
 |
| 「大本山 東福寺山内案内図」。改めて全体図を見ると、その広大な敷地と塔頭の数に驚いた。大寺院である。
| |
 |
| 正面が仏殿。(本堂) 右が禅堂となっている。
| |
 |
| 経蔵。
| |
 |
| 東福寺の駒札。
東福寺
恵日山(えにちざん)と号し、臨済宗東福寺派の大本山である。藤原道家が嘉禎(かてい)二年(一二三六)東大寺、興福寺と並ぶ大寺の建立を発願して東福寺と名付け、禅僧円爾弁円(えんにべんえん)(聖一国師)を開山に招いて、建長七年(一二五六)完成した。その後火災を受けたが、室町初期に道家の計画通りに再建され、京都五山の一つとして栄え、多くの伽藍、塔頭が建ち並び、兵火を受けることもなく明治に至った。明治十四年に惜しくも仏殿、法堂など中心部を焼失したが、今なお堂々たる中世禅宗の寺観を保っている。 三門(国宝)は室町初期の作、禅宗三門として最古の遺構である。禅堂(禅僧の坐禅所)、東司(とうす)(便所)、浴室も室町時代の建物(重要文化財)でいずれも禅宗建築の重要な遺構である。本堂、方丈は近時の再建で、開山堂に至る渓谷には多くの紅葉があって通天橋が架かり、また偃月橋、臥雲橋が架けられて紅葉の名所をなしている。 京都市
| |
 |
| 禅堂。
| |
|
Feb.29(Mon)18:50 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)34 |
|
 |
| やがて東福寺卧雲橋(がうんきょう)までやって来た。このあたり紅葉の季節となると大変な人出となる。
| |
 |
| 右側に京都市立月輪小学校の校門を見る。
| |
 |
| 「東山を歩いて楽しむ散策コース(部分図)」。これによると、赤色の「川の手コース」と青色の「山の手コース」がある。 我々は東福寺駅までは「川の手コース」を歩き、九条通の高架下を潜って、交番の前を左折して退耕庵前を経て現在地までやってきた。 途中から「山の手コース」を歩いていることになる。 この後、更に南へ歩き、光明院の先、地図には記載がないが、永明院、南明院を過ぎて、その先の交差点を南西方向へ辿る。 地図に我々がここまで歩いて来たコースと光明院から先の歩くコースを緑色で付け加えた。 (赤色と青色以外の部分)
| |
 |
| 卧雲橋の橋上から東福寺通天橋を眺める。
| |
 |
| この先、左折して日下門(にっかもん)を潜る。
| |
|
Feb.29(Mon)18:48 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)33 |
|
 |
| この塔頭は他の塔頭と違って入口の扉が開いていたことと、日の丸が揚がっていて、何かしら開放的に見えたので少しお邪魔することにした。
| |
 |
| その前に、この一番上の字は何と読むのだろうか。見たこともない漢字。 先の説明板によると、“じゅうまん”と読むことを後で知った。
| |
 |
| 裏面には「文久二壬戌年臘月吉辰」の銘。
| |
 |
| 「じゅうまん不動明王」を観たい気がかなりあったが、今日は歩くことが目的なので拝観はまたの機会にしたいと思った。それに拝観料200円を徴収されるなら、時間を気にせずにじっくりと観たいものだ。画像は境内に植栽されていた。杉だろう。
尚、ネット検索すると、この不動明王を撮影した画像があった。 それにしても「火除けをはじめ除災の霊験あらたかな不動明王」というのは頻繁に聞くものではない。
同聚院(東福寺 塔頭)木造不動明王坐像
| |
 |
| 同聚院を後にして南へ歩く。右手に一華院(いっかいん)の山門が現れるがそのまま通過。
| |
|
Feb.29(Mon)18:47 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
ラジオ体操_2月出席状況 |
|
 |
| 近隣地域で行われているラジオ体操に2015年6月24日より参加している。
2月の出席状況は18/29日で出席率63%。 前月の出席率は71%で前月よりダウンしている。
中盤、連休したのは天気が悪かったから。 雨、或いは雨模様の場合欠席する。 自宅から会場まで自転車で20分かかる。 この間に、雨が降られると、どうしょうもないから家を出る時、小雨がぱらついていたら欠席する。 また、歩く会に参加する日で、集合時間が早い場合も欠席。 そして二度寝、三度寝で寝過ごしてしまうケースもある。
これからも無理のない範囲で参加したい。 また、先日買った「ラジオ体操は65歳以上には向かない」(書籍)を合わせて読みたい。
| |
|
Feb.29(Mon)18:46 | Trackback(0) | Comment(0) | 日常 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)32 |
|
 |
| 霊源院。(れいげんいん) 東福寺には二十五の塔頭寺院があり、霊源院もその中の一つ。
| |
 |
| 栗棘庵。(りっきょくあん) 同じく東福寺の塔頭。
| |
 |
| 明暗寺。
Wikipediaによると、明暗寺(みょうあんじ)は、京都市東山区にある普化正宗総本山の寺院。山号は虚霊山。本尊は虚竹禅師像。尺八根本道場。時代劇でよく虚無僧が「明暗」という文字を掲げた偈箱を着けており、一見宗教的な意味を持っているように見えるが、実際は「私は明暗寺の所属である」という程度の意味である。 鎌倉時代末期、天外明普が虚竹了円を開山と仰ぎ、京都白川に創建した。明治4年(1871年)に廃仏毀釈により廃宗廃寺となったが、明治23年(1890年)に東福寺の塔頭である善慧院に「明暗教会」として復興された。さらに昭和25年(1950年)に「宗教法人普化正宗明暗寺」として再興された。
明暗寺に虚無僧の音
| |
 |
| 同聚院。(どうじゅいん)
| |
 |
| 同聚院の駒札。
臨済宗東福寺派に属する東福寺の塔頭寺院の一つ。 東福寺の寺地一帯は、平安時代中期に藤原忠平が法性寺(ほっしょうじ)を建立した所で、寛弘三年(一〇〇六)には、藤原道長が四十歳の賀に当たって、五大明王を安置する五大堂を境内に造営した。その後も、藤原氏が法性寺の造営に力を入れたが、鎌倉時代初期には衰微し、その故地に九條道家が東福寺を建立したのである。 本寺は藤原道長が建立した五大堂の遺跡で、五大明王のうち不動明王坐像(重要文化財)が幾多の災害を越えて祀られている。像は仏師定朝の父・康尚の作品で、像高二百六十五センチメートル、忿怒(ふんぬ)相の中にも優美さをたたえた藤原美術の代表彫刻の一である。「じゅうまん不動(じゅうまんふどう)」と称され「じゅうまん」の字を書いた屋守護の符が配布されている。「じゅうまん」は土地の守護を表す「土力」、又は十万の一族・従者を従えるという意味の「十万」の二字を一字にした文字といわれ、火除けをはじめ除災の霊験あらたかな不動として信仰が深い。 京都市
| |
|
Feb.29(Mon)14:26 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)31 |
|
 |
| 東福寺北大門。桃山時代。京都府指定文化財。
| |
 |
| 東福寺仁王門。重文。但し、仁王さんはご不在―笑。 以前、この仁王門の向こうに幼稚園があったが、閉園されたらしい。
| |
 |
| 退耕庵。「戌辰役殉難士菩提所」の石柱が立つ。
| |
 |
| 退耕庵(たいこうあん)
臨済宗東福寺の塔頭寺院である。貞和二年(一三四六)東福寺第四三世住持性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃したが、慶長四年(一五九九)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興された。 客殿は、再興寺に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉の没後、客殿の中にある茶室作夢軒で、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが、関が原の戦いの謀議を行ったと伝えられている。 庭園は、書院をはさんで南北二庭からなり、南庭は美しい杉苔に覆われた枯山水庭園で、北庭は池泉式庭園となっている。 地蔵堂に安置する高さ約二メートルの地蔵菩薩像は、体内に小野小町に寄せられた多数の艶書を収めていたことから「玉章(たまずさ)地蔵」の名で知られている。なお、慶応四年(一八六八)の鳥羽伏見の戦いの際には、東福寺に長州藩の陣が置かれていたことから、当庵はその戦いの殉難者の菩提所となっている。 京都市
| |
 |
| 「經王地蔵」と彫られていた。
| |
|
Feb.28(Sun)20:59 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
豆豆菜菜・あすか野店でランチ |
|
 |
| 豆豆菜菜(まめまめさいさい)という名前のレストラン、以前、奈良市押熊の「ならコープおしくま」の近くにあったが閉店した。
その時から、一度、食べに行こうと思っていたが、それが今日になった。 私達家族が行ったのは「あすか野店」で、所在地は生駒市上町。
「あすか野店」
豆豆菜菜 あすか野店_facebook
この他、奈良市登美ヶ丘3丁目にも店がある。 自宅からだとこちらの店の方が断然近い。 豆豆菜菜
コロッケランチ定食を注文した。一番お手頃なランチ。 家庭料理という感じで、特別に凝った料理ではない。 大豆を多く使った料理でヘルシー。 だが、全体的に味付けが濃いという印象。
ライスは五穀米をチョイスしたが、ベトベトしていて、美味しいとは思わなかった。 五穀米の他に選べたライスは何だったか忘れた。
食後のコーヒーがついて税込1200円。 コーヒーはイマイチ。自宅で飲むほうが美味しい。
この日は予約が2組入っていた。 もう一度、行くかと云われれば、家族はノーとの返事。 私はノーではないが、積極的に行きたいとは思わない。
| |
 |
| 店内の様子。スタッフは5人ですべて女性。
| |
|
Feb.28(Sun)20:59 | Trackback(0) | Comment(0) | グルメ | Admin
|
ラジオ体操は65歳以上には向かない |
|
 |
| なんとも衝撃的なタイトルである。私は65歳以上ではないが、このタイトルを見て、興味が湧いたので、読んでみることにした。
「ラジオ体操は65歳以上には向かない」 著者:戸田佳孝 太田出版 2016年3月1日第1版
目次は下記の通り。 はじめに 「ラジオ体操さえすれば健康でいられる」は間違い 序章 なぜ、ラジオ体操が65歳以上に向かないのか 第一章 ラジオ体操を過信するとこんなに危ない 第二章 ラジオ体操の「効果」を検証する 第三章 ラジオ体操は現代にそぐわない 第四章 ラジオ体操を補足する下半身の運動 おわりに 最後まで自分の脚で歩ける生活を送るために
一気に読めそう。
ラジオ体操は65歳以上には向かない - 太田出版
| |
|
Feb.28(Sun)20:58 | Trackback(0) | Comment(0) | 日常 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)30 |
|
 |
| 東福寺駅のすぐ南に九条通の高架があり下を潜る。
| |
 |
| 高架下にあった「伏水街道第二橋」。この下は暗渠となっているのかどうか不明。親柱のみらしい。
| |
 |
| 四本ある親柱のうち、南西の親柱に保存の経過や発起人の名前が記されている。「本町十五丁目 清水茂吉・・・」。
| |
 |
| 高架を潜ってすぐ右手にあった和菓子屋「鶴屋弦月」のショーウインドー。
| |
 |
| やがて左手(東)に東福寺北大門が現れる。
| |
|
Feb.27(Sat)20:40 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)29 |
|
 |
| 瀧尾神社を後にする。 時間は丁度正午となったので、近くの喫茶店リトルドラゴンで昼食にした。 「カツめし」といえば、加古川市あたりの郷土料理だと思っていたが、ここでも食べられるようだ。おまかせランチとなっているのでこれを注文。
| |
 |
| 店内の様子。「カツめし」は通常1000円なので、お得なセットメニュー。食べた感想は特別に美味しいとは思わなかったが、また食べてもよいと思った。
| |
 |
| 40分ほど居て店を出た。
| |
 |
| 店のすぐ前が東福寺駅でJR奈良線・京阪本線共通の駅舎となっている。
| |
 |
| 駅前に立つ「仲恭天皇九條陵(ちゅうきょうてんのう くじょうりょう) / 崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵(すとくてんのうちゅうぐうこうかもんいんつきのわみなみりょう) / 参道」。
| |
|
Feb.27(Sat)20:40 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)28 |
|
 |
| 拝殿に置かれた注意書き。まず本殿にお参りしてから、拝殿の龍を観る。下足厳禁。 この日はウォーキングシューズだったので、すばやく靴を脱いで、スリッパに履き替えた。
| |
 |
| 拝殿の天井に施された彫刻。 中国語で何やら注意書きが吊るされていた。「公告 修復的龍首因・・・」。
| |
 |
| 龍の彫刻を観て思わず息を呑んだ。
| |
 |
| 少し埃を被っているようだが、圧倒的なスケールに驚いた。 どこかのお寺では、拝観料を徴収してもおかしくない。靴を脱いで観て正解。
| |
 |
| (右から)盥漱所と彫られた手水舎。 裏面には「天保十一庚子年 正月吉辰」の銘あり。
| |
|
Feb.27(Sat)20:39 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)27 |
|
 |
| 「天保五甲午歳」の銘のある石燈籠。正面には「御寳前」、社殿に向かって左側面には「×月吉日」と彫られていた。
| |
 |
| 拝所とその奥に幣殿、本殿と続く。
| |
 |
| 拝所に見られる懸魚(げぎょ)の鳳凰。(中央)
| |
 |
| 同じく拝所の柱の獅子。
| |
 |
| 本殿脇には狛犬ならぬ“狛猿”。奉幣(ほうべい)猿と呼ばれている。
| |
|
Feb.26(Fri)20:19 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)26 |
|
 |
| やがて大和大路通は泉涌寺道と出合って三叉路となり、ここ東山泉小中学校西学舎の南側の道で終わる。 「京の古道を歩く」(著)増田潔 光村推古書院によると、江戸時代の地誌「山城名跡巡行志」からの引用で、昔の街道(大和大路)は一町東にあるとしている。 国文学研究資料館
泉涌寺道を西へ歩き左折(南)。ほどなく左手に瀧尾神社の鳥居を見る。
瀧尾(たきのお)神社
瀧尾神社の創建、由緒ははっきりしないが、天正14年(1586)10月、豊臣秀吉の方広寺大仏殿建立に伴い、当地に移ってきたと伝える。また、当社は、泉涌寺の僧の守るところであったともいわれる。 京の豪商下村家は、当社を崇敬すること篤く、元文3年(1738)以降、数度にわたって社殿の修復を行ってきた。現在の社殿も下村家の援助により、天保10年(1839)から翌11年にかけて造営されたものである。 本殿は、「北山貴船奥院御社」旧殿を移建、一部改築したもので、その前に幣殿、拝所、東西廊が並び、これらの建物がそれぞれ屋根を錯綜させながら、変化に富んだ空間を構成して独特の社殿景観を形成している。また、各社殿に施された豊富な彫刻装飾は、京都市内では珍しい。 当社は、本殿、拝殿、絵馬舎、手水舎など一連の社殿が境内にまとまって現存し、江戸時代後期の中規模神社の形態を知るうえで貴重であり、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。 京都市
| |
 |
| 拝殿。
| |
 |
| 絵馬堂に奉納されていた額。 「嘉永二年 己酉 正月吉日 松榮講」、「油小路通山田 石川屋儀兵衛」の銘がある。
| |
 |
| こちらの店舗の絵には暖簾に大丸の印が入っている。
| |
 |
| 案内はなかったが、大丸京都店のビルと見られる。
瀧尾神社と大丸
| |
|
Feb.26(Fri)20:18 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)25 |
|
 |
| 塩小路通を西へ少し歩いて大和大路通に出合いこれを左折。(南) やがて大和大路通は東海道本線で寸断されるので陸橋を渡る。
| |
 |
| 東山区今熊野池田町、東海道本線に架かる陸橋上から東方向を撮影。 右側に見えるのは大谷中高等学校の運動場。
| |
 |
| この先、東山泉小中学校の運動場に「伏水街道第一橋」が復元されていた。 “伏見街道”を昔は“伏水街道”と呼んでいたようだ。
伏水街道の橋 徘徊の記憶によると、東山山麓から流れ出て鴨川にそそぐ河川が伏見街道に交差する箇所に4本の橋が架けられ、北から一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋と呼ばれていた。現在、一ノ橋と二ノ橋の川は暗渠となり元の橋の位置と異なった場所に親柱が保存されている。三ノ橋と四ノ橋は伏見街道の橋として使用されている。いずれの橋の親柱にも伏見街道ではなく“伏水街道”とある。
| |
 |
| 尚、手持ちの資料では、一橋(いっきょう)小学校となっていたが、小中一貫教育の方針により東山泉小中学校となった。
| |
 |
| 付近の地図では、まだ一橋小学校と表示されている。
| |
|
Feb.26(Fri)20:17 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|
京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)24 |
|
 |
| 紅梅が見頃を迎えていた。
| |
 |
| 旧法住寺御陵正門。(法住寺竜宮門)
| |
 |
| 蓮華王院、南大門。 桃山時代の建築で重文。慶長五年(1600)、豊臣秀頼によって建立。
| |
 |
| 築地塀。(太閤塀)これも重文。 桃山時代の造営で方広寺の南限を意味するために建てられた。
| |
 |
| 豊臣家の家紋、五七の桐。
| |
|
Feb.25(Thu)20:42 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin
|